伝統工芸一覧

日本各地に受け継がれる伝統工芸を、ジャンル・地域から検索できます。

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318 件

安中打刃物
金工群馬

安中打刃物

Annaka Uchihamono

安中打刃物は、群馬県安中市で受け継がれてきた鍛造の農具・刃物です。安中市はかつて養蚕が盛んな土地で、明治時代から農作業に欠かせない鍛造農具を作る鍛冶職人が数多く活動し、旧安中市内には鍛冶にちなんだ地名が今も残っています。熱した鉄や鋼を何度もハンマーで打ち鍛えて成形する「打ち刃物」の技法は、日本刀づくりの技術に連なるもので、型を使って大量生産される刃物とは異なり、一本一本を職人の手で仕上げるのが特徴です。草カキや手鍬といった農具は耐久性としなやかな使い心地を備え、包丁や刈込鍬などの刃物は鋭い切れ味を誇ります。現在も本家松永製作所や山崎製作所といった鍛冶屋が、昔ながらの手仕事を守りながら、修理を重ねて長く使い続けられる道具を作り続けています。

伊賀焼
陶器三重

伊賀焼

Iga Yaki (Iga Ware)

伊賀焼(いがやき)は、三重県伊賀市の丸柱(まるばしら)地区を中心に焼かれている陶器です。起こりは奈良時代ごろにさかのぼるとされ、地元では約1200年の歴史を持つ焼き物と紹介されています。原料は、約400万年前の古琵琶湖の湖底に積もった「古琵琶湖層」の粘土です。焼くと細かな気孔が多くでき、熱をよく蓄えるため、土鍋や行平(ゆきひら)などの調理具に向きます。桃山時代には茶の湯の流行とともに、ゆがみの大きい豪快な花入や水指が焼かれました。登り窯の炎が生む緑色のガラス質「ビードロ」や「焦げ」は、古伊賀の見どころとされます。五島美術館が所蔵する重要文化財「古伊賀水指 銘 破袋(やぶれぶくろ)」は、その代表作です。江戸時代前期の後に窯は一時途絶えましたが、中期に再興され、以後は土鍋などの日用品が主力となりました。1982年(昭和57年)に国の伝統的工芸品に指定されています。

伊香保焼
陶器群馬

伊香保焼

Ikaho-yaki

伊香保焼は、群馬県渋川市の伊香保温泉で明治11年(1878年)に陶芸家・篠田仙果が窯を開いたことに始まる陶器です。粘土や釉薬に伊香保温泉の「湯の花」を用いる独自の製法が特徴で、鉄分を多く含む湯の花を使うことで、器は黄色や茶褐色、黒など温泉地ならではの豊かな色合いに発色します。しかし仙果の他界とともに窯の火は途絶え、伊香保焼は長らく「幻の焼き物」となっていました。その後、地元の陶芸家・木暮陶句郎が古い文献をもとに独自に研究を重ね、伊香保焼の復活に取り組んでいます。現在は伊香保温泉街近くの陶句郎窯で作品が制作・展示販売されているほか、電動ろくろや絵付けの体験も行われており、伊香保温泉の湯の花を生かした一点物のうつわづくりを、旅の思い出として楽しむことができます。

越前和紙
和紙福井

越前和紙

Echizen Washi

越前和紙は、福井県越前市の今立地区で漉かれてきた手漉き和紙です。産地は大滝・岩本・不老・新在家・定友の5つの集落からなり、「五箇(ごか)」と呼ばれます。およそ1500年前、岡太川の上流に現れた女神「川上御前」が村人に紙漉きを教えたという伝説が残り、女神は紙祖神として岡太神社に祀られています。奈良時代には写経用紙として使われ、やがて武家に重んじられた高級紙「越前奉書」を生みました。江戸時代の福井藩札や明治新政府の太政官札の用紙も、この地で漉かれています。原料は楮・三椏・雁皮で、奉書紙や鳥の子紙、襖紙など、用途に応じた多彩な紙を作り分けます。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。越前和紙の里では、紙漉きの見学や体験ができます。

会津塗
漆器福島

会津塗

Aizu-nuri

会津塗は福島県会津若松市を中心に受け継がれてきた漆器で、国から経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。天正18年(1590年)に会津の領主となった蒲生氏郷が、産業振興のため漆工芸を奨励したことで本格的に根付いたとされ、400年を超える歴史を誇ります。木地師・塗師・蒔絵師がそれぞれ専門の工程を分業で担う点が特徴で、丸物(椀など)と板物(重箱など)で塗師が分かれているのも会津ならではです。江戸中期の藩政改革では消粉蒔絵など新たな加飾技法が導入され、螺鈿・漆絵・乾漆・沈金など多彩な技法が今日まで継承されています。鶴亀や松竹梅といった縁起の良い意匠を用いた華やかな加飾と、花塗(塗り立て)による温かみのある艶が魅力で、椀や重箱から現代的なアクセサリーまで幅広い製品が作られています。

岩槻人形
木工埼玉

岩槻人形

Iwatsuki Ningyo

岩槻人形は、さいたま市岩槻区で作られる雛人形・五月人形・木目込人形・衣裳人形などの総称で、平成19年(2007年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。起源は寛永年間(1634〜1647年)、日光東照宮の造営に集められた工匠たちが日光御成街道の宿場町であった岩槻に住み着き、周辺に自生する桐を使った指物や人形作りを始めたことにあるとされます。さらに元禄10年(1697年)には京都堀川の仏師・恵信が岩槻に滞在中、桐粉と正麩糊を練り固めて人形の頭を作り始めたとも伝わります。以来約380年にわたり、頭師・手足師・着せつけ師・小道具師による分業体制が受け継がれ、日本一の人形生産地として発展してきました。現在も「人形のまち岩槻」として多くの人形店・工房が軒を連ね、雛人形・五月人形の生産量は全国でも屈指を誇ります。

宮城伝統こけし
木工宮城

宮城伝統こけし

Miyagi Dento Kokeshi

宮城伝統こけしは、江戸時代末期に東北地方の温泉地で子どもの土産物として生まれた木地玩具「こけし」のうち、宮城県内で育まれた4つの系統――鳴子系・遠刈田系・弥治郎系・作並系――を総称する呼び名です。1981年(昭和56年)6月22日に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。遠刈田こけしは文政年間(1818~1830年)にはすでに作られていたとされ、こけし発祥の地の有力候補とされる一方、近年は仙台市作並温泉を起源とする説も注目されています。頭部を胴にきつく差し込んで首を回すと音が鳴る鳴子系、大きな頭に赤い髪飾りを描く遠刈田系、ベレー帽のようなろくろ模様が特徴の弥治郎系、かに菊模様の作並系。系統ごとに形状や描彩がまったく異なる点が、宮城伝統こけしの大きな魅力です。今も各温泉地では工人が一本一本を手作業で挽き、素朴で温かみのある表情を今に伝えています。

桐生絞り
染物群馬

桐生絞り

Kiryu-shibori

桐生絞りは、絹織物の産地として知られる群馬県桐生市で発展した絞り染めです。桐生は古くから染め・織り・絞りの技術に長けた産地として知られ、その中でも桐生絞りは、伝統的工芸品である桐生織の反物に絞りの技法を自由な発想で組み合わせて作られる点に特色があります。絣や縞、格子に織り上げた桐生織の生地に絞り染めを施すため、織物としても染物としても味わえる独特の仕上がりとなり、染め・織り・絞りの三つの技術が一体となった斬新で繊細な作品が生まれます。絞りは一点ごとに手作業で行われるため、同じ柄でも仕上がりに個性が出るのも魅力です。2003年(平成15年)1月23日、群馬県知事により「桐生絞」として群馬県ふるさと伝統工芸品の指定を受けました。

桐生織
織物群馬

桐生織

Kiryu-ori

桐生織は群馬県桐生市を中心に織られる絹織物で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。その歴史は奈良時代にまでさかのぼり、和銅7年(714年)に朝廷へ絹織物「あしぎぬ」を納めたことが『続日本紀』に記されています。江戸時代には西陣や西洋の技術を取り入れながら発展し、幕府からも厚遇を受けて「西の西陣、東の桐生」と称されるほどの一大産地となりました。糸をあらかじめ染めてから織り上げる先染め紋織り(ジャカード織り)を基本とし、お召織・緯錦織・経錦織・風通織・浮経織・経絣紋織・綟り織という7つの技法を用いる点が最大の特徴です。1977年に伝統的工芸品の指定を受け、現在も桐生織物協同組合を中心に、きもの地や帯地、金襴地、服地から和洋小物まで幅広い製品が作られています。

甲州印伝
染物 / 漆器山梨

甲州印伝

Koshu Inden

甲州印伝は、山梨県甲府市で作られる鹿革の工芸品です。なめして染めた鹿革に型紙を置き、漆を刷り込んで模様を付けるのが最大の特徴です。「印伝」の名は、南蛮貿易の頃にインドから伝わった装飾革に由来するといわれます。江戸時代後期、甲府の上原勇七が鹿革に漆付けする技法を考え出したことが、甲州印伝の始まりとされています。江戸時代には各地で印伝が作られましたが、その製法が今に残るのは甲州だけです。技法には漆付けのほか、藁を焚いた煙で革を色付ける「燻べ(ふすべ)」と、色ごとに型紙を替えて多色の柄を表す「更紗(さらさ)」があります。鹿革は柔らかく丈夫で軽く、使うほど手になじみます。漆の模様は時がたつほど色が冴え、深みのある光沢を帯びていきます。1987年に国の伝統的工芸品に指定されました。甲府市の印傳屋本店2階には、印伝の歴史と模様を紹介する印傳博物館があります。

堺打刃物
金工大阪

堺打刃物

Sakai Uchihamono (Sakai Forged Knives)

堺打刃物(さかいうちはもの)は、大阪府堺市を中心に作られている包丁や鋏などの刃物です。16世紀にポルトガルから鉄砲とたばこが伝わると、堺ではたばこの葉を刻む「たばこ包丁」が作られるようになりました。江戸幕府はその品質を認め、「堺極(さかいきわめ)」の極印を打って売ることを許したとされます。これが全国に名を広め、やがて出刃包丁などの料理包丁へと発展しました。製作は、刃の形を打ち出す「鍛造」、刃を研ぎ上げる「刃付け(研ぎ)」、柄をすげる「柄付け」の分業で行われます。軟らかい地金に硬い刃金を鍛接した包丁は、折れず曲がらずよく切れるといわれます。プロの料理人が使う和包丁では、国内シェアの約9割を占めるともいわれます。1982年(昭和57年)に国の伝統的工芸品に指定されました。

駿河竹千筋細工
木工静岡

駿河竹千筋細工

Suruga Take Sensuji Zaiku (Suruga Fine Bamboo Ware)

駿河竹千筋細工(するがたけせんすじざいく)は、静岡市で作られている竹工芸品です。竹を細く割って丸く仕上げた「丸ひご」を、竹の輪にあけた穴へ一本一本差し込んで組み上げます。他の産地の多くが平たいひごを編むのに対し、丸ひごを「組む」ことで、すっきりとした直線と優美な曲線を生み出します。静岡では弥生時代の登呂遺跡から竹製品の跡が見つかっており、古くから竹細工が暮らしに根付いていました。江戸時代には「駿河細工」と呼ばれ、東海道を行き交う大名や旅人に親しまれます。天保11年(1840年)、岡崎藩士の菅沼一我(すがぬまいちが)が丸ひごの技法を伝え、現在の繊細な作風の礎が築かれたといわれます。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。花器や虫かご、菓子器のほか、行灯(あんどん)や風鈴なども作られています。

小千谷縮
織物新潟

小千谷縮

Ojiya Chijimi

小千谷縮は、新潟県小千谷市を中心に織られる苧麻(ちょま)の麻織物です。苧麻はラミーとも呼ばれる植物で、その繊維は長く、ハリとコシがあります。緯糸(よこいと)に強い撚りをかけて織り、仕上げに湯もみをすることで、布の表面に「シボ」と呼ばれる細かなしわが生まれます。このシボのおかげで肌にべたつきにくく、通気性と吸湿性に優れた夏の着尺地として親しまれてきました。江戸時代初期、播州明石から来たと伝わる堀次郎将俊(明石次郎)が越後の麻布に改良を加えたことが始まりとされます。2月から3月の晴れた日には、織り上げた反物を雪原に広げる「雪さらし」が行われ、小千谷の風物詩となっています。1955年(昭和30年)に国の重要無形文化財、1975年(昭和50年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。2009年(平成21年)には、越後上布とともにユネスコ無形文化遺産に登録されています。

常滑焼
陶器愛知

常滑焼

Tokoname-yaki

常滑焼は愛知県常滑市を中心とする知多半島一帯で焼かれる炻器(せっき)で、越前焼・信楽焼・丹波立杭焼・備前焼・瀬戸焼とともに「日本六古窯」の一つに数えられます。起源は平安時代末期の12世紀頃、丘陵地に穴窯が築かれ、山茶碗や三筋壺などの「古常滑」が焼かれたことに遡り、六古窯のなかでも最大規模の生産地として発展しました。江戸時代後期の1835年には陶工・鯉江方救が登り窯を完成させ、1850年代には代表格である朱泥焼が誕生しました。明治以降は土管や衛生陶器、タイルなど産業用陶器の一大産地として発展し、現在は酸化鉄を多く含む陶土を用いた朱泥急須をはじめ、茶碗・花器・招き猫まで幅広い製品が作られています。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。

信楽焼
陶器滋賀

信楽焼

Shigaraki-yaki

信楽焼は滋賀県甲賀市信楽町を中心に焼かれる陶器で、瀬戸・常滑・丹波・越前・備前と並び日本六古窯の一つに数えられます。鎌倉時代に隣接する常滑の技術を受けて開窯したとされ、桃山時代には茶の湯の道具として珍重されました。一般には愛嬌のある狸の置物で広く知られていますが、本来は壺や甕から茶陶、タイル、植木鉢、現代アートまで幅広い製品を手がける産地です。狸の置物が全国的に有名になったのは昭和26年(1951年)、昭和天皇の信楽行幸の際、日の丸を持たせた狸を並べて奉迎したことが新聞で報じられ話題を呼んだことがきっかけとされます。土に含まれる鉄分がもたらす温かみのある緋色や、薪の灰が溶けて生まれるビードロ釉など、土と炎が織りなす素朴な景色が信楽焼最大の魅力です。

信州紬
織物長野

信州紬

Shinshu Tsumugi

信州紬は、長野県の各地で織られてきた絹織物の総称です。上田紬・松本紬・飯田紬・伊那紬、天蚕糸を使う有明紬(あづみの紬)や山繭紬など、地域ごとに発達した紬をまとめてこう呼びます。信州は古くから「蚕の国」と呼ばれるほど養蚕が盛んな土地でした。江戸時代初期に各藩が養蚕を奨励し、生糸にしにくい繭を真綿にして紡ぎ、農家の副業として織るようになったのが始まりとされます。糸は草木染めで先に染め、手投杼(てなげひ)で緯糸を打ち込む手織りで、縞・格子・絣・無地調に仕上げます。主な製品は着物地や帯、羽織で、近年は洋服やバッグ、ストールも作られています。1975年に国の伝統的工芸品に指定されました。上田市や駒ヶ根市の工房では、手織りの機織り体験ができます。

西陣織
織物京都

西陣織

Nishijin-ori

西陣織は京都市北部の西陣地域を中心に生産される先染めの高級絹織物の総称です。糸を先に染めてから文様を織り出す「紋織物」であり、爪掻本綴織・経錦・緯錦・緞子・朱珍・紹巴など、国の伝統的工芸品に指定された12種の技法が伝わります。起源は5〜6世紀頃に大陸から伝わった織技術にまで遡るとされ、平安時代には宮廷の織部司のもとで発展しました。応仁の乱後、避難していた織手たちが西軍の陣地跡で織物業を再開したことから「西陣」の名がついたと伝えられています。江戸時代には大名や豪商に愛用される高級織物として名声を確立し、現在も帯地を中心に日本の着物文化を支え続けています。図案作成から染色、製織まで多くの専門職人が分業で関わり、多品種少量生産の体制を守っている点も大きな特徴です。

大館曲げわっぱ
木工秋田

大館曲げわっぱ

Odate Magewappa

大館曲げわっぱは、秋田県大館市で作られる木工品で、天然秋田杉の柾目材を薄く剥いで熱湯につけて柔らかくし、円筒形に曲げてから山桜の樹皮で縫い留める技法を用います。大館郷土博物館には平安時代のものとされる曲げ物の遺物も所蔵されており、素朴な曲げ物づくり自体は古くから行われていたと考えられていますが、産業として本格的に発展したのは17世紀後半のこと。大館城主・佐竹西家が領内の財政難と下級武士の困窮を打開するため、豊富な秋田杉資源を活用した曲げ物づくりを副業として奨励したことが直接の起源とされます。杉特有の美しい木目に加え、適度な調湿性・通気性を持つことから、詰めたご飯の余分な水分を吸収して美味しさを保つとされ、弁当箱やおひつとして近年改めて注目を集めています。1980年(昭和55年)10月には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

置賜紬
織物山形

置賜紬

Oitama Tsumugi

置賜紬は、山形県南部の置賜地方(米沢市・長井市・西置賜郡白鷹町)で織られる紬織物の総称です。米沢藩主・上杉鷹山が藩の財政再建のため殖産興業政策として織物業を奨励したことに端を発し、米沢紬、長井紬、白鷹紬という3つの産地がそれぞれ独自の技法を育みながら発展してきました。米沢紬は紅花や草木を用いた染めの美しさ、長井紬は緯総絣や経緯併用絣の精緻な柄、白鷹紬は全国でも白鷹町の織元でしか継承されていない「板締め絣」による繊細な小絣模様が特徴です。1976年(昭和51年)、これら3産地の紬が「置賜紬」として経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。素朴で温かみのある風合いと、手仕事ならではの絣模様の美しさが多くの着物愛好家を惹きつけています。

博多人形
陶器福岡

博多人形

Hakata Ningyo

博多人形は福岡市博多区を中心に作られてきた素焼きの土人形で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。起源は1600年、黒田長政の筑前入国に伴って多くの職人が博多に集められ、その中から素焼き人形づくりの技が生まれたと伝えられています。木偶師による細工物人形、瓦師の系譜を引く宗七焼、江戸末期に土俗玩具を手がけた中ノ子吉兵衛の系譜など複数の流れが合わさって発展しました。彩色を施した後に絵付けをせず焼き締める点や、写実性の高い「美人もの」をはじめ、歌舞伎や能、武者、干支、福助など多彩な題材を写実的かつ繊細に表現する点が特徴です。明治期にはパリ万国博覧会など海外の博覧会で高い評価を受け、日本を代表する人形として世界に知られるようになりました。

美濃焼
陶器岐阜

美濃焼

Mino-yaki

美濃焼は岐阜県東濃地方の多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市を中心に1300年以上作り続けられてきた陶磁器の総称で、国内で流通する食器類の約6割を生産する日本最大の陶磁器産地です。特定の様式や技法に縛られない点が最大の特徴で、桃山時代の茶の湯文化とともに生まれた志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒をはじめ、経済産業大臣指定の伝統的工芸品としては15品目もの技法・様式が認められています。素朴な白釉の志野焼、大胆な緑釉と自由な文様の織部焼など、多彩な表情を持つやきものが同じ「美濃焼」の名のもとに生み出されており、日用の器から茶陶まで幅広い用途で親しまれています。

房州うちわ
木工千葉

房州うちわ

Boshu Uchiwa

房州うちわは千葉県館山市・南房総市(房州地方)で作られる伝統的なうちわで、京都の京うちわ、香川の丸亀うちわと並び「日本三大うちわ」の一つに数えられます。平成15年(2003年)には千葉県で初めて国の伝統的工芸品に指定されました。房州の温暖な気候で育つ女竹(めだけ)は、節と節の間が広く軽くしなやかで、うちわの骨に最適な材料とされています。竹の丸みをそのまま柄として活かす「丸柄(まるえ)」が最大の特徴で、他産地のうちわには見られない持ちやすさとしなやかな風を生み出します。1本の竹を40〜64等分に細かく割いて糸で編み上げ、扇形の「窓」を作る工程をはじめ、全21工程がすべて職人の手作業によって行われています。大正末期から昭和初期には年間700〜800万本もの房州うちわが作られる一大産地となりましたが、生活様式の変化とともに生産量は減少し、現在は数少ない職人が伝統を守り続けています。

有田焼
陶器佐賀

有田焼

Arita-yaki

有田焼は佐賀県有田町を中心に生産される磁器で、日本における磁器発祥の地として知られます。1616年(元和2年)頃、朝鮮出兵の際に肥前へ渡った陶工・李参平が有田東部の泉山で良質な陶石を発見し、天狗谷窯で日本初の白磁を焼いたことが起源とされます。江戸時代には染付を基調とした初期伊万里に始まり、1640年代には赤を主調とする色絵の柿右衛門様式、藩窯による献上品専用の鍋島様式、金彩を施した豪華な金襴手など多様な様式が花開きました。伊万里港から積み出されたことから「IMARI」の名で東インド会社を通じヨーロッパへも大量に輸出され、西洋の陶磁器文化にも影響を与えました。1977年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も陶山神社や有田陶器市など、町全体が窯業とともに息づいています。

琉球びんがた
染物沖縄

琉球びんがた

Ryukyu Bingata

琉球びんがたは沖縄県那覇市首里を中心に受け継がれてきた染色技法で、赤・黄・青・緑・紫など南国の陽光を思わせる大胆で鮮やかな色使いと、デイゴやアダン、魚など沖縄の自然をモチーフにした伸びやかな文様が特徴です。起源は14〜15世紀頃とされ、中国やインド、ジャワの更紗染めなど交易を通じて伝わった技法を琉球独自に消化して生み出されたと考えられています。琉球王府の保護のもとで発展し、王族や士族の礼装、神事の装束として用いられ、当代随一の絵師や型彫師が下絵や型紙の製作にあたりました。多色使いで華やかな「紅型」と、藍の濃淡のみで染め上げる落ち着いた色調の「藍型(えーがた)」に大別されます。型紙彫り・糊置き・色差し・隈取りといった工程をほぼ一つの工房内で分業しながら手作業で仕上げるため、一枚の生地が完成するまでに多くの手間と時間を要します。1984年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、現在も着物や帯だけでなく、のれんやポーチなど日常づかいの品にも展開されています。

輪島塗
漆器石川

輪島塗

Wajima-nuri

輪島塗は石川県輪島市で作られる漆器で、堅牢な下地作りと多彩な加飾技法を特徴とする日本を代表する漆工芸品です。起源には諸説あるものの、文明8年(1476年)には輪島に塗師がいたことが史料から確認されており、桃山時代の天正10年(1582年)には既に輪島独自の下地材である「地の粉」が使われていたと伝わります。木地の弱い部分に麻布を貼って補強する「布着せ」と、珪藻土を焼成した地の粉を漆に練り込んで塗り重ねる本堅地技法により、割れやすい欠点を克服した頑丈な漆器として発展しました。江戸後期には椀講と呼ばれる訪問販売の仕組みが確立し、全国に販路を広げます。18世紀に完成した加飾技法「沈金」、19世紀初めに会津から伝わった「蒔絵」も輪島塗の代名詞となり、1975年には国の伝統的工芸品に、1977年には重要無形文化財に指定されました。塗り上げまでに20以上の工程、総手数では100を超える手仕事を経て作られる、堅牢さと華やかさを兼ね備えた漆器です。

伊勢崎絣
織物群馬

伊勢崎絣

Isezaki-gasuri

伊勢崎絣は群馬県伊勢崎市とその周辺で生産される絹織物で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。産地の歴史は古墳時代の麻織物出土品にまでさかのぼるともいわれ、江戸時代後期に商品としての生産が本格化しました。明治13年(1880年)には伊勢崎太織会社が設立されて品質と生産量が向上し、大正から昭和初期にかけては模様銘仙「伊勢崎銘仙」の生産量が全国の約半分を占めるほどの黄金期を迎えました。手くくりや板締めなどで染め分けた糸を用いる絣技法を得意とし、なかでも経糸と緯糸の両方に絣糸を使って精緻な柄を織り出す「併用絣」は伊勢崎だけで発展した技法とされています。1975年に伝統的工芸品の指定を受け、現在も伊勢崎織物協同組合・伊勢崎織物工業組合を中心に技術が受け継がれています。

伊万里焼
陶器佐賀

伊万里焼

Imari-yaki

伊万里焼は、有田周辺で焼かれた磁器が積み出し港である伊万里港から各地へ運ばれたことに由来する呼び名です。江戸時代に海外へ輸出された古い有田焼は「古伊万里」と呼ばれ、現在では特に伊万里市大川内山で焼かれる磁器を指すことが多くなっています。大川内山は1675年に佐賀藩鍋島家が藩窯を有田から移転させた地で、将軍家や諸大名への献上品・贈答品を焼く「秘窯の里」として発展しました。山あいの谷にあるこの地には技術の漏洩を防ぐための関所が置かれ、職人たちは一生をこの地で過ごしたと伝えられます。明治以降に一般販売が始まり、1873年のウィーン万国博覧会にも出品されました。精緻な染付と気品ある色絵を特徴とし、現在も約30の窯元が伝統の技を守り続けています。

越前焼
陶器福井

越前焼

Echizen-yaki

越前焼は、福井県丹生郡越前町を中心に作られている陶器です。瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前と並ぶ「日本六古窯」の一つに数えられます。産地としての始まりは約850年前の平安時代末期で、常滑窯など東海地方の技術を取り入れて焼き締め陶の生産が始まりました。釉薬をかけずに高温で焼き締めるため、硬く丈夫な器になります。窯の中で薪の灰が溶けて生まれる黄緑色の自然釉が、素朴な美しさを添えます。室町時代後期には壺・甕・すり鉢を主力に、日本海側最大の窯業地へと発展しました。1986年に国の伝統的工芸品に指定され、2017年には六古窯の一つとして日本遺産にも認定されています。越前陶芸村では、窯元の器を選んだり、陶芸を体験したりできます。

塩沢紬
織物新潟

塩沢紬

Shiozawa Tsumugi

塩沢紬は、新潟県南魚沼市の塩沢地区を中心に織られる絹の先染め織物です。先染めとは、糸を染めてから布に織る方法のことです。塩沢地方では古くから麻織物が織られ、奈良時代の天平年間にこの地で織られた麻布が正倉院に残されています。この麻織物、すなわち越後上布の技術を絹に取り入れ、江戸時代中期の明和年間(1764〜1771年)ごろに生まれたのが塩沢紬と伝えられます。経糸に生糸や玉糸、緯糸に真綿から手で紡いだ糸を使い、手括りや手摺り込みで染めた絣糸を1本1本合わせて織り上げます。蚊絣(かがすり)と呼ばれるごく細かな絣や、十字絣・亀甲絣の繊細な模様が、上品で落ち着いた趣を醸し出します。1975年(昭和50年)2月に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。同じ塩沢の産地には「塩沢お召」の名で親しまれてきた本塩沢もあり、こちらは1976年(昭和51年)12月に別の伝統的工芸品として指定されています。

京友禅
染物京都

京友禅

Kyo-yuzen

京友禅は、江戸時代前期の元禄期に京都で生まれた模様染めの技法で、絵画のように華やかで優美な意匠を布地に描き出すのが特徴です。扇絵師として人気を博していた宮崎友禅斎が、自らの画風を染めのデザインに取り入れたことが始まりとされ、幕府による奢侈禁止令で絞りや刺繍などの派手な装飾が制限された時代に、糊で防染しながら絵画的な文様を染め出す友禅染めとして広まりました。下絵、糸目糊置き、色挿し、引き染め、蒸し、水洗い(水元)といった多くの工程を経て一枚の着物が完成し、各工程を専門の職人が分業で担う体制が特徴です。明治期には化学染料と型紙を用いる型友禅(写し友禅)が考案され、量産も可能になりました。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、日本三大友禅の中でも最も歴史が古い染色技法として今日に受け継がれています。

近江上布
織物滋賀

近江上布

Omi-jofu

近江上布は琵琶湖東岸の湖東地域、現在の愛荘町・東近江市を中心に織られてきた麻織物で、昭和52年(1977年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。室町時代から続くとされる麻織物の産地で、江戸時代には奈良晒・越後縮と並び称される高級麻織物「高宮布」として、近江商人の手により全国へと流通しました。緯糸に大麻や苧麻の手績み糸を用いる「生平」と、絣模様を織り出す「絣」の二系統があり、盛夏用の高級着尺地として珍重されてきました。麻特有のさらりとした肌触りと通気性の良さから、近代には夏用の蚊帳地としても広く用いられ、近江の暮らしを支えてきました。現在は愛荘町の近江上布伝統産業会館を拠点に、数少ない伝統工芸士によって技術が受け継がれています。

九谷焼
陶器石川

九谷焼

Kutani-yaki

九谷焼は石川県南部の加賀地方で焼かれる色絵磁器で、赤・黄・緑・紫・紺青の五色を用いた「九谷五彩」による華やかな絵付けを最大の特徴とします。始まりは明暦年間(1655〜1657年)、加賀藩の支藩・大聖寺藩の初代藩主前田利治が、領内の九谷村で磁鉱が発見されたことを機に、金工師の後藤才次郎に命じて色絵磁器を焼かせたことに遡ります。この時期に焼かれた作品は後に「古九谷」と呼ばれ、大胆な構図と力強い塗り埋めの絵付けで高く評価されました。しかし九谷村の窯は約50年で廃窯となり、以後およそ100年間、生産は途絶えます。江戸後期になると加賀・大聖寺の各地で古九谷の再興を目指す窯が相次いで開かれ、これを「再興九谷」と呼びます。吉田屋窯や宮本屋窯、永楽窯などが個性を競い合いながら技術を発展させ、今日に続く九谷焼の基礎を築きました。現在は石川県南部の金沢・小松・加賀・能美の各市を中心に生産され、1975年には国の伝統的工芸品に指定されています。

甲州手彫印章
文具山梨

甲州手彫印章

Koshu Hand-carved Seals

甲州手彫印章は、山梨県で作られる手彫りのはんこです。印面の文字のデザインから字割り、字入れ、荒彫り、仕上げまで、すべての工程を昔ながらの道具で手作業により行います。始まりは、御岳山系で良質で大きな水晶の鉱脈が見つかったことでした。水晶を加工する職人や篆刻家(てんこくか:印を彫る芸術家)が育ち、その技が印章づくりへと受け継がれていきます。中心産地の市川三郷町六郷地区は「日本一のはんこの里」と呼ばれ、彫刻から卸、印章ケースの製造まで、はんこに関わる業種が集まっています。印材には水晶のほか、ツゲや水牛の角なども使われます。水晶の手彫り印章は、山梨県以外ではほとんど作られていません。1994年に山梨県郷土伝統工芸品、2000年に国の伝統的工芸品に指定されました。六郷の印章資料館では、印章の歴史に触れられ、篆刻体験もできます。

山形鋳物
金工山形

山形鋳物

Yamagata Imono

山形鋳物は山形市を中心に約900年の歴史を持つ鋳物工芸です。平安時代後期の康平年間(11世紀半ば)、源頼義に従軍した鋳物師が馬見ヶ崎川流域の砂と土質が鋳型づくりに適していることを見出し、この地に住み着いたのが始まりと伝えられています。江戸時代には最上義光が城下町を整備した際、鋳物師町(現在の銅町)を設けて職人を集住させ、産地としての基盤を築きました。南部鉄器の重厚で装飾的な作風に対し、山形鋳物は薄肉で繊細な鋳肌を活かした簡素な美しさが特徴とされ、茶の湯釜や鉄瓶、花瓶といった生活工芸品から梵鐘や灯籠まで幅広く手がけられています。1975年(昭和50年)、経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。近年は鉄瓶や風鈴に加え、インテリア雑貨など現代の暮らしに合う新しい製品づくりにも取り組まれています。

四日市萬古焼
陶器三重

四日市萬古焼

Yokkaichi Banko Yaki (Yokkaichi Banko Ware)

四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)は、三重県四日市市を中心に作られている陶磁器です。江戸時代中期、桑名の豪商・沼波弄山(ぬなみろうざん)が、現在の朝日町小向に窯を開いたのが始まりです。弄山は作品に「萬古」や「萬古不易(ばんこふえき)」の印を押しました。作品がいつまでも変わらず伝わるようにという願いが込められ、これが名前の由来となりました。弄山の没後に途絶えましたが、江戸時代後期に桑名の森有節らが再興します。幕末から明治にかけては、四日市の山中忠左衛門が量産できる陶法を確立し、地場産業へと育てました。代表的な製品は、あずき色の「紫泥(しでい)急須」と、耐熱性に優れた土鍋です。土鍋は国内生産の約8割を占めるとされます。現在は四日市市と菰野町を中心に100社以上の窯元が集まる、全国有数の陶磁器産地です。1979年(昭和54年)に国の伝統的工芸品に指定されました。

駿河雛具・駿河雛人形
木工静岡

駿河雛具・駿河雛人形

Suruga Hinagu and Suruga Hina Ningyo (Suruga Doll Furnishings and Hina Dolls)

駿河雛具(するがひなぐ)と駿河雛人形(するがひなにんぎょう)は、静岡市を中心に作られているひな祭りの飾りです。どちらも1994年に国の伝統的工芸品に指定されました。雛具は、箪笥(たんす)や長持、鏡台、御所車など、雛人形とともに飾る小さな調度品です。伝統的なものだけで約40種類あり、本物の家具と同じ工程で作られます。木地を作る指物師・挽物師と、塗師、蒔絵師、金具師が分業で一つの品を仕上げます。昭和40年代には全国シェアの約9割を占めるまでになりました。雛人形は、静岡県中部で作られてきた天神人形にルーツを持ちます。稲わらを固く束ねた太い「藁胴(わらどう)」を使い、両腕を曲げて姿を決める「振り付け」に職人の技が表れます。人形の胴体では、全国生産の約7割を占めるに至りました。

上州高崎注染手ぬぐい
染物群馬

上州高崎注染手ぬぐい

Joshu Takasaki Chusen Tenugui

上州高崎注染手ぬぐいは、群馬県高崎市に伝わる染色技法「注染」によって染め上げられる木綿の手ぬぐいです。注染は明治時代に手ぬぐいの量産のために考案された日本独自の染色技法で、型紙で防染糊を生地に置いたあと、生地を数十枚重ねてその上から染料を注ぎ込み、一度に布の表と裏を同時に染め抜きます。この方法により、片面染めのプリント手ぬぐいとは異なる、にじみやぼかしのある独特の風合いと、両面に柄が通った裏表のない仕上がりが生まれます。高崎では明治30年(1897年)創業の中村染工場をはじめとする染物業者がこの技術を受け継ぎ、現在も群馬県内で唯一注染の技法を守り続ける産地として、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。

瀬戸焼
陶器愛知

瀬戸焼

Seto-yaki

瀬戸焼は愛知県瀬戸市を中心に作られる陶磁器の総称で、常滑焼と並ぶ日本六古窯の一つに数えられます。起源は5世紀後半、現在の名古屋市東山丘陵にあった猿投窯での須恵器生産に遡り、12世紀末には日本で唯一、中世を通じて施釉陶器を焼き続けた「古瀬戸」の生産が始まりました。江戸時代後期の文化年間(1804〜1818年)には加藤民吉が肥前有田から磁器の製法を導入し、コバルト顔料で文様を描く染付磁器が発展、以降は陶器の「本業焼」と磁器の「染付焼」が並行して作られるようになりました。良質な木節粘土・蛙目粘土に恵まれ、鉄分の少ない白い素地が特徴で、日常食器から美術品まで幅広く生産されています。全国で焼き物を指す「せともの」の語源としても知られ、2017年には日本遺産に認定されました。国指定の伝統的工芸品には1977年の「赤津焼」、1997年の「瀬戸染付焼」があります。

千葉工匠具
金工千葉

千葉工匠具

Chiba Koshogu

千葉工匠具は、千葉県内の鍛冶職人が伝統の技法によって作り続けている鎌・鍬・包丁・洋鋏などの刃物・手道具の総称です。2017年(平成29年)11月30日、房州うちわに続き千葉県で2件目となる国の伝統的工芸品に指定されました。房総半島では文禄3年(1594年)に始まる利根川東遷や、享保9年(1724年)の印旛沼干拓など、江戸時代を通じて大規模な土木・新田開発事業が行われ、開墾に用いる鎌や鍬といった手道具の需要が高まったことが産地形成の背景にあります。刀鍛冶と農具鍛冶の技術交流により、優れた刃付けの技術が地域に根付きました。明治時代には全国に先駆けて洋鋏の製造が始まり、断髪令に伴う理美容鋏の生産も盛んになりました。現在も柏市・館山市・成田市・流山市など県内各地の工房で、女性鍛冶職人を含む職人たちが一つ一つ手作業で刃物を鍛え続けています。

川連漆器
漆器秋田

川連漆器

Kawatsura Shikki

川連漆器は、秋田県湯沢市川連町(旧・稲川町)一帯で作られる漆器で、約800年の歴史を持つとされます。伝承によれば、1193年に源頼朝の家臣で稲庭城主・小野寺重道の弟である道矩公が古四王野尻に館を築いた際、家臣に命じて刀の鞘や弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされ、その後は日用の椀づくりへと発展していきました。江戸時代初期の元和年間(1615年頃)から元禄期にかけて川連村を中心に約26戸が椀師稼業を営むようになり、江戸時代後期には藩の許可を得て販路を拡大、椀・膳・重箱など幅広い漆器がつくられ、沈金や蒔絵の装飾も加わって産業としての基盤を築きました。上塗り後に研ぎ・磨きを行わず刷毛目を生かしてそのまま仕上げる「花塗り」の技法と、堅牢な下地作りが最大の特徴で、実用性の高い日用漆器として親しまれています。国指定の伝統的工芸品です。

大阪浪華錫器
金工大阪

大阪浪華錫器

Osaka Naniwa Suzuki (Osaka Naniwa Pewterware)

大阪浪華錫器(おおさかなにわすずき)は、大阪市などで作られている錫(すず)の器です。錫は金や銀に次ぐ貴重な金属で、古くは宮中の食器や神社仏閣の神仏具に使われてきました。錫器づくりは京都で起こったとされ、江戸時代中期には大坂が一大産地となります。心斎橋や天神橋、天王寺に錫屋が集まり、酒器や茶器が作られました。溶かした錫を型に流し込む「鋳込み」と、ろくろで削って形を整える「ろくろ挽き」が中心の技法です。錫は酸化しにくく、酒の口当たりをまろやかにするといわれ、気密性が高いため茶筒にも向きます。1983年(昭和58年)に国の伝統的工芸品に指定されました。現在は大阪錫器株式会社が技術を受け継ぎ、伝統的な技法による国内の錫器生産の約7割を担っています。

大堀相馬焼
陶器福島

大堀相馬焼

Obori-Soma-yaki

大堀相馬焼は、かつて福島県浪江町大堀地区で焼かれてきた陶器で、国指定の伝統的工芸品です。元禄年間(1688〜1704年)に相馬中村藩士の半谷休閑が大堀で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼かせたのが始まりとされ、以来ろくろ成形を一貫して守り続けてきました。器全体に走る細かな貫入模様「青ひび」、相馬藩の御神馬を狩野派の筆法で描いた縁起物「走り駒」、そして湯が冷めにくく熱くない二重構造の「二重焼」という3つの特徴で知られます。しかし2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故により、大堀地区を含む浪江町は全域が避難区域となり、20軒以上あった窯元はすべて町外への避難を余儀なくされました。現在は二本松市や福島市、郡山市など県内各地に窯を移し、また一部は浪江町内の道の駅なみえで再興を果たしながら、伝統の技を受け継いでいます。

秩父銘仙
織物埼玉

秩父銘仙

Chichibu Meisen

秩父銘仙は埼玉県秩父市を中心に生産される平織りの絹織物で、2013年(平成25年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。伝承では崇神天皇の時代に知知夫彦命が住民に養蚕と機織りの技を伝えたことに始まるとされ、当初は規格外の繭を使った野良着「太織」として親しまれ「鬼秩父」の異名でも呼ばれるほど丈夫な普段着でした。転機となったのは1908年(明治41年)、坂本宗太郎が考案した「ほぐし捺染」という独自の技法です。経糸を粗く仮織りしてシート状にし、そこへ型染めを施してから緯糸を織り込むことで、経糸の柄と緯糸の色が重なり合う奥行きのある文様が生まれます。裏表なく染まるため両面使いができるのも特徴で、大正・昭和期にはモダンでファッション性の高いおしゃれ着として全国的な人気を博しました。現在は秩父市内の機屋がその技術を今に伝えています。

博多織
織物福岡

博多織

Hakata Ori

博多織は福岡市博多地区で織られてきた絹織物で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。起源は1241年、博多の商人・満田弥三右衛門が禅僧・円爾(聖一国師)とともに宋(中国)へ渡り、織物の技術を持ち帰ったことに始まるとされます。江戸初期の1600年、筑前を治めた黒田長政が幕府への献上品として博多織を選び、毎年帯地を献上する慣例が始まったことから「献上博多織」の名が広まりました。仏具の独鈷と華皿を図案化した紋様に、親が子を守る「親子縞」、子が親を慕う「孝行縞」を組み合わせた献上柄が代表的な意匠です。経糸を密に配して緯糸を強く打ち込む独特の製織法により、厚みと張りのある生地が生まれ、締めるほどに解けにくい帯地として古くから重用されてきました。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、これまでに2人の人間国宝を輩出しています。

美濃和紙
和紙岐阜

美濃和紙

Mino Washi

美濃和紙は岐阜県美濃市で1300年以上にわたり漉き継がれてきた手漉き和紙で、奈良の正倉院に伝わる大宝2年(702年)の戸籍用紙に美濃国産の紙が用いられていたことが知られる、日本三大和紙の一つです。楮・三椏・雁皮を原料とし、薄くムラがないのに強靭という相反する性質を兼ね備えている点が最大の特徴で、江戸時代には障子紙として幕府の保護を受けました。中でも伝統的な製法を守り続ける「本美濃紙」は2014年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。1985年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も美濃市を中心に紙漉き職人が技術を継承しています。

鳴子漆器
漆器宮城

鳴子漆器

Naruko Shikki

鳴子漆器は宮城県大崎市の鳴子温泉郷で作られる漆器で、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)頃に創始されたと伝わります。岩出山領主・伊達敏親が塗師や蒔絵師を京都へ派遣して技術を学ばせたことが基盤となり、湯治客の土産物として発展しました。1982年12月1日に宮城県知事指定、1991年5月20日には経済産業大臣指定の伝統的工芸品となっています。最大の特徴は木地の美しい木目を透明感のある琥珀色の漆で活かす「木地呂塗」と、墨流し技法による幻想的な模様が浮かぶ「竜文塗」の2つの塗り技法です。欅(けやき)や栃(とち)などの木地をろくろで挽き、下地から上塗りまで手間をかけて仕上げるため、使い込むほどに木目や色合いに深みが増していきます。汁椀や重箱、盆など日常づかいの器が多く、鳴子こけしの里としても知られる温泉地の暮らしに根づいた実用の漆器です。

木曽漆器
漆器長野

木曽漆器

Kiso Shikki (Kiso Lacquerware)

木曽漆器は、長野県塩尻市の木曽平沢・奈良井を中心に作られてきた漆器です。17世紀初頭、木曽ヒノキなどの豊かな森林資源を生かした白木細工に漆を塗り、中山道を行き交う旅人の土産物として売り出したのが始まりといわれます。明治の初め頃、奈良井で鉄分を多く含む粘土「錆土(さびつち)」が見つかりました。この錆土を漆に混ぜる下地塗りの技法により、堅牢な漆器の産地として名を高めます。木目を生かす「木曽春慶」、まだら模様を表す「木曽堆朱」、色漆で幾何学模様を描く「塗分呂色塗(ぬりわけろいろぬり)」が代表的な技法です。1975年に国の伝統的工芸品に指定されました。木曽平沢の町並みは「漆工町」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。

壺屋焼
陶器沖縄

壺屋焼

Tsuboya-yaki

壺屋焼は沖縄県那覇市の壺屋地区や読谷村を中心に焼かれる、沖縄を代表する陶器です。琉球王国は14〜16世紀頃、東アジアの焼物の集積地として海外貿易が盛んでしたが、1609年の薩摩侵攻により交易が下火になると、王府は朝鮮人陶工を招いて製陶技術の導入を進めました。1682年、王府によって美里村知花窯・首里宝口窯・那覇湧田窯の三窯が那覇の壺屋に統合され、現在の壺屋焼が誕生したとされています。器肌に厚みがあり、素朴で力強い作風が特徴で、釉薬をかけ高温で焼く「上焼(じょうやち)」と、釉薬をかけずに焼く「荒焼(あらやち)」の二種に大別されます。上焼は碗・皿・シーサーなど日常づかいの器が中心で、荒焼は酒甕や水甕といった大型の貯蔵容器が中心です。1970年代、煙の出る登り窯を那覇市内で焚くことが難しくなったことをきっかけに、人間国宝の故・金城次郎氏らが読谷村へ移り、以後読谷村も壺屋焼の主要な産地となりました。1976年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されています。

伊賀くみひも
織物三重

伊賀くみひも

Iga Kumihimo (Iga Braided Cords)

伊賀くみひも(いがくみひも)は、三重県伊賀市を中心に作られている組紐です。組紐は、何本もの糸を斜めに交差させて組み上げた紐で、織物に比べて伸縮性があるのが特徴です。絹糸を主に、金糸・銀糸なども使い、丸台・角台・綾竹台・高台(たかだい)などの組台で組み上げます。伊賀の組紐の起源は奈良時代以前にさかのぼるともいわれ、古くは仏具や武具の紐として作られました。地域の産業として大きく発展したのは、明治35年(1902年)に廣澤徳三郎が江戸組紐の技術を持ち帰ってからです。以来、帯締めや羽織紐の一大産地となり、手組みの組紐では全国生産の大半を占めます。1976年(昭和51年)に国の伝統的工芸品に指定されました。現在は製紐機による生産も進み、キーホルダーやアクセサリーなど和装以外の製品も作られています。

越前漆器
漆器福井

越前漆器

Echizen Shikki

越前漆器は、福井県鯖江市の河和田(かわだ)地区を中心に作られている漆器です。約1500年前、のちの継体天皇が皇子だった頃、傷んだ冠の塗り替えを片山集落の塗師に命じたことが始まりと伝えられています。塗師は冠とともに黒塗りの椀を献上し、その出来栄えに感動した皇子が漆器づくりを奨励したといいます。堅牢な下地に漆を丁寧に塗り重ねた、艶やかで丈夫な仕上がりが特徴です。江戸時代末期には京都から蒔絵、輪島から沈金の技法を取り入れました。明治時代以降は旅館などで使う業務用漆器の販路を広げ、現在では外食分野で使われる漆器の大半を生産する産地となっています。1975年に国の伝統的工芸品に指定されました。

加賀友禅
染物石川

加賀友禅

Kaga-yuzen

加賀友禅は石川県金沢市を中心に受け継がれる手描き染めの絹織物で、藍・黄土・草・古代紫・臙脂の五色「加賀五彩」を基調とした落ち着いた色調と、写実的な草花模様を特徴とします。起源は約500年前、加賀国独自の無地染めであった「梅染」にさかのぼるとされ、17世紀中頃には模様を施す「加賀御国染」の技法が確立しました。江戸元禄期、扇絵師として名を馳せた宮崎友禅斎が金沢の紺屋「太郎田屋」に身を寄せ、糊で防染しながら多彩な色を挿す友禅糊の技術を広めたことで、加賀友禅は飛躍的な発展を遂げます。金銀箔や刺繍をほとんど用いず、花や葉をありのままに写し取る自然主義的な表現、模様の外側を濃く内側をぼかす「外ぼかし」、葉に虫食い跡を描き込む「虫食い」など、独自の意匠が発達しました。制作者ごとに落款を記す制度が設けられており、作家性の強い工芸品としても知られています。

会津本郷焼
陶器福島

会津本郷焼

Aizu-Hongo-yaki

会津本郷焼は福島県会津美里町を産地とする陶磁器で、東北最古の窯場として約400年の歴史を持つ国指定伝統的工芸品です。起源は1593年、会津若松城主・蒲生氏郷が城の屋根瓦を焼かせたことにさかのぼり、1645年には会津藩主・保科正之が尾張瀬戸の陶工・水野源左衛門を招いて本格的な陶器づくりが始まりました。さらに1800年頃、佐藤伊兵衛が肥前有田で磁器の製法を学び持ち帰ったことで、同じ産地で陶器と磁器の両方を焼くという全国でも珍しい特徴を備えるに至りました。現在も本郷地区には十数の個性豊かな窯元が点在し、流し釉を用いた流紋焼をはじめ、日用の器から美術品まで幅広い作品が作られています。毎年8月第1日曜には夜明け前から始まる「せと市」が開かれ、県内外から多くの人が掘り出し物を求めて訪れる会津の夏の風物詩となっています。

樺細工
木工秋田

樺細工

Kabazaiku

樺細工は、秋田県仙北市角館町で作られる、山桜の樹皮(樺)を用いた木工品です。天明年間(1781〜1789年)、角館の下級武士であった藤村彦六が、秋田県北部の合川町鎌沢の神官・御処野家からその製法を習得し、角館の武士の間に広めたのが起源とされます。当時は大凶作と飢饉が続く時代で、元手のかからない山桜の樹皮を材料に、下級武士の手内職として印籠や根付などが作られました。明治以降は長松谷商店(屋号・丸亀)など有力な問屋の出現によって産業として安定し、明治30年頃には木を挽いて成形する「木地もの」の技法も加わりました。大正〜昭和期には小野東三が中興の祖と称され、柳宗悦との出会いを機に昭和17年の伝習会から技術復興が進みました。昭和51年(1976年)には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、翌昭和53年には角館樺細工伝承館が開館しています。茶筒や盆、煙草入れなどが代表的な製品です。

岐阜提灯
和紙岐阜

岐阜提灯

Gifu Chochin

岐阜提灯は岐阜県岐阜市を中心に作られる盆提灯で、美濃地方の良質な竹ひごと薄く強靭な美濃和紙を主材料に、秋草や風景などを描いた繊細優美な火袋が特徴です。江戸時代から300年余りの歴史を持ち、1904年のセントルイス万博で銀賞、1905年のリエージュ万博で金賞、1937年のパリ万博でも金賞を受賞するなど、海外でも高く評価されてきました。吊り下げ型の「御所提灯」、据え置き型の「大内行灯」「廻転行灯」など種類が豊富で、灯りをともした際の優雅な風情と涼やかな季節感が人々に親しまれています。1995年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も岐阜市の老舗提灯店が手作業で技術を継承しています。

京焼・清水焼
陶器京都

京焼・清水焼

Kiyomizu-yaki

京焼・清水焼は京都を代表する陶磁器の総称で、特定の様式に縛られず作り手ごとに個性豊かな表現が見られる点が最大の特徴です。京都で最初の焼き物は寛永年間(1624〜1645年)頃に東山・粟田口で焼かれた「粟田口焼」とされ、桃山時代に茶の湯が流行すると、京都市内でも楽焼をはじめ様々な茶道具やうつわが作られるようになりました。江戸時代には野々村仁清や尾形乾山、奥田頴川、青木木米といった名工が相次いで登場し、京焼の地位を不動のものとしました。名称は清水寺への参道である五条坂・清水地区の窯元で焼かれていたことに由来します。土や技法、絵付けの手法に厳密な決まりがなく、陶工それぞれの独自性が尊重されている点が、他の産地の陶磁器と大きく異なる特徴です。現在は東山区の五条坂・茶わん坂に加え、山科区の清水焼団地、宇治市炭山などが主な産地となっています。

月夜野桐箪笥
木工群馬

月夜野桐箪笥

Tsukiyono Kiri Tansu

月夜野桐箪笥は、群馬県利根郡みなかみ町月夜野地区で大正6年(1917年)の創業以来作り続けられてきた桐製の箪笥です。桐は軽くて木肌が上品なうえ、湿度に応じて膨張・収縮する性質により箱の内部を一定の湿度に保つ調湿性を備え、樹液由来の成分が虫を寄せ付けにくいため、大切な着物や道具を湿気や害虫から守る収納家具として古くから重宝されてきました。月夜野地区は良質な桐材が手に入りやすい土地であったことから、木取りから板の乾燥、指物、金具付けまでの工程を一貫して手がける職人技によって、狂いの少ない丈夫な箪笥が作られています。現在は伝統的な様式に加え、現代の住まいに合わせたデザインの桐箪笥や桐箱も製作されており、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定される地域を代表する木工技術として受け継がれています。

甲州水晶貴石細工
石工山梨

甲州水晶貴石細工

Koshu Crystal and Gemstone Carving

甲州水晶貴石細工は、水晶やめのう、ひすいなどの天然石に彫刻を施し、丹念に磨き上げて作る工芸品です。甲府市とその周辺が産地で、香炉や仏像、龍や鷹の置物から、ネックレスや指輪などの装身具まで作られています。起源は約1100年前、御岳昇仙峡の奥地にある金峰山で水晶の原石が見つかったことと伝えられます。江戸時代の天保年間には京都から職人が招かれ、鉄板の上に金剛砂(こんごうしゃ:研磨用の硬い砂)をまいて水晶を磨く方法が伝わりました。水晶は硬度が高く、彫って磨き上げるには長い時間がかかります。この研磨の技術は宝石の加工へと広がり、山梨が国内有数の宝飾産地となる礎を築きました。1976年に国の伝統的工芸品に指定されています。甲府市の山梨ジュエリーミュージアムでは、水晶から始まった山梨のジュエリーの歴史に触れられます。

高崎だるま
和紙群馬

高崎だるま

Takasaki Daruma

高崎だるまは群馬県高崎市で作られる縁起だるまで、年間約90万個が生産され、全国の張り子だるまの生産量の約8割を占める日本一の産地として知られています。江戸時代後期の寛政年間、少林山達磨寺の近くに住んでいた山縣友五郎が、同寺九代目住職・東嶽和尚に彫ってもらった木型に和紙を張り重ねて作ったのが始まりと伝えられています。当初は座禅姿に近い形でしたが、養蚕農家が「蚕の起き」と「だるまの起き上がり」を重ね合わせて縁起物として神棚に祀るようになったことから、次第に丸みを帯びた現在の形へと変化しました。眉を鶴、ひげを亀に見立てて描き、肩には「商売繁盛」「家内安全」などの縁起文字を入れる点が、他産地のだるまには見られない高崎だるまならではの特徴です。毎年1月6日・7日に少林山達磨寺で開かれる「七草大祭だるま市」は、高崎の冬の風物詩として多くの人でにぎわいます。

十日町絣
織物新潟

十日町絣

Tokamachi Gasuri

十日町絣は、新潟県十日町市と津南町で織られる絹の先染め織物です。先染めとは、糸を先に染めてから布に織る方法のことです。伝統的な越後縮(麻織物)の技法を受け継ぎ、19世紀中頃に絹織物へ応用して誕生しました。あらかじめ部分的に染め分けた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の柄を合わせながら織り進め、縦絣と横絣を自在に組み合わせた繊細な模様を表します。絹独特の艶と落ち着いた風合いが持ち味で、普段着からおしゃれ着まで幅広く用いられます。十日町は古くから織物が営まれてきた土地で、江戸時代には越後縮の産地として知られました。明治以降は夏物の十日町明石ちぢみなどで絹織物産地の基盤を築き、昭和30年代からは十日町友禅に代表される染めの分野にも進出しました。現在は先染めと後染めの両方の技術を持つ全国屈指のきもの総合産地で、十日町絣は1982年(昭和57年)11月に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となっています。

春日部桐箪笥
木工埼玉

春日部桐箪笥

Kasukabe Kiri Tansu

春日部桐箪笥は埼玉県春日部市を中心に作られる桐材の箪笥で、昭和54年(1979年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。起源は江戸時代初期、日光東照宮の造営のために全国から集められた工匠の一部が、日光街道の宿場町であった春日部に住み着き、周辺に豊富にあった桐を材料として指物や小物を作り始めたことにあると伝えられています。天保年間(1830年頃)には古利根川・江戸川の水運を活かして江戸へ製品を輸送できたことから、桐箪笥づくりを専門とする業者が増え、産地として発展しました。桐は湿気を吸って膨張し乾燥すると収縮する性質を持つため、湿度の高い時期には箪笥がわずかに膨らんで密閉され、中の着物や道具を湿気や火災から守るとされます。木目の美しさを活かした木地仕上げと、狂いの少ない堅牢な作りが今も高く評価されています。

駿河漆器
漆器静岡

駿河漆器

Suruga Shikki (Suruga Lacquerware)

駿河漆器(するがしっき)は、静岡市で作られている漆器です。江戸時代の寛永年間、静岡浅間神社の造営のために全国から腕のよい漆塗職人が集まりました。造営後も静岡に残った職人たちが技を伝えたことで、漆器づくりが根付いたといわれます。最大の特徴は「変わり塗(かわりぬり)」です。漆塗りの基本技術を応用し、さまざまな材料や技法を用いて独特の模様や手触りを表します。大正時代に考案された「金剛石目塗(こんごういしめぬり)」は、下地に川砂を使う技法で、静岡県の無形文化財に指定されています。幕末から明治にかけて万国博覧会に出品されて海外でも評価され、やがて輸出漆器の一大産地となりました。現在は静岡県郷土工芸品に指定され、2007年には静岡市で初めての地域団体商標に登録されています。

上野焼
陶器福岡

上野焼

Agano-yaki

上野焼は福岡県田川郡福智町を中心に、香春町・大任町にまたがる地域で焼かれる陶器で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。1602年、豊前小倉藩主・細川忠興が朝鮮出身の陶工・尊楷を招き、福智山の麓・上野の地に開窯したのが始まりとされます。その後、細川氏・小笠原氏という歴代藩主の庇護のもと藩窯として発展し、江戸時代には遠州七窯の一つに数えられるほど茶人に愛されました。極めて軽く薄づくりであることが最大の特徴で、絵付けをほとんど行わず、深い青緑色が薄い白肌の上を流れ落ちる「緑青流し」をはじめ、鉄釉・灰釉・藁白釉・三彩釉など多彩な釉薬が生む窯変の美しさで知られています。1983年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も福智町上野地区を中心に約20の窯元が伝統を受け継いでいます。

仙台箪笥
木工宮城

仙台箪笥

Sendai Tansu

仙台箪笥は仙台市を中心に作られる指物家具で、江戸時代末期に仙台藩の城下町で誕生した地場産業です。当初は刀や金庫を収める「野郎箪笥」として作られ、明治から大正期にかけては欧米への輸出も盛んに行われました。最大の特徴は、欅や栗などの無垢材に木目を美しく見せる透明感のある紅色の漆「仙台木地呂塗」を施し、そこに龍や牡丹、唐獅子といった武家好みの図柄を厚さ1ミリほどの鉄板から打ち出した重厚な金具を組み合わせる意匠にあります。指物・漆塗り・金具の3つの工程をそれぞれ専門の職人が分業で手がけ、現在も仙台箪笥協同組合の職人たちによって受け継がれています。2015年(平成27年)6月18日には、宮城伝統こけし・雄勝硯・鳴子漆器に次いで県内4番目、24年ぶりとなる経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された、比較的新しい指定品目でもあります。

大阪欄間
木工大阪

大阪欄間

Osaka Ranma (Osaka Transom Panels)

大阪欄間(おおさからんま)は、大阪府内で作られている欄間です。欄間とは、和室の鴨居(かもい)の上に取り付け、光と風を通しながら部屋を飾る建具をいいます。始まりは17世紀初期とされ、和泉市の聖神社(ひじりじんじゃ)や大阪市の四天王寺に、その技法のもととなる技術が見られます。江戸時代中期には、商家を中心とした一般の住宅にも取り入れられました。屋久杉の木目を生かした絵画のような「彫刻欄間」、桐の板に模様をくり抜く「透彫(すかしぼり)欄間」など、種類の多さが特徴です。ほかに、細い桟を並べる「筬(おさ)欄間」や、幾何学模様の「組子欄間」も作られています。二間続きの和室を仕切るため、表と裏の両面を見せる作りになっています。1975年(昭和50年)に国の伝統的工芸品に指定されました。

天童将棋駒
木工山形

天童将棋駒

Tendo Shogi Goma

天童将棋駒は山形県天童市を中心に作られる将棋の駒で、全国生産量の約95%を占めるといわれています。起源は江戸時代後期、財政難に苦しんでいた天童織田藩が下級武士の内職として将棋駒づくりを奨励したことに遡ります。米沢藩を通じて大阪の駒師から技術を学び、幕末には草書体を用いた「書き駒」の基礎が確立されました。明治以降は分業体制が整い大量生産地として発展し、昭和初期には全国一の生産量を誇るまでになりました。原材料には「木の宝石」とも呼ばれる伊豆諸島・御蔵島産のツゲが用いられ、書き駒・彫り駒・彫り埋め駒・盛り上げ駒の4種類があります。中でも漆で文字を盛り上げる「盛り上げ駒」は最高級品とされ、将棋のタイトル戦でも使用されています。1996年、経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

唐津焼
陶器佐賀

唐津焼

Karatsu-yaki

唐津焼は佐賀県唐津市を中心に、佐賀県西部から長崎県北部にかけて焼かれる陶器です。茶人の間では「一楽二萩三唐津」と称され、楽焼・萩焼と並んで茶陶の名品として珍重されてきました。創始は1580年代、岸岳城主・波多氏の庇護のもとに開窯したのが始まりとみられ、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れ帰られた朝鮮人陶工により、蹴轆轤や連房式登り窯、叩き作りといった新技術がもたらされ、生産が飛躍的に発展しました。唐津港から西日本一帯へ広く流通し、当時は焼き物全般を「からつもの」と呼ぶほど代表的な産地として知られました。明治以降は一時衰退しましたが、十二代中里太郎右衛門(無庵)による古唐津技法の復興を経て再興し、1988年に国の伝統的工芸品に指定されています。

南木曽ろくろ細工
木工長野

南木曽ろくろ細工

Nagiso Rokuro Zaiku (Nagiso Wood Turning)

南木曽ろくろ細工は、長野県木曽郡南木曽町を中心に作られている木工品です。厚い板や丸太をろくろで回転させ、カンナで挽いて形を削り出す「挽物(ひきもの)」の技法で、盆や椀、茶托、木地鉢などを作ります。18世紀前半、木の挽物を得意とする木地師(きじし)と呼ばれる人々がこの地に定着したのが始まりとされます。材料にはトチやケヤキ、セン、カツラなど、木曽谷に育つ木目の美しい広葉樹を使います。職人は木目や木質を見きわめ、木ごとに作る品を決めます。製品は素地のままの「白木」と、漆を塗っては拭き取る「漆拭き」があります。1980年に国の伝統的工芸品に指定されました。南木曽町吾妻の「木地師の里」には工房が集まり、見学や手挽きろくろの体験ができます。

彦根仏壇
木工滋賀

彦根仏壇

Hikone Butsudan

彦根仏壇は滋賀県彦根市を中心に製造される金仏壇で、昭和50年(1975年)に仏壇・仏具業界として初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。起源は江戸時代中期、彦根藩の城下町で武具や甲冑を手がけていた職人たちが、太平の世を迎えて仏壇づくりに転じたことにあると伝えられます。彦根藩の庇護のもと、木地・宮殿・彫刻・漆塗・蒔絵・金具・箔押という七職と呼ばれる専門の職人が分業で仕上げる体制が江戸後期には確立し、彦根城下と中山道を結ぶ「七曲がり」と呼ばれる通りには今も仏壇店や工房が軒を連ねています。総金箔・総漆塗りによる重厚で華やかな仕上がりが特徴で、木地から仕立てまで一貫して手作業で仕上げられる点も高く評価されています。

房州鋸
金工千葉

房州鋸

Boshu Nokogiri

房州鋸は、南房総地域に450年以上の歴史を持つ鋸(のこぎり)鍛冶の技術です。戦国時代、房総を治めた里見家に仕えた鍛冶が、貿易などに用いる和船を造るための「船鋸」として生み出したのが起源とされています。江戸時代には安房沿岸部一帯に技術が広まり独自の発展を遂げ、盗人が土蔵を破る際に房州鋸を使ったことから幕府にその切れ味の良さが知られ、広く名が知られるようになったという逸話も伝わっています。日本刀と同じ鋼を用い、刃の反りや歯の立て方に房州鋸独自の工夫が凝らされており、薄くしなやかでありながら抜群の切れ味と耐久性を誇ります。効率よりも品質を優先し、20以上の工程すべてを手作業で行う伝統的な製法が今も守られています。しかし後継者は育っておらず、現在は日本でただ一人の職人によってのみ、その技術が受け継がれているという厳しい状況にあります。

有松・鳴海絞り
染物愛知

有松・鳴海絞り

Arimatsu-Narumi Shibori

有松・鳴海絞りは、名古屋市緑区の有松・鳴海地区に約400年伝わる絞り染めの総称です。江戸時代初頭の慶長年間、尾張藩が東海道沿いの新田として有松の町割りを行った1608年頃、最初の入植者の一人であった竹田庄九郎が三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを旅人に売り出したのが始まりとされます。寛文年間には錣絞りが考案されるなど技法が発展し、1781年には尾張藩から有松の商人に絞り製造の独占権が与えられ一大産業に成長しました。豆絞り・三浦絞り・嵐絞り・雪花絞りなど、最盛期には100種類を超える技法が生み出され、現在も70種類以上が受け継がれています。1975年には愛知県で初めて国の伝統的工芸品に指定されました。近年は着物にとどまらず、海外ブランドとのコラボレーションなど新しい表現にも挑戦が続いています。

琉球漆器
漆器沖縄

琉球漆器

Ryukyu Shikki

琉球漆器は、沖縄県の那覇市首里を中心に伝えられてきた漆工芸品です。14世紀末頃に中国から漆器の技術がもたらされ、15〜16世紀の琉球王国時代に盛んに製作されるようになったとされています。王府は貝摺奉行所を設けて漆器製作を管理・強化し、中国や薩摩から技術を導入しながら、ウルシノキの栽培や漆の採取も政策として整備しました。1609年の薩摩侵攻以降、琉球漆器は徳川将軍家や諸大名への献上品としても珍重され、対外的な琉球王国の技術力を示す品となりました。加飾技法には、刀で模様を彫り金を定着させる「沈金」、夜光貝やアワビ貝を文様に切って埋め込む「螺鈿」、漆で模様を描き金箔を貼る「箔絵」に加え、琉球独自に生み出された「堆錦(ついきん)」があります。堆錦はクロメ漆に顔料を練り込んで餅状にし、薄く延ばして文様に切り取って貼り付ける技法で、立体的で華やかな装飾が生まれます。木地にはデイゴやガジュマル、エゴノキなど、乾燥後の収縮や亀裂が少ない沖縄の樹木が用いられてきました。1974年に沖縄県指定伝統工芸品、1986年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となっています。

羽越しな布
織物山形・新潟

羽越しな布

Uetsu Shinafu

羽越しな布は、山形県鶴岡市関川地区と新潟県村上市山熊田・雷地区に伝わる、シナノキやオオバボダイジュなどの樹皮繊維を糸にして織り上げる布です。木の皮を原料とする織物としては日本最古とされ、縄文時代から続くとされる「原始布」の一つとして、沖縄の芭蕉布、静岡の葛布と並び日本三大古代布に数えられています。糸づくりから機織りまですべての工程が手作業で、22ほどの工程を経て約1年の歳月をかけて仕上げられます。丈夫で水に強く、使い込むほどにしなやかな風合いが増すのが特徴で、かつては野良着や米袋、漁網などに用いられましたが、現在は帽子やバッグ、帯などに姿を変えて受け継がれています。2005年(平成17年)、山形・新潟にまたがる3産地のしな布が「羽越しな布」として経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

越前打刃物
金工福井

越前打刃物

Echizen Uchihamono

越前打刃物は、福井県越前市で作られている鍛造の刃物です。約700年前の南北朝時代、京都の刀匠・千代鶴国安が刀づくりに適した良質な水を求めて府中(現在の越前市)に移り住み、近隣の農民のために鎌を作ったことが始まりとされます。江戸時代には福井藩の保護を受けて発展しました。全国を巡る越前の漆掻き職人が鎌を携えて売り歩いたことで、その名は各地に広まります。刃を2枚重ねて叩き延ばす「二枚広げ」など、火造り鍛造と手仕上げの技が受け継がれてきました。薄く軽く、切れ味に優れた刃が特徴で、現在は包丁やナイフが中心です。1979年には、打刃物として初めて国の伝統的工芸品に指定されました。市内のタケフナイフビレッジでは、職人の仕事を間近で見学できます。

奥会津編み組細工
木工福島

奥会津編み組細工

Okuaizu Amikumi-zaiku

奥会津編み組細工は、福島県大沼郡三島町を中心とする奥会津地方の山間部で採れる山ぶどうの蔓・ひろろ・マタタビといった自然素材を用いた編み組み工芸で、国指定の伝統的工芸品です。積雪期の手仕事として受け継がれてきた歴史は古く、三島町の荒屋敷遺跡(縄文時代後期、約2500年前)からは編み組みの痕跡を持つ出土品が見つかっており、縄文の文化を今に伝える工芸ともいわれています。江戸時代の地誌にもヒロロやマタタビ、山ぶどうを用いた籠や笊づくりの記録が残ります。昭和40年代には担い手の減少で存続が危ぶまれましたが、三島町が昭和56年(1981年)から「生活工芸運動」を開始し、工人による指導や展示会を通じて技術の伝承に取り組んできました。手さげ籠や菓子器、炊事用具など、素材ごとに異なる風合いを持つ道具が現在も作り続けられています。

京漆器
漆器京都

京漆器

Kyo-shikki

京漆器は、平安京の宮廷文化とともに育まれてきた京都の漆工芸で、薄手の木地を幾重にも漆で塗り重ねる「本堅地」という緻密な下地技法と、金銀粉で文様を描く蒑絵の美しさを特徴とします。起源は794年の平安遷都まで遡るとされ、奈良時代に生まれた末金鏤(まっきんる)の技法が平安時代に受け継がれ、研出蒔絵や平蒔絵として完成されていきました。茶道文化の広がりとともに茶道具としての需要も高まり、公家や寺社、茶人の求めに応じて洗練された意匠が磨かれてきました。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、他産地の漆器には見られない「わび」「さび」を備えた奥深い趣と優雅さを併せ持つ点が高く評価されています。木地作りから下地、上塗り、加飾まで多くの工程を経て、一つの器が完成します。

甲州雨畑硯
文具山梨

甲州雨畑硯

Koshu Amehata Inkstone

甲州雨畑硯は、山梨県早川町の雨畑地区で採れる「雨畑真石(あめはたしんせき)」を彫って作る硯です。黒く緻密な粘板岩(ねんばんがん:泥が固まってできた、薄く割れやすい岩)で、石むらがありません。表面の細かく均一な粒子「鋒鋩(ほうぼう)」がほどよく墨をおろし、水を吸いにくいので水持ちも良好です。古くから中国の硯にも勝る良石と評価されてきました。始まりは元禄3年(1690年)、雨宮孫右衛門が身延山へ参詣する途中、早川の河原で黒い石を拾い、硯にしたことと伝えられます。地元には、日蓮の弟子・日朗上人にまつわる、さらに古い伝説も残ります。現在の産地は早川町と富士川町で、富士川町鰍沢には代々続く硯の工房があります。1994年に山梨県郷土伝統工芸品に指定されました。早川町の「雨畑硯の里 硯匠庵」では、銘硯を見学でき、硯づくりも体験できます。

高島扇骨
木工滋賀

高島扇骨

Takashima Senkotsu

高島扇骨は滋賀県高島市、特に安曇川流域で作られる扇子の骨(扇骨)で、国内で流通する扇骨のおよそ9割を生産する一大産地です。江戸時代、安曇川沿いに植えられた真竹を利用し、冬場の農閑期の副業として始まったと伝えられています。扇の両端を支える「親骨」と、要から広がる「仲骨」を作り分け、竹を割る・削る・磨くといった工程は親骨で約18、仲骨で約16にも及び、それぞれ専門の職人から職人へ受け渡す分業体制で仕上げていきます。完成した扇骨の多くは京都の扇子問屋へ納められ、紙貼りや絵付けを経て「京扇子」として仕上げられており、華やかな京扇子の産地を陰で支える縁の下の力持ちとして知られています。近年は高島扇骨を使った布扇子など、地元発の製品づくりにも取り組みが広がっています。

佐賀錦
織物佐賀

佐賀錦

Saga-nishiki

佐賀錦は、金銀箔を漆で和紙に貼り細く裁った「箔糸」を経糸に、絹糸を緯糸にして手織りする絹織物です。江戸時代後期の文政年間、肥前鹿島藩・鹿島鍋島家9代藩主夫人の柏岡の方が、病床で見た部屋の天井の網代組の美しさに着想を得たことが起源とされます。11代藩主夫人の柳岡の方と13代藩主夫人の葛子が、紙糸や綿糸を用いた手遊びの織物として発展させ、後に金銀箔糸と絹糸を用いた高級品へと洗練されました。長らく「おくみもの」「組錦」「鹿島錦」などの名で呼ばれていましたが、1910年(明治43年)のロンドン日英大博覧会に出品され好評を博したことを機に、産地を明らかにする「佐賀錦」の名で統一されるようになりました。精緻な幾何学文様が織りなす金銀の輝きが特徴で、帯や小物などに用いられています。

山中漆器
漆器石川

山中漆器

Yamanaka-shikki

山中漆器は石川県加賀市の山中温泉地区を中心に作られる漆器で、木地挽きの高い技術から「木地の山中」として知られています。始まりは安土桃山時代、山々を渡り歩きながら椀や盆などの挽物を作っていた木地師の一団が、山中温泉の上流にあたる真砂の地に定住して木地を挽き始めたことに由来するとされます。江戸時代には会津や京都、金沢から漆塗りや蒔絵の技術が取り入れられ、加飾挽きや朱溜塗など独自の技法が加わり発展しました。最大の特徴は轆轤挽物の技術で、木目に沿って縦方向に木取りする「縦木取り」により狂いの少ない美しい木地を生み出すほか、わずか3ミリの幅に十数本もの筋を刻む「千筋」、木地が透けるほど薄く挽く「薄挽き」など、他産地の追随を許さない精緻な加飾挽きが見られます。木地挽物の分野では職人の質・量ともに国内トップクラスとされ、1975年には国の伝統的工芸品に指定されています。

秋田杉桶樽
木工秋田

秋田杉桶樽

Akita Sugi Oke-Taru

秋田杉桶樽は、日本三大美林の一つに数えられる秋田杉を用いて作られる桶・樽で、秋田県能代市・大館市・北秋田市などを主な産地とします。秋田市の秋田城跡からは平安時代後期のものと推定される桶が出土しており、桶・樽づくりの歴史は古くまでさかのぼると考えられています。江戸時代の享保年間には佐竹藩の保護のもとで産地が形成され、豊富な秋田杉資源を背景に生産が発展しました。秋田杉は年輪が均一で狂いが少なく、香りが良いうえに水漏れしにくいという特性を持つため、酒樽や味噌桶、おひつなど水や食品を扱う容器に適しています。柾目材を使う桶と板目材を使う蓋付きの樽とで用途が分かれ、箍(たが)には真竹や銅、真鍮が用いられます。1984年(昭和59年)5月には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

駿河塗下駄
漆器静岡

駿河塗下駄

Suruga Nuri Geta (Suruga Lacquered Geta Clogs)

駿河塗下駄(するがぬりげた)は、静岡市で作られている漆塗りの下駄です。木地に漆を塗り、蒔絵や彫りなどで華やかに飾るのが特徴です。明治時代、下駄職人の本間久次郎が、安価な日用品だった下駄に漆塗りを施した高級塗下駄を考え出したのが始まりとされます。軽い安倍杉を使って量産を図り、問屋を通じて出荷されると全国的な流行となりました。大正時代には、不振に陥った輸出漆器の職人たちが塗下駄づくりに転じます。駿河漆器の「変わり塗」の技術が下駄にも生かされ、「高級塗下駄といえば静岡」といわれるほどの産地に成長しました。現在は静岡県郷土工芸品に指定され、市内の職人が伝統の技を受け継いでいます。

小石原焼
陶器福岡

小石原焼

Koishiwara-yaki

小石原焼は福岡県朝倉郡東峰村の小石原地区一帯で焼かれる陶器で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。1682年、筑前福岡藩3代藩主・黒田光之が、当時焼き物の産地として栄えていた伊万里にならい、陶工を招いて窯を開かせたのが起源とされています。開窯当初は磁器も焼かれていましたが、次第に日用の陶器づくりが主流となり、約340年にわたり技術が受け継がれてきました。最大の特徴は、ろくろを回しながら刃先を当てて規則的な削り目を生む「飛び鉋」や、刷毛で模様を描く「刷毛目」など、道具と手の動きから生まれる幾何学的な文様です。「用の美」を体現する暮らしの器として民藝運動の中でも高く評価され、1975年には陶磁器として日本で初めて国の伝統的工芸品に指定されました。現在も約50の窯元が集まり、春と秋には産地最大の陶器市「民陶むら祭」が開催されます。

小川和紙(細川紙)
和紙埼玉

小川和紙(細川紙)

Ogawa Washi (Hosokawa-shi)

小川和紙は埼玉県小川町・東秩父村に伝わる手漉き和紙で、なかでも楮(こうぞ)を原料とする伝統技法「細川紙」は、昭和53年(1978年)に国の重要無形文化財に指定され、平成26年(2014年)11月には本美濃紙(岐阜県)・石州半紙(島根県)とともに「和紙:日本の手漉和紙技術」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。これは埼玉県における初のユネスコ登録でもあります。細川紙という名称は、紀伊国細川村(現在の和歌山県)で漉かれていた紙の技法が小川に伝わったことに由来するとされます。国産楮のみを原料とし、蒸す・煮る・塵より・叩解といった伝統的な工程を経て、ネリ(トロロアオイの粘液)を加えた「流し漉き」で一枚ずつ漉き上げます。強靭さと光沢のある美しい風合いを兼ね備え、古文書の修復用紙としても高く評価されています。

松本家具
木工長野

松本家具

Matsumoto Kagu (Matsumoto Furniture)

松本家具は、長野県松本市を中心に作られている和家具です。天正10年(1582年)に松本城を中心として城下町が形づくられた頃に、商工業のひとつとして始まったと考えられています。ケヤキやミズメ、ウダイカンバなどの無垢材を使い、箪笥や飾棚、座卓、文机などを作ってきました。複雑な木組みの技法による堅牢さと、木目を引き立てる拭き漆の仕上げが特徴です。太平洋戦争後には家具づくりが衰えましたが、民藝運動を率いた柳宗悦の訪問をきっかけに、池田三四郎が復興に取り組みました。和家具で培った技術は、椅子やテーブルなどの洋家具にも生かされています。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。松本の中町通りや松本民芸館で、その家具に触れることができます。

水うちわ
和紙岐阜

水うちわ

Mizu Uchiwa

水うちわは岐阜県岐阜市の川原町付近で作られてきた夏の風物詩で、水に浸してあおぐと気化熱によってひときわ涼しい風を感じられる、他に類を見ないうちわです。極限まで薄く漉いた雁皮紙にニスを引いて仕上げるため、向こう側の景色が透けて見えるほどの透明感が魅力で、室町時代から続くとされる岐阜うちわの歴史の中で独自に発展しました。長良川鵜飼の土産物として発展した歴史を持ちますが、原料の雁皮の入手難などにより一時生産が途絶え、2005年の愛・地球博を機に復活を遂げました。現在も職人が一本一本手作業で仕上げています。

村上木彫堆朱
漆器新潟

村上木彫堆朱

Murakami Kibori Tsuishu

村上木彫堆朱は、新潟県村上市で作られる漆器です。朴(ほお)や栃、桂などの木地に繊細な彫刻を施し、その上に天然漆を何度も塗り重ねて仕上げます。堆朱とは本来、朱漆を厚く塗り重ねた層に文様を彫る中国由来の技法ですが、村上では木地そのものを彫ってから漆を塗る点に特色があります。起源は約600年前、寺院建築のために京都から訪れた漆工が技術を伝えたことにあるとされます。江戸時代には村上藩士が名工に彫刻を学び、歴代藩主の奨励を受けて武士から町民へと広まりました。代表的な堆朱は朱の上塗りを艶消しで仕上げた落ち着いた肌合いが特徴で、年月とともに朱色が冴えていきます。現在は堆朱・堆黒・朱溜塗など6種類の技法を総称して村上木彫堆朱と呼び、1955年(昭和30年)に新潟県無形文化財、1976年(昭和51年)2月に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。

大阪唐木指物
木工大阪

大阪唐木指物

Osaka Karaki Sashimono (Osaka Exotic Hardwood Cabinetry)

大阪唐木指物(おおさかからきさしもの)は、紫檀(したん)や黒檀(こくたん)などの輸入材で作る家具や調度品です。こうした木材は、唐の国から渡ってきた珍しい木という意味で「唐木(からき)」と呼ばれてきました。指物とは、板と板を組み合わせて家具や箱を作る技法をいいます。江戸時代、唐木は長崎に運び込まれ、大阪の薬種問屋がこれを一手に引き受けていたとされます。こうして大阪は唐木の集まる地となり、江戸時代中期には唐木指物の産地が形成されました。主な製品は飾り棚や茶棚、座敷机、花台などです。釘やねじを使わず、組手(くみて)と呼ばれる継ぎ手で組み立てます。生漆を何度もすり込む仕上げにより、深みのある色と落ち着いた艶が生まれます。1977年(昭和52年)に国の伝統的工芸品に指定されました。

銚子ちぢみ
織物千葉

銚子ちぢみ

Choshi Chijimi

銚子ちぢみは、千葉県銚子市に伝わる木綿の縮み織物です。漁師の妻たちが夫の出漁の安泰と豊漁を願いながら織り始めたのが起源とされ、独特の肌ざわりを持つ夏の着尺地として親しまれてきました。横糸に強い撚りをかけて糊で止め、機織りしたのちに糊を落とすことで、生地の表面に「しぼ」と呼ばれる細かな縮みが生まれるのが最大の特徴です。江戸時代から伝わるとされますが、大正末期には一時生産が途絶え「幻の織物」とまで呼ばれる状況に陥りました。その後、銚子市内で製綿業を営んでいた常世田真次郎が復興に尽力し、昭和29年(1954年)に千葉県の無形文化財に、昭和59年(1984年)には千葉県指定の伝統的工芸品に指定されています。現在は三代目織元・常世田眞壱郎がその技術を受け継ぎ、銚子ちぢみ伝統工芸館で製品の展示・販売や藍染め体験を行っています。

入山メンパ
木工群馬

入山メンパ

Iriyama Menpa

入山メンパは、群馬県吾妻郡中之条町の入山地区に伝わる曲物(まげもの)の弁当箱です。江戸時代後期の文化・文政期(19世紀初頭)ごろから作られてきたとされ、農林業以外に目立った産業のなかった山あいの入山地区で、木工細工が人々の暮らしを支える生業として発展しました。赤松の薄板を熱湯で柔らかくして丸く曲げ、山桜の樹皮で縫いとめて作られ、釘は一切使いません。小判形をした縁起の良い形が特徴で、木が持つ吸湿性と芳香性により、ご飯から出る蒸気を程よく吸い取ってベタつきを抑え、夏場でも傷みにくいことから、かつては山仕事に携行する弁当箱として広く使われてきました。使い込むほどに木肌の色合いが深まっていく点も魅力で、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。

名古屋友禅
染物愛知

名古屋友禅

Nagoya Yuzen

名古屋友禅は愛知県名古屋市を中心に作られる染めの着物で、京友禅の華やかな色使いとは対照的に、渋みを帯びた落ち着いた配色を特徴とします。起源は江戸時代前期、尾張藩主・徳川宗春が積極的な繁栄政策をとった1730年代に、京都や江戸から尾張へ多くの友禅師が往来し、その技法が伝わったことに始まるとされます。宗春の失脚後は倹約令が敷かれ、単彩濃淡でまとめる控えめな配色へと洗練されていきました。江戸時代末期には型紙を用いる「型友禅」の産地基盤が確立し、大正期には家紋を染め抜く「黒紋付染」も加わりました。現在は手描友禅・型友禅・黒紋付染の3技法を総称して名古屋友禅と呼び、1983年に国の伝統的工芸品に指定されています。

雄勝硯
文具宮城

雄勝硯

Ogatsu Suzuri

雄勝硯は宮城県石巻市雄勝町で作られる硯で、原料となる玄昌石(雄勝石)は約2億3千万~5千万年前の地層からとれる黒色硬質粘板岩です。粒子が均質できめ細やかな上、圧縮や曲げに強く吸水率が低いため経年変化しにくく、硯石として最高水準の性質を備えています。室町時代の1396年頃にはすでに雄勝で硯石が産出されていたと伝わり、江戸時代には伊達政宗に献上されたという600年以上の歴史を持ちます。1985年5月22日に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となり、最盛期には国内で生産される硯の9割以上を雄勝硯が占めていました。2011年の東日本大震災では雄勝町全体が津波の甚大な被害を受け、職人の住居や工房、採石場も失われました。それでも職人たちは瓦礫の中から見つけた硯や道具を手がかりに生産を再開し、硯だけでなくテーブルウェアなど新たな商品開発にも取り組みながら復興を進めています。

琉球ガラス
ガラス沖縄

琉球ガラス

Ryukyu Glass

琉球ガラスは、沖縄県内で作られる吹きガラス工芸品です。沖縄でのガラス製造は1900年前後、鹿児島や長崎・大阪から渡ってきたガラス職人によって那覇市西町に工場が設けられたことに始まり、薬瓶やランプのほやなど生活用品が作られていました。第二次世界大戦で工房や原料の多くが失われましたが、戦後、職人たちは駐留米軍施設から出るビールやコーラなどの空き瓶に着目し、それらを溶かして再びガラス製品として蘇らせたことで復興を遂げました。廃瓶にはラベルなどの不純物が混ざっていたため、出来上がった製品には無数の気泡が入ることがありましたが、これがかえって「泡ガラス」として独特の風合いを生み、廃瓶由来の淡い色合いとともに琉球ガラスを象徴する魅力となりました。1950年代には駐留米軍関係者からのオーダーが増え、カラフルな洋風ガラス食器が主力商品として広まりました。現在は糸満市や豊見城市、名護市周辺に工房が点在し、1998年には沖縄県指定の伝統工芸品に認定されています。

鈴鹿墨
文具三重

鈴鹿墨

Suzuka Sumi (Suzuka Inksticks)

鈴鹿墨(すずかすみ)は、三重県鈴鹿市で作られている書道用の固形墨です。煤(すす)を膠(にかわ:動物の皮や骨から作る接着剤)で練り固め、木型に入れて成形し、長い時間をかけて乾かして仕上げます。起源は延暦年間(782〜806年)とも伝わり、鈴鹿の山の松を燃やして煤を採ったのが始まりとされます。江戸時代には紀州藩の保護を受け、大名の家紋書きや寺子屋の広がりとともに需要が増えました。発色がよく、上品で深みがあり、線の芯とにじみがよく調和する墨として、多くの書家に愛用されています。1980年(昭和55年)、墨として初めて国の伝統的工芸品に指定されました。現在、鈴鹿墨を作るのは鈴鹿市寺家の進誠堂のみとされます。伝統工芸士の伊藤亀堂さんと、息子の伊藤晴信さんが技を受け継いでいます。

イタヤ細工
木工秋田

イタヤ細工

Itaya-zaiku

イタヤ細工は、秋田県仙北市角館町雲然(くもしかり)地区で作られる、イタヤカエデの若木を薄い帯状に裂いて編み上げるかご細工です。寛政年間(1790年頃)に、農家の冬期間(農閑期)の副業として始まったとされ、200年以上にわたり受け継がれてきました。かつては魚籠のような腰籠「カッコベ」や、農作業用の籠、箕(み)といった実用の農具が中心に作られていましたが、時代とともに手提げかごや盛皿、玩具のイタヤ馬など工芸品としての製品へと幅を広げています。材料となるイタヤカエデの幹は1mm以下の厚さまで均一に裂かれ、職人の手作業によってかご編み技法で編み上げられます。軽くて丈夫なうえ、使い込むほどに飴色に変化し味わいを深めていく経年変化が魅力で、秋田県指定の伝統的工芸品となっています。現在、雲然地区で製造・販売を続けているのはわずか2軒のみです。

伊勢形紙
染物三重

伊勢形紙

Ise Katagami (Ise Paper Stencils)

伊勢形紙(いせかたがみ)は、着物の生地に柄や文様を染めるための型紙で、三重県鈴鹿市の白子・寺家・江島地区を中心に作られています。「伊勢型紙」とも書きます。美濃和紙を柿渋で貼り合わせた「型地紙(かたじがみ)」に、細かな刃先の彫刻刀で文様を彫り抜いて作ります。友禅や小紋、浴衣などの染めに使われ、小紋ではそのほとんどが伊勢の型紙で染められるといわれます。起源には諸説ありますが、室町時代末期には型紙が使われていたと考えられています。江戸時代には紀州藩の保護を受け、型売り商人が全国を行商して名を広めました。彫刻には錐彫・突彫・道具彫・縞彫の4つの技法があります。1955年に技術が国の重要無形文化財に指定され、1983年には「伊勢形紙」の名で国の伝統的工芸品に指定されました。近年は照明や額装品、建具など、インテリアへの活用も広がっています。

一位一刀彫
木工岐阜

一位一刀彫

Ichii Ittobori

一位一刀彫は岐阜県高山市を中心とする飛騨地方で作られる木彫刻で、県の木でもあるイチイ(一位)を素材に、彩色を一切施さず木目や色合いをそのまま生かす点が最大の特徴です。江戸時代末期、高山出身の根付彫刻師・松田亮長がイチイの木目の美しさに着目し、蛙や亀、動物などをノミや小刀の切れ味鋭い刃痕を生かして彫ったのが始まりとされます。イチイの木は外側が白みがかった「白太」、内側が赤みを帯びた「赤太」という対照的な色合いを持ち、この二色を巧みに彫り分けることで独特の陰影が生まれます。1975年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も高山市を中心に彫刻師が技術を受け継いでいます。

越前箪笥
木工福井

越前箪笥

Echizen Tansu

越前箪笥は、福井県越前市の武生地区を中心に作られている箪笥です。ケヤキやキリの無垢材を用い、釘を使わない「指物(さしもの)」の技術で組み立てます。そこに越前漆器の技を生かした漆塗りと、越前打刃物の鍛冶技術を生かした鉄製の飾り金具が加わります。複数の高度な技術を組み合わせることで、どっしりとした重厚感のある箪笥に仕上がります。江戸時代後期から木工の技術を持つ職人が住み、明治時代中頃には箪笥職人が中心となって「タンス町」を形づくりました。現在もタンス町通りには箪笥店や工房が集まっています。金具にあしらわれるハート形の「猪目(いのめ)」は、魔除けの意味を持つ文様です。2013年に国の伝統的工芸品に指定されました。

奥会津昭和からむし織
織物福島

奥会津昭和からむし織

Okuaizu Showa Karamushi-ori

奥会津昭和からむし織は、福島県大沼郡昭和村で栽培される苧麻(からむし)の繊維から糸を績み、織り上げる伝統織物で、国指定の伝統的工芸品です。昭和村でのからむし栽培は室町時代にはすでに始まっていたとされ、会津領主・蘆名盛政の時代に奨励されたと伝わり、江戸時代の1756年には「青苧畑証文」が残るなど600年近い栽培の歴史があります。からむしは吸湿性・速乾性に優れた植物繊維で、小千谷縮や越後上布などの高級織物の原料としても知られています。昭和村では刈り取りから苧引き、糸績み、機織りまでの全工程を今も手作業で行っており、平成6年(1994年)からは「からむし織体験生(織姫・彦星)」制度を設け、村外から訪れた若者に技術を伝承する取り組みを続けています。道の駅からむし織の里しょうわでは、栽培から製織までを紹介するからむし工芸博物館や、実際に織りを体験できる施設も整備されています。

館山唐桟
織物千葉

館山唐桟

Tateyama Tozan

館山唐桟は、細い木綿糸を藍や山桃の樹皮などの植物染料で染め、粋な縞模様に織り上げる木綿織物です。桃山時代にインドから伝わった「唐桟留(とうざんどめ)」と呼ばれる縞織物にルーツを持ち、江戸時代には粋な着物地として庶民に愛されました。館山での生産は明治初期、初代齋藤茂助が東京の授産場で川越唐桟の職人から技術を学び、明治23年に館山へ移り住んで工房を開いたことに始まります。以来、齋藤家一子相伝で技術が守られ、他に継承者を持たない全国でも希少な伝統織物となりました。40〜80番手という極めて細い木綿糸を、職人が舌で濃度を確かめながら染め上げ、高機で丹念に平織りしたのち、木槌で打つ「砧打ち」によって独特の光沢としなやかな風合いを生み出します。現在は4代目齋藤裕司氏が館山市長須賀の工房でただ一人、全工程を守り続けています。

久留米絣
織物福岡

久留米絣

Kurume Kasuri

久留米絣は福岡県久留米市を中心とする旧久留米藩地域で織られてきた藍染めの木綿絣で、伊予絣・備後絣と並ぶ日本三大絣の一つです。創始者は江戸時代後期の女性・井上伝で、13歳のとき着古した藍染めの着物の色落ちした部分に白い斑点が浮かんでいるのを見て、糸をあらかじめ括って染め分ける技法を考案し、紺と白のまだらな糸で織り上げる絣模様「加寿利」を生み出したと伝えられています。糸を括って防染し藍で染める「くくり」、染めた糸を解いて柄合わせをしながら織る工程まで、機械化が進んだ現在も約30の工程を経て仕上げられ、完成までに数か月を要します。輪郭がにじんだような素朴で温かみのある風合いが特徴で、1957年に重要無形文化財に指定され、1976年には国の伝統的工芸品にも指定されています。

京指物
木工京都

京指物

Kyo-sashimono

京指物は、金釘などの接合金具を使わず、木の板と板、棒と板を組み合わせる「組み手」やホゾ差しの技法によって作られる京都の木工芸です。起源は平安時代の宮廷文化に発するとされ、正倉院に見られるような日本独自の木工技術に、中国・朝鮮から渡来した文化も取り入れながら発展してきました。室町時代以降には専門の指物師が現れ、茶道文化の広がりとともに、調度品としての指物と茶道具としての指物の双方で洗練された技術が磨かれていきました。狂いが少なく軽量な桐、柔らかく滑らかな杉、堅牢で高級感のある欅など木材の性質を見極めて使い分け、木目の美しさを生かしながら精緻に組み上げるのが特徴です。京箪笥や棚、茶道具、硯箱など幅広い品目に用いられ、1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。

金沢箔
金工石川

金沢箔

Kanazawa-haku

金沢箔は石川県金沢市を中心に生産される金箔で、国内で使用される金箔の99%以上を占める一大産地です。始まりは文禄2年(1593年)、加賀藩祖前田利家が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した陣中から金沢に箔の製造を命じたことに遡るとされます。江戸時代、幕府は金銀の生産地を江戸と京都に限る「箔打ち禁止令」を出しましたが、加賀藩は密かに製造を続け、少ない材料で質の高い金箔を大量に作る技術を磨き上げました。元治元年(1864年)には職人たちの尽力により公儀御用としての箔製造がついに公認されます。明治維新後は江戸の箔屋が衰退する一方、金沢の箔産業は発展を続けました。純金にわずかな銀・銅を加えた合金を1万分の1ミリほどの厚さまで均一に打ち延ばす職人技と、金沢の気候・水質に恵まれたことが、他産地の追随を許さない技術水準を生んでいます。1977年に伝統的工芸品の材料として指定されました。

甲州大石紬
織物山梨

甲州大石紬

Koshu Oishi Tsumugi

甲州大石紬は、山梨県富士河口湖町の大石地区で織られてきた手織りの絹織物で、県の指定名称は「甲州大石紬織物」です。河口湖の北岸にあたるこの地域では、養蚕から糸づくり、機織りまでを手作業で一貫して行ってきました。経糸(たていと)には一匹の蚕が作る本繭の糸、緯糸(よこいと)には二匹の蚕が一緒に作る玉繭の糸を使います。糸は、座繰り(ざぐり)という道具で繭から手で引き出します。丈夫で軽く柔らかく、絹特有の滑らかさを備えた風合いが特徴です。郡内地域の織物については、915年に絹を朝廷へ献上したという記述が残ります。江戸時代末期には、富士講の人々や行商人の手で広く売り出されました。1994年に山梨県郷土伝統工芸品に指定されています。大石紬伝統工芸館では、機織りの見学や手織りの体験ができます。

行田足袋
織物埼玉

行田足袋

Gyoda Tabi

埼玉県行田市に伝わる足袋づくりの伝統技術で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。利根川と荒川に挟まれた行田は、堆積した砂質土と豊富な水、夏の高温多湿な気候が綿花や藍の栽培に適しており、江戸時代には藍染めの綿織物「青縞」の一大産地となりました。この綿布と縫製技術を活かし、貞享・享保年間(17世紀末〜18世紀前半)頃には足袋づくりが始まったと伝えられ、天保年間には27軒もの足袋屋が軒を連ねるまでに発展しました。明治期にミシンが導入されると生産量は飛躍的に増加し、1938年には全国シェアの8割を占める日本一の足袋産地となりました。往時の隆盛を今に伝える土蔵・煉瓦造りなどの「足袋蔵」が市内に数多く残り、2017年には日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」に認定されています。関連資料5,484点は国の重要有形民俗文化財にも指定され、現在も市内のメーカーが和装用から祭り用、ランニング用まで幅広い足袋を製造し続けています。

山形仏壇
木工山形

山形仏壇

Yamagata Butsudan

山形仏壇は、山形市を中心に木地・宮殿・彫刻・塗装・蒔絵・金具・箔押しの7つの工程がそれぞれ専門の職人による分業でつくられる仏壇です。享保年間(1724〜1736年頃)、江戸浅草で彫刻の技術を学んだ星野吉兵衛が山形に戻り、欄間や仏具の製作を始めたのが起源とされています。2代目・吉兵衛広高が地元の職人たちを集めて仏壇づくりを本格化させ、最上川舟運によって上方から優れた技術や文化がもたらされたことも産地の発展を後押ししました。明治28年(1895年)頃に7職分業の生産体制が確立し、日本最北の仏壇産地として発展を続け、1980年(昭和55年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。ケヤキなどを用いた堅牢な木地組みと、深く精緻な彫刻、落ち着いた黒金具や沈金金具が特徴です。

志戸呂焼
陶器静岡

志戸呂焼

Shitoro Yaki (Shitoro Ware)

志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市の金谷地区で焼き継がれてきた陶器です。名前は、大井川西岸の金谷周辺がかつて「志戸呂郷」と呼ばれたことに由来します。窯跡の発掘調査から、成立は室町時代後期にさかのぼるとされます。瀬戸や美濃から移り住んだ陶工が窯を築いたのが始まりといわれます。その後、徳川家康の庇護を受け、家康から朱印状を与えられたとも伝わります。江戸時代には茶人・小堀遠州が好んだ「遠州七窯(えんしゅうなながま)」の一つに数えられ、茶陶の産地として全国に名を知られました。地元で採れる鉄分の多い土は硬く焼き締まり、湿気を嫌う茶壺に向くとされます。褐色や黒の鉄釉による素朴で渋い色調が持ち味です。現在は金谷の横岡などに窯元があり、抹茶・煎茶用の茶器を中心に作られています。静岡県の郷土工芸品に指定されています。

首里織
織物沖縄

首里織

Shuri-ori

首里織は、琉球王国の城下町として栄えた首里で発展した織物の総称で、花織・道屯織・手縞・花倉織・綾の中という5つの技法から成ります。14〜15世紀頃、中国・東南アジアとの盛んな交易を通じて織の技術が培われ、王府のお膝元である首里では、王族・士族の礼装や冊封使への献上品として、色・柄ともに究極まで追求された格調高い織物が生み出されました。中でも花倉織・道屯織は王家・貴族専用とされ、他の地域では織ることが許されない首里だけの技法として発展しました。素材には絹糸を中心に木綿糸・麻糸・芭蕉糸が用いられ、琉球藍や福木などの植物染料で染められます。1983年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となり、現在も那覇伝統織物事業協同組合を中心に技術が継承されています。

新潟漆器
漆器新潟

新潟漆器

Niigata Shikki

新潟漆器は、新潟市で作られる漆器です。江戸時代初めの元和年間(1615〜1624年)に、秋田(能代)の春慶塗が伝わったことが始まりとされます。寛永15年(1638年)には、現在の古町7番町に「椀店(わんだな)」と呼ばれる漆器の専売地域が定められました。港町・新潟は北前船の寄港地として物資や文化が集まる地で、各地のさまざまな漆塗りの技が伝わりました。そのため新潟漆器は「変わり塗の宝庫」と呼ばれ、数十種類ともいわれる塗りが受け継がれています。なかでも本物の竹と見間違えるほどの「竹塗」は、他の産地では見られない珍しい塗りとして知られます。2003年(平成15年)3月には、花塗・石目塗・錦塗・磯草塗・竹塗の5技法が経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。箸や盆、椀、名刺入れなど、暮らしの道具として今も親しまれています。

膳所焼
陶器滋賀

膳所焼

Zeze-yaki

膳所焼は滋賀県大津市の膳所地区で焼かれてきた陶器で、江戸時代前期に膳所藩の御用窯として、茶人としても名高い小堀遠州の指導のもとに始まったと伝えられます。遠州の好みを反映した端正な意匠から、遠州が選んだとされる代表的な七つの窯「遠州七窯」の一つに数えられ、黒みを帯びた釉薬に白土を掛けまわした茶入や水指などの茶陶で知られました。藩主の国替えにともない藩窯としての歴史は比較的短命に終わりましたが、大正8年(1919年)に地元の実業家・岩崎健三が画家・山元春挙と協力して窯を再興し、「新生膳所焼」として今日まで技術が受け継がれています。現在は大津市の膳所焼美術館などでその作品や歴史に触れることができます。

太田太鼓
木工群馬

太田太鼓

Ota Daiko

太田太鼓は、群馬県太田市の大光院門前通りに店を構える山口太鼓店が、江戸時代から160年余りにわたり作り続けてきた和太鼓です。木工による胴の製作と、皮革をなめして張り込む技術を組み合わせて作られ、現在は店主で八代目にあたる山口宗一氏がその技を受け継いでいます。太鼓の胴には木目の美しいケヤキなどが用いられ、切り出した生木を数年かけてじっくりと乾燥させたのち、内部をくり抜いて仕上げます。皮は原皮を糠に漬けて発酵させる「糠なめし」によって毛を落とし、木槌で伸ばしながら音を確かめて胴に張り込んでいきます。一つの太鼓が完成するまでに5年以上を要することもあり、すべての工程を手作業と職人の勘に頼りながら仕上げられる音色と響きに、太田太鼓ならではの伝統が息づいています。群馬県は佐波郡の遺跡から6〜7世紀ごろの太鼓を持つ埴輪が出土するなど、和太鼓の歴史においても重要な土地とされています。

大阪泉州桐箪笥
木工大阪

大阪泉州桐箪笥

Osaka Senshu Kiri Tansu (Osaka Senshu Paulownia Chests)

大阪泉州桐箪笥(おおさかせんしゅうきりたんす)は、大阪府南部の泉州地域を中心に作られている桐の箪笥です。主な産地は岸和田市、堺市、和泉市、忠岡町などです。箪笥は大阪で最初に生まれたともいわれ、江戸時代中期には大阪で製造技術が確立していました。その技術が大阪市内から堺を経て和泉へ広がり、泉州に産地が形成されたとされます。厚い桐材を使い、組手(板同士を組み合わせる継ぎ手)が多く、作りと仕上げが丁寧なことから「桐箪笥の最高峰」とも称されます。角を丸く削った「胴丸型」が多く、蒔絵や漆塗りを施した特注品の需要が多いのも特徴です。桐は湿気を防ぎ、熱を通しにくいため、着物などの大切な衣類をしまう家具として重宝されてきました。1989年(平成元年)に国の伝統的工芸品に指定されています。

内山紙
和紙長野

内山紙

Uchiyama-gami (Uchiyama Paper)

内山紙は、長野県北部の飯山市を中心に漉かれている手漉き和紙です。江戸時代初期の寛文元年(1661年)、内山村(現在の木島平村内山)の萩原喜右ヱ門(はぎわらきうえもん)が美濃で製法を学び、帰郷して漉いたのが始まりと伝わります。名前は、この地名に由来します。原料には楮(こうぞ)だけを使い、洋紙のパルプを混ぜません。豪雪地帯ならではの「雪晒し(ゆきざらし)」で楮の皮を雪の上にさらし、自然な白さを引き出すのが大きな特徴です。丈夫で通気性や保湿性にすぐれ、日焼けしにくいことから、障子紙として重宝されてきました。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。飯山市や木島平村には、紙漉きを体験できる施設があります。

鍋島緞通
織物佐賀

鍋島緞通

Nabeshima Dantsu

鍋島緞通は、佐賀城下郊外の嘉瀬郷扇町村を発祥とする日本最古の綿緞通(手織りの敷物)です。江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)、農夫の古賀清右衛門が長崎で中国人から緞通の織り方を学び、「扇町毛氈」として織り上げたのが始まりと伝えられます。中央アジアからトルコ、中国を経て伝わったとされる技術は、羊毛を用いる海外の緞通と異なり、経糸・緯糸のすべてに佐賀県白石産などの上質な木綿を用いる点が特徴です。佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂がその評判を喜んで扶持米を与えて保護したことから藩の御用品となり、一般への売買は長らく禁じられていました。明治時代に一般販売が始まり、1873年のウィーン万国博覧会にも出品されています。現在も数百年前と変わらぬ手織り機を用い、職人が一枚ずつ丁寧に織り上げる貴重な工芸品として受け継がれています。

白石和紙
和紙宮城

白石和紙

Shiroishi Washi

白石和紙は宮城県白石市に伝わる手すき和紙で、江戸時代に仙台藩主・伊達家の産業奨励により発展しました。仙台藩の御用紙として幕府や朝廷への献上品にも用いられ、奉書から厚紙、ちり紙まで約60種類もの紙が漉かれていたと伝わります。強靭でふくよかな質感が特徴で、清少納言や紫式部の時代から東北の紙は「ふくよかに、清く、うるわしく」と評されてきました。その強さを生かし、紙を揉んでやわらかくした「紙子(かみこ)」という素材としても発展し、防寒着や袋物などにも用いられてきました。明治以降、洋紙の普及とともに一時は生産が途絶えかけましたが、1940年に設立された奥州白石民芸研究所で遠藤忠雄が伝統技術を復活させ、1982年12月1日には宮城県指定の伝統的工芸品となりました。現在は拓本染めの技法を用いた紙子づくりなど、新たな表現を交えながら手すきの技が受け継がれています。

尾張七宝
金工愛知

尾張七宝

Owari Shippo

尾張七宝は愛知県あま市(旧七宝町)を中心に作られる、金属素地にガラス質の釉薬を焼き付ける工芸品です。江戸時代後期の天保年間(1830〜1844年)、尾張国の梶常吉がオランダ船によって伝来した七宝の皿を手本に製造法を研究・改良したことが始まりとされます。銅や銀の素地表面に、図柄の輪郭となる銀線を立てて釉薬を焼き付ける「有線七宝」を代表技法とし、花鳥風月や風景を精緻に表現します。1867年のパリ万国博覧会への出品を機に世界的に名を知られるようになり、明治期には輸出工芸品としても発展しました。現在もあま市七宝町を中心に花瓶・額・装身具などが作られ、1995年に国の伝統的工芸品に指定されています。

伊勢春慶
漆器三重

伊勢春慶

Ise Shunkei (Ise Lacquerware)

伊勢春慶(いせしゅんけい)は、三重県伊勢市で作られてきた漆器です。伊勢漆器や山田春慶とも呼ばれます。檜の板で作った箱物に、弁柄(べんがら:赤い顔料)や柿渋で下塗りをし、透明な漆で仕上げます。赤褐色の地に檜の木目が透けて見えるのが持ち味です。起源ははっきりしませんが、室町時代に神宮の造営に携わった工匠が余材で作り始めたと伝わります。江戸時代には伊勢参りの土産として売買され、河崎の問屋から各地へ出荷されました。明治時代には「粗末だが廉価で堅牢」と評され、重箱や膳など日常の器として全国で使われます。しかし戦争と戦後の暮らしの変化で、生産はいったん途絶えました。1994年(平成6年)に三重県指定伝統工芸品となり、2004年(平成16年)に発足した「伊勢春慶の会」が復活を進めています。

燕鎚起銅器
金工新潟

燕鎚起銅器

Tsubame Tsuiki Doki

燕鎚起銅器は、新潟県燕市で作られる銅器です。一枚の平らな銅板を金鎚で繰り返し打ち起こし、継ぎ目のない立体的な器に仕上げます。「鎚起(ついき)」とは、鎚で打ち起こすという意味です。燕では江戸時代初期に農家の副業として和釘づくりが広まり、金鎚を扱う技術が根づいていました。近郊の弥彦山で銅が採れたことも背景に、明和5年(1768年)に仙台の渡り職人・藤七が鎚起の製法を伝えたとされます。文化13年(1816年)創業の玉川堂は、200年以上この技術を受け継いできた代表的な工房です。湯沸や急須、酒器、花器などが作られ、注ぎ口まで一枚の板から打ち出す高度な技や、使うほど色合いが深まる着色が魅力です。1981年に国の伝統的工芸品に指定されました。

鴨川萬祝染
染物千葉

鴨川萬祝染

Kamogawa Maiwaizome

鴨川萬祝染は、房総半島の漁村で生まれた大漁祝いの晴れ着「萬祝(まいわい)」を染め上げる伝統的な染色技法です。江戸時代後期、大漁を得た網元が乗子や関係者に晴れ着を配る風習が房総の漁村で生まれ、鶴・亀・松竹梅・宝船・鯛などの縁起の良い図柄を、藍地に白く染め抜いたり多彩な色彩で大胆に描いたりする独特の意匠が発展しました。歌川貞秀の浮世絵にも萬祝姿の漁師が描かれており、江戸後期には特別な晴れ着として定着していたと考えられています。この染色文化は太平洋沿岸を北は青森から南は静岡まで広く伝わりましたが、戦後は漁業の変化や後継者不足により多くの産地で途絶えました。現在、鴨川市では「鈴染」が伝統の型染め技法を今に伝える数少ない継承者として、萬祝染の着物や小物づくりを続けています。1997年(平成9年)には千葉県の伝統的工芸品に指定されました。

牛首紬
織物石川

牛首紬

Ushikubi-tsumugi

牛首紬は、霊峰白山のふもと、石川県白山市白峰(旧牛首村)で約800年にわたり織り継がれてきた絹織物です。最大の特徴は、二匹の蚕が共同で一つの繭を作る「玉繭」を原料とすることで、繭を熱湯で煮ながら手で直接糸を引き出す「座繰り」という昔ながらの製糸技法が用いられます。この玉糸は不規則な節を含みながらも弾力性・伸張性に富み、独特のしなやかな光沢と丈夫さを兼ね備えた生地を生み出します。釘を引っかけても破れないほどの強さから「釘抜き紬」の異名を持つほどで、日常づかいにも耐える実用性の高さが評価されてきました。豪雪地帯である白峰では、傾斜地が多く耕地に恵まれなかったため、古くから養蚕が貴重な現金収入源となり、女性たちの手仕事として紬織りが受け継がれてきました。現在も白峰の織元が中心となって伝統を守り続けています。

京扇子
木工京都

京扇子

Kyo-sensu

京扇子は、京都および京都近郊で作られる扇子の総称で、平安時代初期に京都で考案されたと伝わる。宮中で用いられた檜扇や紙扇にルーツを持ち、扇面づくり・扇骨加工・上絵・仕上げなど、工程ごとに専門の職人が分業する点が最大の特徴で、一本が仕上がるまでに80以上ともいわれる工程を経る。一人の職人が一貫して仕立てる江戸扇子に対し、京扇子は分業体制によって精緻な仕上がりを追求してきた歴史を持つ。茶道・能楽・舞踊など用途に応じた茶扇や舞扇、実用扇から飾り扇まで意匠も幅広く、現在も国内の扇子生産の大半を京都および近郊が担っている。1977年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となった。

郡内織物(甲斐絹)
織物山梨

郡内織物(甲斐絹)

Gunnai Textiles (Kaiki Silk)

郡内織物は、山梨県東部の郡内地域、とくに富士山麓の富士吉田市と西桂町を中心に織られてきた先染めの織物です。平安時代の法令集『延喜式』には甲斐国が布を納める国として記され、千年以上続く織物の産地とされています。江戸時代には郡内縞などの絹織物が井原西鶴の浮世草子に登場するほど知られました。南蛮貿易で伝わった「海気(かいき)」を源流とする甲斐絹(かいき)は、羽織の裏地に使われる高級絹織物として、江戸時代から昭和初期まで盛んに織られました。甲斐絹そのものは1940年代に姿を消しましたが、「先染め・細番手・高密度」の技術は今も受け継がれています。現在は傘地やネクタイ地、服地、インテリア生地などを手がけ、国産ネクタイ生地の4割に使われています。機屋(はたや)が集まる富士吉田は「ハタオリマチ」とも呼ばれます。

江戸押絵羽子板
木工埼玉

江戸押絵羽子板

Edo Oshie Hagoita

厚紙に綿を詰めて布でくるむ「押絵」の技法により、歌舞伎役者や役者見立ての人物像を立体的に表現した羽子板です。押絵の技術は江戸時代の文化・文政期(1804〜1829年)に発達し、歌舞伎の流行や浮世絵の普及を背景に役者の似顔絵をあしらった「役者羽子板」が江戸の町人文化の中で人気を博しました。戦後、東京・浅草周辺に代々暮らしていた押絵羽子板の職人たちが、羽子板の板材に適した良質な桐材を求めて埼玉県春日部市に移り住んだことから、春日部が一大産地として発展し、昭和52年(1977年)には埼玉県の伝統的手工芸品に指定されました。1枚の羽子板を仕上げるまでに50〜70種類もの材料を組み合わせ、およそ200もの手作業の工程を要するとされ、綿の詰め方や布の使い方で人物の表情や仕草を立体的に描き分ける高度な技術が受け継がれています。雛人形・五月人形の産地として知られる岩槻区でも、人形店が羽子板の製造・販売を手がけています。

若狭塗
漆器福井

若狭塗

Wakasa-nuri

若狭塗は、福井県小浜市で作られる漆器です。卵の殻やアワビなどの貝殻、松葉などで模様を付け、色漆を何層も塗り重ねたのち、砥石で研いで模様を浮かび上がらせる「研ぎ出し」が最大の特徴です。その模様は若狭湾の海底を思わせるといわれ、かつては「宝石塗」とも呼ばれました。江戸時代初期、小浜藩の御用塗師・松浦三十郎が中国の漆器をヒントに、海底の様子を意匠化した塗りを考案したのが始まりとされます。藩主の酒井家は若狭塗を手厚く保護し、江戸中期から後期には200種以上の塗手法が生まれたと伝えられています。1978年(昭和53年)には国の伝統的工芸品に指定されました。現在の代表的な製品は塗箸で、小浜市は国内で生産される塗箸の8割以上を占めるとされます。市内の箸のふるさと館WAKASAや若狭工房では、箸の研ぎ出し体験ができます。

秋田銀線細工
金工秋田

秋田銀線細工

Akita Ginsen Zaiku

秋田銀線細工は、純度の高い銀を直径0.2〜0.3mmほどの細い線に加工し、撚り合わせて渦巻きや唐草模様のパーツ「平戸」を作り、銀枠にはめ込んで組み上げる金属工芸です。慶長7年(1602)、佐竹義宣が常陸国から秋田へ国替えとなった際に金銀細工師を伴ったことが起源とされ、院内銀山をはじめとする秋田の鉱山開発と歴代藩主佐竹家の保護によって、刀装具や装飾金具の技術として発展しました。明治以降、武家需要の減少とともに、ブローチやペンダントなどの装身具づくりへと用途を広げ、ポルトガル船によって伝わったとされる「平戸細工」の技法を取り入れながら独自の様式を確立しました。純銀ならではの落ち着いた輝きと、精緻な線模様が織りなす繊細な意匠が最大の魅力で、昭和30年(1955)には国の無形文化財に選択され、現在は秋田県伝統工芸品・秋田市指定無形文化財として受け継がれています。

小幡人形
陶器滋賀

小幡人形

Obata Ningyo

小幡人形は滋賀県東近江市五個荘小幡町に伝わる伝統的な土人形で、1994年に滋賀県伝統的工芸品に指定されました。享保年間(1716~1736年)、京都との飛脚業を営んでいた安兵衛が、当時人気を集めていた京都・伏見人形の製法を学び持ち帰ったことが始まりと伝えられています。旧中山道沿いの工房では、今も木型・土型を用いた昔ながらの製法が受け継がれ、素朴な土の風合いに桃色や群青色を中心とした鮮やかな彩色を施すのが特徴です。長年にわたり数百種ともいわれる型が蓄積され、節句人形や干支にちなんだ土鈴など、季節や縁起にまつわる多彩な品が作られてきました。近江商人ゆかりの町並みに溶け込む郷土玩具として親しまれる一方、後継者は初代安兵衛から数えて九代目にあたる細居源悟氏ただ一人となっており、地域では保存継承に向けた取り組みも続けられています。

大阪金剛簾
木工大阪

大阪金剛簾

Osaka Kongo Sudare (Bamboo Blinds)

大阪金剛簾(おおさかこんごうすだれ)は、富田林市・河内長野市・大阪市でつくられる真竹の簾です。かつては金剛山や葛城山のふもとに育つ良質な竹に恵まれ、竹籠づくりのかたわら簾が編まれるようになりました。平安時代の宮中で間仕切りや飾りに使われた御簾(みす)が、現在の座敷簾の原型といわれます。主な製品は、神社仏閣で使われる御簾と、住まいの間仕切りや日よけに用いる座敷簾です。竹ヒゴの自然な節で「くの字」形の模様を描く編み方や、西陣緞子(どんす:光沢のある絹の紋織物)の縁が見どころです。1985年(昭和60年)に「金剛簾」として大阪府の伝統工芸品に指定されました。1996年(平成8年)には「大阪金剛簾」の名で国の伝統的工芸品となっています。大阪府の調査報告によれば、NHK大河ドラマ「篤姫」「江」の撮影で使われた御簾はすべて大阪金剛簾でした。

堤焼
陶器宮城

堤焼

Tsutsumi-yaki

堤焼は仙台市の旧堤町(現・仙台市青葉区堤町周辺)を産地とする陶器で、江戸時代元禄年間(1688~1704年)、仙台藩四代藩主・伊達綱村が京都から陶工を招いて窯を築かせたことに始まると伝えられます。当初は藩主の茶道具などを焼く御用窯として出発し、のちに壺や甕、片口といった庶民の生活雑器を大量に生産するようになりました。江戸期には素焼きの土人形「堤人形」の産地としても知られ、京都の伏見人形と並び「西の伏見、東の堤」と称されるほどの賑わいを見せました。最大の特徴は、地元でとれる赤土に、鷺ヶ森周辺の岩石や籾殻の灰を用いた釉薬を黒と白で豪快に流し掛ける「海鼠釉(なまこゆう)」で、素朴で力強い風合いを生み出します。昭和初期には民藝運動の柳宗悦にも東北を代表する民窯として高く評価されました。最盛期には30軒近い窯元が軒を連ねましたが、現在は「堤焼乾馬窯」1軒のみがその伝統を守り続けています。宮城県知事指定伝統的工芸品。

土湯こけし
木工福島

土湯こけし

Tsuchiyu Kokeshi

土湯こけしは福島市の土湯温泉で育まれてきた伝統こけしで、宮城県の鳴子・遠刈田と並び、東北三大こけし発祥地のひとつに数えられています。江戸時代、木の器や道具を作る木地師たちの手仕事の中から約300年前に生まれたと伝えられ、以来湯治客の土産物・子どもの玩具として親しまれてきました。他産地に比べて頭が小さく胴も細身の女性的な姿で、頭部には黒い蛇の目模様、顔の左右には長い前髪と赤い髪飾り「カセ」、クジラのような目とたれ下がった鼻、おちょぼ口が描かれ、素朴で優しい表情が持ち味です。頭部を胴に差し込む「はめ込み式」の構造になっており、首を回すとキイキイと音が鳴る仕掛けも土湯こけしならではの愛らしさです。現在も土湯温泉には工人が工房を構え、一本一本を手作業で挽き続けています。

読谷山花織
織物沖縄

読谷山花織

Yomitanzan Hanaori

読谷山花織は沖縄本島中部の読谷村に伝わる紋織物で、経糸・緯糸を浮かせて織り出す幾何学的な花模様が特徴です。琉球王国が中国や東南アジアとの交易で栄えた14〜15世紀頃、大陸から伝わった浮織の技法が読谷山(現在の読谷村)で独自に発展したのが起源とされ、王府への献上布や士族の衣装として珍重されてきました。明治以降は衰退し、第二次世界大戦の沖縄戦でほぼ途絶えかけましたが、1964年に読谷村の有志が古老の記憶や残された古布を頼りに復元に取り組み、約90年ぶりに技術がよみがえりました。復興の担い手たちはやがて読谷山花織事業協同組合を結成し、後継者の育成や技術の継承にあたっています。柄には「銭花(ジンバナ)」「扇花(オージバナ)」「風車花(カジマヤーバナ)」の3種の基本文様があり、それぞれ富貴・子孫繁栄・長寿への願いが込められています。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、木綿や絹の帯・着尺のほか、ミンサー帯など幅広い製品が作られています。

八女提灯
和紙福岡

八女提灯

Yame Chochin

八女提灯は福岡県八女市(旧福島町)で生まれた盆提灯を代表する伝統的工芸品です。文化年間(1813年頃)に荒巻文右衛門が創製したのが始まりとされ、後に吉永太平が竹ひごを一本につないで螺旋状に巻く「一条螺旋式」を考案。薄い和紙を用いて内部の灯りが仄かに透けるようにしたことで品質が飛躍的に向上しました。火袋には花鳥風月を描いた繊細な彩色画が施され、住吉提灯や大内行灯、御殿丸(御天丸)など多彩な種類があります。現在の提灯づくりの主流である一本の骨を螺旋状に巻く構造は、八女提灯が起源とされています。平成13年(2001年)に国の伝統的工芸品に指定され、生産量は日本一を誇り、海外へも出荷されています。仏事に用いる盆提灯としての需要が中心ですが、近年は若手職人による現代的なデザインの製品づくりも進んでいます。

飯山仏壇
木工 / 漆器長野

飯山仏壇

Iiyama Butsudan (Iiyama Buddhist Altars)

飯山仏壇は、長野県飯山市で作られる金仏壇です。市の北部・愛宕町を中心に生産され、部品作りから組み立て、修理までを地域の中で一貫して行っています。飯山は室町時代に北陸から浄土真宗が伝わり、信仰の厚い土地柄として知られます。多くの寺が建ち並ぶ町並みから、「雪国の小京都」とも呼ばれてきました。元禄2年(1689年)に甲州から来た寺瀬重高が、素地仏壇を手がけたのが始まりと伝わります。宮殿(くうでん)を「肘木組物(ひじきくみもの)」で組み上げる技法と、宮殿がよく見えるよう弓形にした「弓長押(ゆみなげし)」が特徴です。分解して洗い、塗り直す「せんたく」によって、何世代にもわたって使い継ぐことができます。1975年に国の伝統的工芸品に指定されました。雪よけの雁木(がんぎ)が続く愛宕町の通りは、仏壇店が軒を連ねる「仏壇通り」として親しまれています。

飛騨春慶塗
漆器岐阜

飛騨春慶塗

Hida Shunkei-nuri

飛騨春慶塗は岐阜県高山市に伝わる漆器で、黒漆や朱漆を使わず透漆(すきうるし)を用いて木地の美しい木目をそのまま生かす点が最大の特徴です。起源は江戸時代初期の慶長年間(1596〜1615年)に遡るとされ、寺社仏閣の造営工事の際に見つかった椹(さわら)の美しい木目を生かして盆を作り、皇族や幕府へ献上したことが始まりと伝えられています。以来、木地を挽く木地師と漆を塗る塗師が分業しながら技を磨き、盆や重箱、菓子器などの日用品として発展してきました。1975年(昭和50年)2月17日には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、現在も高山市内の窯元・工房で製作が続けられています。塗師によって色調や艶に個性が表れ、同じ形の器でも一つとして同じ表情のものはないといわれています。

尾張仏具
金工愛知

尾張仏具

Owari Butsugu

尾張仏具は、名古屋市南部の門前町・大須周辺を中心に作られてきた仏具の総称で、木地に幾重にも漆を塗り重ねた深い光沢と、金箔・金粉による華やかな加飾、精緻な錺金具(かざりかなぐ)を特徴とします。始まりは1609年の名古屋城築城にさかのぼり、城下町「南寺町」の造営に携わった宮大工たちが、のちに仏具づくりへと転じたことによります。江戸後期には下級武士の内職であった錺金具づくりの技術も取り込まれ、木曽檜など良質な木材を用いて木地・彫刻・漆塗り・金箔押し・錺金具の高度な分業体制のもとで発展しました。明治以降は問屋を中核とした流通網が整い、尾張地域が交通の要衝であったことも後押しして、尾張仏具は全国の寺院・在家へと広く供給されるようになりました。現在も宗旨宗派や用途に応じて1000種類以上の仏具が作られており、須弥壇や香炉、燭台、輪灯など機能性と装飾性を兼ね備えた造形が特徴で、2017年には国の伝統的工芸品に指定されています。

平清水焼
陶器山形

平清水焼

Hirashimizu-yaki

平清水焼は山形市南東に位置する千歳山の南麓、平清水の里で焼かれる陶磁器です。千歳山から採れる鉄分を多く含んだ陶石を原料とすることから「千歳焼」とも呼ばれます。江戸時代後期の文化年間(1804〜1818年)に常陸国から来た陶工・小野藤治平が始祖とされます。その後の文政年間には相馬藩の陶工が窯を開いて相馬焼の技法をもたらし、窯業の一大集落へと発展しました。明治中期の最盛期には30軒を超える窯元が軒を連ねましたが、現在は青龍窯・七右エ門窯など数軒を残すのみです。陶器と磁器の両方の原料となる土が採れる珍しい産地で、窯元ごとに釉薬や技法が異なります。千歳山の原土に含まれる硫化鉄が生む青白い斑点の「梨青瓷」や、純白釉に黒斑が浮かぶ「残雪」など個性豊かな作品が作られています。

名尾手漉和紙
和紙佐賀

名尾手漉和紙

Nao Tesuki Washi

名尾手漉和紙は、佐賀市大和町名尾地区で300年以上受け継がれてきた手すき和紙です。江戸時代中期の1690年(元禄3年)、名尾村の庄屋・納富由助が筑後国溝口村(現・福岡県八女市)で紙すきの技術を習得して持ち帰ったことに始まります。耕地の少ない山間の名尾では、この技術が農家の貴重な副業として広まり、最盛期の昭和初期には100軒近い家が紙すきを営む一大産地となりました。原料には一般的な楮ではなく地区に自生・栽培される梶の木を用いるのが最大の特徴で、繊維が長く絡み合うため薄くても丈夫な紙に仕上がり、提灯紙や番傘、合羽、障子紙などとして重用されてきました。しかし機械化や生活様式の変化により従事者は減少を続け、現在は「名尾手すき和紙」を営む谷口家一軒のみがその技術を継承しています。7代目・谷口弦氏が工房を守り、伝統を生かしながら新しい和紙製品づくりにも取り組んでいます。

賤機焼
陶器静岡

賤機焼

Shizuhata Yaki (Shizuhata Pottery)

賤機焼(しずはたやき)は、静岡市葵区で焼かれている陶器です。江戸時代初期、徳川家の家臣・太田七郎右衛門が、駿府に在城していた徳川家康から、賤機山(しずはたやま)の麓に朱印地と「賤機焼」の称号を与えられたのが始まりと伝わります。以後、徳川家の御用窯として栄えたといわれます。しかし文政年間の末頃、安倍川の大氾濫で窯場が流され、一度途絶えました。明治時代に再興の動きが起こり、静岡県が招いた陶工の青島庄助によってよみがえります。その後、青島家の二代目が常滑焼の技術を、三代目が南蛮手や釉裏紅(ゆうりこう)の技法を取り入れ、独自の焼き物へと発展しました。外側を鬼瓦、内側を福面にかたどった縁起物「鬼福(おにふく)」がよく知られています。現在は青島家の五代目が「秋果陶房」で作陶を続けており、静岡県郷土工芸品に指定されています。

雲平筆
文具滋賀

雲平筆

Umpei-fude

雲平筆は、和紙を軸に巻き込んで穂を仕立てる「巻筆」の技法を今に伝える書道用の毛筆です。祖は元和年間(1615年頃)に京都で創業したと伝わる筆司・藤野雲平で、宮中の御用を務め、書道の家として知られる有栖川宮家とも縁が深かったとされます。正徳年間には五代目雲平が時の関白・近衛家熙から「攀桂堂」の号を賜り、以後この名で代々の筆司が技術を受け継いできました。現在は滋賀県高島市安曇川町に工房を構え、十五代目藤野雲平とその子が、和紙で穂首を巻き固める巻筆づくりを手がける日本で唯一の作り手として知られています。狸や羊、鼬など複数の獣毛を用いて仕立てられる穂は墨含みがよく、力強い線を生み出すとされ、書家をはじめ多くの愛好者に親しまれてきました。1966年には十四代目が滋賀県指定無形文化財の保持者に認定され、雲平筆自体も滋賀県知事指定の伝統的工芸品となっています。

越後三条打刃物
金工新潟

越後三条打刃物

Echigo Sanjo Uchihamono

越後三条打刃物は、新潟県三条市で作られる鍛造の刃物です。鉄や鋼を炉で赤くなるまで熱し、金鎚で叩いて形を作る「自由鍛造」の技術を生かし、多彩な品目を生み出してきました。包丁や切出小刀、鉋・鑿などの大工道具、鎌や鉈、木鋏、ヤットコ、和釘までがそろいます。始まりは江戸時代初期の寛永2年(1625年)とされます。河川の氾濫に苦しむ農民を救うため、大谷清兵衛が江戸から釘鍛冶を招き、副業として和釘づくりを広めたと伝えられています。やがて専業の鍛冶職人が生まれ、会津方面から鋸や鉈の製法が伝わると、製品は刃物全般へと広がりました。用途ごとに特化した形状と材質で扱いやすく、切れ味が長く続く点が評価され、2009年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。市内の三条鍛冶道場では、鍛冶仕事を気軽に体験できます。

関の刃物
金工岐阜

関の刃物

Seki Hamono

関の刃物は岐阜県関市で作られる刃物の総称で、日本の家庭用刃物の全国出荷額の約半分を関市が占める一大産地です。起源は鎌倉時代に刀匠・元重が関の地に移り住み刀づくりを始めたことに遡るとされ、南北朝時代には正宗十哲の一人・金重や兼氏らが「美濃伝」と呼ばれる独自の鍛刀技術を確立し、日本刀の五箇伝の一つに数えられるまでになりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」と評された関の刀は全国にその名を広めました。江戸時代以降は刀剣需要の減少に伴い、鍛冶職人たちは包丁やかみそり、ハサミなど生活刃物づくりへと技術を転換し、明治以降は近代的な刃物産業として発展しました。現在は特許庁の地域団体商標「関の刃物」の認可を受け、世界三大刃物産地の一つに数えられています。

久米島紬
織物沖縄

久米島紬

Kumejima Tsumugi

久米島紬は沖縄本島の西方に浮かぶ久米島で、養蚕から染色、織りまでの全工程を一人の織り手が手作業で行う絹織物です。15世紀頃には久米島ですでに養蚕が行われていたとみられ、1637年に琉球王府への貢納布に定められて以降、精緻な技術が磨かれてきました。日本各地の紬絣技法は久米島を起点に沖縄本島や奄美大島を経て本土に伝わったとされ、大島紬や結城紬など全国の紬織物の源流の一つとも言われています。糸を紡ぐことから、模様選定、染め、機織りまでを一人の織り手が一貫して手がける点が大きな特徴で、フクギやグール(サルトリイバラ)、テカチ(車輪梅)などの草木染めを重ねたうえ、島の泥を用いた泥染めで鉄媒染することで、深みのある黒褐色や渋い光沢を生み出します。1975年に国の伝統的工芸品に指定され、2004年には国の重要無形文化財にも指定されました。久米島紬事業協同組合が中心となって技術継承にあたっており、久米島紬の里ユイマール館では製作工程の見学や織り染め体験ができます。

京うちわ
木工京都

京うちわ

Kyo-uchiwa

京うちわは、柄と団扇面が別々に作られ、後から柄を差し込む「差し柄」の構造を最大の特徴とする京都のうちわである。中骨と柄が一本の竹から作られる一般的なうちわとは異なり、団扇面には多数の竹骨が放射状に配され、そこに漆塗りや装飾を施した柄を後付けする点が独自性となっている。起源は南北朝時代、朝鮮半島から伝わった団扇が京都近郊の深草に伝わったことにさかのぼるとされ、江戸時代には宮廷向けに絵師が絵付けをした「御所うちわ」として発展した。実用品でありながら、日本画のような美しい絵柄と精密な竹細工が調和した工芸品として親しまれている。

金沢仏壇
木工石川

金沢仏壇

Kanazawa-butsudan

金沢仏壇は、加賀百万石の城下町として栄えた金沢で発達した金仏壇で、1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。発展の背景には、1471年に蓮如上人が北陸で浄土真宗の布教を行い、各地の集落に道場や末寺が建てられたことで仏壇需要が高まったことがあります。加賀藩3代藩主・前田利常の時代には京都・江戸から名工が細工所に招かれ、美術工芸の技術基盤が築かれました。木地師・宮殿師・塗師・蒔絵師・木地彫師・箔押師・金具師という7職の完全分業体制によって製作され、それぞれの職人が専門技術を極める点が金沢仏壇の大きな特徴です。中でも前柱・段縁・中柱・戸板・引出しなど広い範囲に磨き蒔絵・高蒔絵を施す点は他産地の仏壇にあまり見られない特色で、耐久性の高いアオモリヒバ材の木地とほぞ組による堅牢な構造も相まって、豪華絢爛でありながら永く使い続けられる仏壇として今日まで受け継がれています。

甲州武者のぼり・鯉のぼり
染物山梨

甲州武者のぼり・鯉のぼり

Koshu Musha Nobori and Koinobori

甲州武者のぼり・鯉のぼりは、山梨県南アルプス市で手染めされている端午の節句ののぼりです。戦国時代の戦陣にひるがえった旗指物(はたさしもの)や吹流しが、江戸時代後半に節句を祝うのぼりとして立てられるようになったのが起こりとされます。山梨では、子どもが武田信玄公のように強く育つよう願って武者のぼりが立てられてきました。その製作を受け継ぐのが、江戸時代末期に藍染めから始まった南アルプス市古市場の井上染物店です。木綿の布に糊で輪郭を描き、顔料や染料を重ねる「本染め」で、勇ましい武者や鯉を色鮮やかに染め上げます。すべて手作業で、完成までに2週間以上かかるといいます。平成6年(1994年)に山梨県郷土伝統工芸品に指定されました。近年は、室内に飾れる小さな鯉のぼりなども作られています。

行徳神輿
木工千葉

行徳神輿

Gyotoku Mikoshi

行徳神輿は、千葉県市川市行徳地区で作られる江戸型神輿の一大産地として知られる伝統工芸です。行徳は江戸時代から「行徳千軒、寺百軒」と称されるほど栄えた町で、日光東照宮の造営に携わった職人が幕府直轄地であった行徳に移り住んだことが神輿づくりの始まりとも伝えられています。木地師・彫刻師・塗師・金具師など、寺社の内外装を手がける職人が集まり、明治から昭和にかけて神輿巡行への関心の高まりとともに生産が拡大し、最盛期には行徳製の江戸型神輿が全国の神輿の約8割を占めたとも言われました。現在、行徳で一貫製作を続ける工房は創業150年余りの中台製作所のみとなっており、木地から彫刻、漆塗り、金箔押し、飾り金具、組み立てまでを社内で行っています。2018年には敷地内に「行徳神輿ミュージアム」が開館し、神輿づくりの技術と歴史を無料で見学できる貴重な施設となっています。

三春駒
木工福島

三春駒

Miharu Koma

三春駒は、現在の郡山市西田町高柴を発祥地とする木彫りの馬の郷土玩具で、青森県の八幡馬、宮城県の木下駒と並ぶ「日本三大駒」のひとつに数えられています。伝承によれば、平安時代の武将・坂上田村麻呂が791年頃の蝦夷征討で苦戦していた折、どこからともなく現れた木馬に助けられたことにちなみ、子どもの玩具「子育木馬(高柴木馬)」として作られ始めたのが起源とされます。江戸時代、馬の産地として知られた三春藩が野生馬を改良した名馬に「三春駒」と名付けたことから、玩具の呼び名としても広まりました。赤・黒・金色で彩色された白駒と黒駒があり、黒駒は子宝・安産・子育て、白駒は老後安泰・ぼけ封じの縁起物とされています。昭和29年(1954年)には日本で最初の年賀切手の図案にも採用された、全国的に知られる郷土玩具です。

若狭めのう細工
石工福井

若狭めのう細工

Wakasa Meno Zaiku

若狭めのう細工は、福井県小浜市に伝わる貴石の工芸です。めのうの原石に熱を加える「焼き入れ」で鮮やかな赤色を引き出し、削って磨き上げて置物や装身具に仕上げます。起源を奈良時代に求める伝承もありますが、技法の基礎が築かれたのは江戸時代中期です。享保年間(1716〜1736年)、遠敷村(現在の小浜市遠敷)の高山喜兵衛が大坂で研磨の技法を、津軽で焼き入れの技法を学び、村でめのうの玉づくりを始めたと伝えられます。明治に入ると彫刻の技法が開発され、香炉や仏像、動物の置物なども作られるようになりました。1976年(昭和51年)には国の伝統的工芸品に指定されています。最盛期には約50人の職人がいましたが、現在は宗助工房の上西宗一郎さんが産地で唯一の職人として技を受け継いでいます。小浜市の若狭工房では、めのう磨きの体験もできます。

松阪木綿
織物三重

松阪木綿

Matsusaka Momen (Matsusaka Cotton)

松阪木綿(まつさかもめん)は、三重県松阪市と明和町で作られている綿織物です。天然の藍で先に染めた糸を使い、細い縞模様に織り上げるのが特徴です。この縞は「松阪縞」とも呼ばれます。松阪周辺は古くから紡織が盛んな土地で、15世紀ごろ綿が伝わると、その技術が木綿織りに受け継がれました。江戸時代には農家の副業として盛んに織られ、三井家・長谷川家・小津家などの松阪商人が江戸で売り広めます。遠目には無地に見え、近づくと縞が分かる柄が、倹約令の時代に「粋」と好まれました。多い時には年に50万〜60万反が江戸で売られたといわれます。現在は御絲織物が機械織りで生産を続け、手織りの技は松阪もめん手織り伝承グループゆうづる会などが伝えています。三重県指定伝統工芸品です。

信州打刃物
金工長野

信州打刃物

Shinshu Uchihamono (Shinshu Forged Blades)

信州打刃物は、長野県北部の上水内郡信濃町を中心に作られる鍛造の刃物です。鉄と鋼を炉で熱し、鎚(つち)で一本ずつ打ちのばして形を作ります。代表的な製品は「信州鎌」で、背が厚く、刃は非常に薄いため、丈夫でよく切れるのが持ち味です。柄の差し込み部分を反らせる「芝付け」と、刃面を内側に湾曲させる「つり」により、刈り払った草が手元に寄ってきます。起こりは16世紀半ば、川中島の合戦の頃と伝わります。武具や刀剣の修理に訪れた鍛冶職人から、里の人々が技を習ったのが始まりとされます。江戸時代末期に今の信州鎌の原型が生まれ、明治時代に信越線が開通すると全国へ販路が広がりました。1982年に国の伝統的工芸品に指定されています。現在は鎌のほか、鍬(くわ)や鉈(なた)、包丁なども作られています。

深山和紙
和紙山形

深山和紙

Miyama Washi

深山和紙は山形県白鷹町の深山地区で受け継がれる手漉き和紙で、原料には地元で栽培された楮を用います。その起源は約400年前に遡るとされ、上杉藩の御用紙として京の都でも用いられるなど、長く厳しい冬を過ごす山あいの村の家内工業として代々受け継がれてきました。江戸時代には米沢藩主・上杉鷹山が財政再建策の一環として楮の栽培を奨励し、多くの村人が農閑期の副業として紙漉きに携わりました。あたたかみのある独特の風合いを持ち、便箋やちぎり絵、和紙人形、さらにはウエディングドレスの素材としても利用されています。1978年には山形県の無形文化財に指定され、現在は深山和紙振興研究センターが技術の継承と紙漉き体験の拠点となっています。

切込焼
陶器宮城

切込焼

Kirigome-yaki

切込焼は宮城県加美郡加美町(旧宮崎町)の切込地区を産地とする陶磁器で、江戸時代後期から明治時代初め頃まで生産されました。仙台藩の御用窯として上質な染付磁器を焼く一方、庶民向けの日用雑器も大量に作られていたと伝わります。白地に藍色の呉須で草花文様などを描いた染付が生産の中心で、有田焼のような純白の地肌ではないものの、素朴で温かみのある風合いが持ち味です。確たる史料が乏しく創始の詳細は謎に包まれていますが、天保6年(1835年)の年紀を持つ染付作品が現存し、江戸末期の弘化・安政期(1844~1860年ごろ)に最盛期を迎えたとされています。明治10年代に一度廃窯となり、大正期の復興の試みも実らなかったものの、1990年(平成2年)に町おこしの一環として本格的な復興が果たされました。現在は「三浦陶房」が唯一の窯元として伝統を受け継いでおり、加美町ふるさと陶芸館(切込焼記念館)では歴史や作品を紹介しています。1984年(昭和59年)に宮城県知事指定伝統的工芸品に指定されました。

大阪仏壇
木工大阪

大阪仏壇

Osaka Butsudan (Buddhist Altars)

大阪仏壇は、大阪市や堺市、八尾市をはじめ府内各地でつくられてきた仏壇です。起こりは飛鳥時代にさかのぼり、聖徳太子が四天王寺を建立した際に百済から招いた技術者に始まるといわれます。本格的な産地の形成は、江戸時代に北御堂・南御堂が建立されて以降とされます。国の伝統的工芸品「大阪仏壇」は、木地に天然漆を塗り、金箔や彩色、錺(かざり)金具で飾る塗仏壇(金仏壇)です。最大の特徴は、漆を盛り上げて描く「高蒔絵(たかまきえ)」で、金具を打ち付けたように見せる技法です。金具を使わないため、錆による木地の傷みを防げるとされます。木地・彫刻・漆塗り・蒔絵・金箔押しなどの工程は、それぞれ専門の職人が分業で担います。1982年(昭和57年)に国の伝統的工芸品に指定されました。紫檀や黒檀を使う「大阪唐木銘木仏壇」と「大阪塗仏壇」は、府の伝統工芸品に指定されています。

楢岡焼
陶器秋田

楢岡焼

Naraoka-yaki

楢岡焼は秋田県大仙市南外の楢岡地区で焼かれる陶器で、県内で最も長い歴史を持つ焼き物とされています。文久3年(1863)、地元の旧家・小松清治が陶工を招いて窯を築いたのが始まりで、創業当初はオリーブ色の茶器などが中心でしたが、明治中期以降、青みを帯びた重厚な「海鼠釉(なまこゆう)」を用いた作品が主流となりました。現在は明治41年(1908)に移転した南外高野地区で、地元産の土と釉薬を使い、登り窯による薪焼きで作陶が続けられています。窯元の楢岡陶苑は5代にわたって窯を守り続けており、昭和初期には陶芸家の加藤唐九郎や濱田庄司の指導を受け技術改良を重ねたことでも知られます。深みのある群青色の器は、秋田新幹線E6系グリーン車の内装にもイメージが用いられました。

八女福島仏壇
木工福岡

八女福島仏壇

Yame Fukushima Butsudan

八女福島仏壇は福岡県八女市(旧福島町)で作られる、金箔と漆塗りを施した壮麗な楼閣造りの仏壇です。文政4年(1821年)、指物大工の遠渡三作が仏閣建築の夢を見たことをきっかけに、大工仲間の井上利久平・平井三作とともに製作を始めたと伝えられ、1850年頃には製作技術が確立しました。江戸時代末期には塗り・金具・彫刻・仏像・木地の各分野の職人が集まる一大産業へと発展しました。木地師・宮殿師・彫刻師・金具師・塗師・蒔絵師による分業体制のもと、木地から宮殿づくり、彫刻、金具、漆塗り、蒔絵・金箔押しまでおよそ80の工程を経て一基の仏壇が完成します。1977年(昭和52年)3月30日に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、福岡県を代表する仏壇産地としての地位を確立しました。

肥前びーどろ
ガラス佐賀

肥前びーどろ

Hizen Biidoro

肥前びーどろは佐賀市に伝わる宙吹きガラスの伝統工芸です。ルーツは幕末の1852年(嘉永5年)、佐賀藩10代藩主・鍋島直正が多布施川のほとりに設けた精煉方(理化学研究所に相当する研究機関)に遡ります。大砲製造や医薬品開発のための化学薬品容器としてガラス器の製造が研究され、藩の保護のもとで技術が育まれました。精煉方に幼少期から従事していた副島源一郎が独立し、1903年(明治36年)に副島硝子工業を創業して技術を受け継ぎ、以来120年以上にわたり手作りガラスを作り続けています。ほとんどの製品は型を使わず息の吹き込みだけで成形する「宙吹き」技法で作られ、なかでも吹き棹を2本同時に操る「ジャッパン吹き」は世界的にも希少な高度技法として知られます。現在は佐賀市の重要無形文化財に指定され、副島硝子工業が唯一の製造元として伝統を守っています。

浜松注染そめ
染物静岡

浜松注染そめ

Hamamatsu Chusen Zome (Hamamatsu Pour-Dyed Textiles)

浜松注染そめ(はままつちゅうせんそめ)は、静岡県浜松市で受け継がれている型染めの一種です。注染は明治時代に考案された日本独自の染色技法です。型紙で防染糊を置いた木綿の生地を台に乗せ、上から染料を注いで下へ抜くことで染め上げます。生地の表と裏が同じ濃さに染まり、にじみやぼかしを生かした柔らかな風合いに仕上がります。浜松では明治20年代に手ぬぐいの染めから始まり、大正時代には浴衣染めが仕事の中心になりました。豊かな地下水や川の水、乾いた遠州の風に恵まれ、東京・大阪と並ぶ浴衣の産地として発展しています。現在は浴衣や手ぬぐいのほか、のれんや浜松まつりの手ぬぐいなども染められています。静岡県の郷土工芸品に指定され、市内の染工場が技を守り続けています。

武州正藍染
染物埼玉

武州正藍染

Bushu Shoai-zome

埼玉県北部の羽生市・加須市・行田市周辺で受け継がれてきた藍染めの技法で、藍の葉を自然発酵させてつくる「正藍」染料を用いる点が最大の特徴です。江戸時代後半の天明期(1781〜1789年)頃から、利根川流域の肥沃な土壌を生かして藍の栽培が広まり、農家の主婦が農閑期に家族の衣服を染めたことが始まりとされます。明治期には一大産業へと発展し、明治40年代には羽生町を中心に200軒以上の紺屋(染物屋)が軒を連ねました。糸の状態で染める「糸染め」と、布にしてから染める「型染め」(青縞)の2つの技法があり、武州ではおよそ7割が糸染めによるものです。天然発酵建ての藍は化学染料にはない深みのある色合いを持ち、色があせるほどに美しさが増すとされることから「ジャパンブルー」の名でも親しまれています。埼玉県伝統的手工芸品に指定され、2008年には地域団体商標にも登録されました。

名古屋桐箪笥
木工愛知

名古屋桐箪笥

Nagoya Kiri-tansu

名古屋桐箪笥は、名古屋城下町で発展した総桐(すべて桐材でつくる)の箪笥・家具の総称です。始まりは約400年前の名古屋城築城にさかのぼり、全国から集まった大工職人が袋町・大須周辺の城下町に定着し、箪笥や長持の製造に携わるようになったのが起源とされます。近隣の飛騨地方(岐阜県)で良質な桐材が産出されたことも、産地形成を大きく後押ししました。造材・木取り・狂い直し・加工・加飾・金具付けなど130余りの工程があり、これらを一人の職人が一貫して手がける点が大きな特徴です。他産地の桐箪笥に比べて幅が広く仕立てられ、釘にはヒバ材あるいは同等の材質が用いられます。桐材そのものが持つ調湿性により、湿気を防ぎ、火や熱にも強く、狂いが少ない高級家具として古くから重宝されてきました。1981年(昭和56年)6月22日、国の伝統的工芸品に指定されています。

伊勢一刀彫
木工三重

伊勢一刀彫

Ise Ittobori (Ise Single-Knife Carving)

伊勢一刀彫(いせいっとうぼり)は、三重県伊勢市と玉城町で作られている木彫りの縁起物です。伊勢神宮の造営に携わる宮大工が、遷宮の残りの木材を使ってえびすや大黒を彫ったのが始まりとされます。大きなのみで木の角を大胆に削り取り、刻んだ面をそのまま仕上げ面とするのが特徴です。磨きや彩色をしないため、刀の跡と木目が素朴な力強さと温かみを生みます。材料には主に楠(くすのき)が使われ、檜も用いられます。題材はその年の干支のほか、伊勢にゆかりのある神鶏やカエルなどです。伊勢は古くから根付師が多い土地で、彫り物の技術の蓄積も背景にあったといわれます。現在は岸川行輝さんや泉廣典さん、岸川さんに師事した太田結衣さんらが技を伝えています。三重県指定伝統工芸品です。

雨城楊枝
木工千葉

雨城楊枝

Ujo Yoji

雨城楊枝は、千葉県君津市久留里に伝わる、クロモジ(黒文字)の木を削って作る飾り楊枝です。江戸時代、上総国久留里藩の藩士が内職として、周辺の山に自生するクロモジを材料に楊枝を作ったのが始まりとされ、当時は「上総小楊枝」と呼ばれる並品でした。廃藩後は禄を失った士族の生活の糧として製造が広がり、明治時代末期には木肌の白さと風合いを活かした様々な意匠の楊枝が考案され、民芸品として知られるようになりました。昭和中期、久留里城の異名「雨城」にちなんで「雨城楊枝」と改称されています。基本形の「ザク楊枝」のほか、松・竹・梅・末広・うなぎ・太刀など縁起物や季節をかたどった「変わり楊枝」があり、その巧みな細工と品の良さから、茶席や日本料理店で今も愛用されています。現在は森隆夫氏が2代目森光慶を襲名し、伝統を受け継いでいます。

越前竹人形
木工福井

越前竹人形

Echizen Take Ningyo

越前竹人形は、衣装から胴体、髪に至るまで、人形のすべての部位を竹や竹の皮で作る福井県の工芸品です。昭和20年代、坂井市丸岡町で竹細工を営んでいた師田保隆・三四郎兄弟が、試行錯誤の末に生み出したのが始まりとされ、昭和27年(1952年)頃に形が整ったといわれます。1955年(昭和30年)の富山博覧会への出展を機に、竹人形づくりが本格化しました。1963年(昭和38年)には水上勉の小説『越前竹人形』が発表され、同年に映画化されたことで、その名が全国に広まりました。能や歌舞伎などに題材をとった優美な人形が多く、細く割いた竹を一体に5,000〜7,000本植え込んで表す黒髪が見どころです。国の伝統的工芸品ではなく、福井県の郷土工芸品に指定されています。丸岡町の越前竹人形の里では、職人の作業の見学や竹人形づくりの体験ができます。

越谷だるま
和紙埼玉

越谷だるま

Koshigaya Daruma

埼玉県越谷市を中心に作られる張子(はりこ)だるまで、白みを帯びた肌色と、やや高い鼻筋、上品で穏やかな表情が特徴とされています。江戸時代中期の享保年間(1716〜1736年)頃、越谷市間久里(まくり)の人形師「だる吉」が、当時流行していた起き上がり小法師に座禅を組む達磨大師の姿を描いたのが始まりと伝えられます。型に和紙を重ねて貼り込み、乾燥させてから型抜きし、下地塗りから彩色、最後にひげや眉を描き入れるまで、すべての工程が手作業で行われます。とりわけひげ描きは穂先の長い面相筆を使い、だるまの大きさに関わらず同じ筆で仕上げる熟練の技が求められます。「七転八起」の縁起物として正月の縁起物市などで親しまれ、現在も越谷市の複数の工房が製造を続けており、1984年には埼玉県指定の伝統的手工芸品となりました。

加茂桐簞笥
木工新潟

加茂桐簞笥

Kamo Kiri Tansu

加茂桐簞笥は、新潟県加茂市とその周辺で作られる桐材の簞笥です。桐は湿度が高いと膨らんで湿気の侵入を防ぎ、乾燥すると縮んで通気を良くする性質を持ち、衣類の保管に適しています。加茂での簞笥づくりは江戸時代の天明年間(1781〜1789年)に始まり、丸屋小右エ門が大工仕事のかたわら杉材で作ったのが起こりと伝えられます。周辺の山に天然の桐材が豊富だったことから桐簞笥の産地として育ち、加茂川から信濃川を経て、船で新潟や東北方面へ運ばれました。現在も桐簞笥の全国生産量の約7割を占める日本一の産地とされ、1976年に経済産業大臣(当時は通商産業大臣)指定の伝統的工芸品となりました。金釘を使わない指物の技で隙間なく組み上げられ、古くなっても表面を削って再生できるため、100年以上使えるといわれます。

掛川葛布
織物静岡

掛川葛布

Kakegawa Kuzufu (Kakegawa Kudzu Cloth)

掛川葛布(かけがわくずふ)は、静岡県掛川市で織り継がれてきた布です。山野に自生する葛(くず)のつるから繊維を取り出して糸にし、緯糸(よこいと)として手織りで織り上げます。絹や麻とは違う、やさしく落ち着いた光沢と渋みが持ち味です。鎌倉時代にはすでに武家の装束などに使われたと伝わります。江戸時代には掛川藩の保護奨励を受け、裃(かみしも)地や袴地、合羽地として珍重されました。東海道の掛川宿を通る参勤交代の大名の土産品にもなりました。明治に入って武士の需要を失うと、襖地へと用途を移して復活します。明治30年頃からは壁紙として米国へ輸出されました。現在は2軒の織元が、つるの採取から手織りまで昔ながらの手仕事を守っています。「掛川手織葛布」の名で静岡県の郷土工芸品に指定されています。

京くみひも
織物京都

京くみひも

Kyo-kumihimo

京くみひもは、京都市や宇治市周辺で作られる組紐で、丸台・角台・高台など複数の組台を使い、数十本の絹糸を職人が手で組み上げて一本の紐に仕立てる伝統工芸品である。基本の組み方だけで約40種類、模様のバリエーションを含めると3,000種類を超えるといわれるほど技法が多彩で、複雑に組み上げられた繊細な編み目と優美な光沢が特徴となっている。かつては神具・仏具や武具の紐、装身具として用いられ、現代では着物の帯締めや羽織紐を中心に、アクセサリーなど幅広く使われている。1976年に国の伝統的工芸品に指定された。

玉虫塗
漆器宮城

玉虫塗

Tamamushi-nuri

玉虫塗は仙台市で生まれた比較的新しい漆芸で、昭和初期の1932年(昭和7年)、東北地方の産業振興と輸出工芸品開発を目的に仙台に設けられた「国立工芸指導所」において、漆芸家・小岩峻によって考案され特許を取得しました。木地や乾漆の素地に漆で下地を施したのち、全面に銀粉を蒔き、その上から色を加えた特製の半透明の玉虫漆を幾重にも塗り重ね、丹念に研ぎ出すことで完成します。見る角度や光の当たり方によって色合いが微妙に変化する艶やかな輝きが、タマムシの羽根に似ていることからこの名が付けられました。1933年に創業した東北工芸製作所(初代社長・佐浦元次郎)が1939年に特許実施権を得て以来、仙台を代表する工芸品として製作を続けています。花瓶や盆、アクセサリーから洋食器まで幅広い製品が作られ、1985年(昭和60年)には宮城県知事指定伝統的工芸品に指定されました。伝統工芸としては歴史が浅い分、現代の暮らしに寄り添うデザインが多いことも魅力です。

郡上本染め
染物岐阜

郡上本染め

Gujo Honzome

郡上本染めは岐阜県郡上市八幡町に伝わる藍染めで、鯉のぼりなどの幟旗を染める筒描きの技法を特徴とする染物です。起源は安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)に遡るとされ、清流・長良川の支流である吉田川の豊かな水に恵まれた八幡町で400年以上にわたり受け継がれてきました。もち米から作る防染糊「真糊」を絞り袋で生地に絞り出す筒描きや、型紙を用いる型染めで文様の輪郭を糊置きし、天然藍で十数回も染め重ねることで、深く冴えた藍色に染め上げます。1977年(昭和52年)には岐阜県の重要無形文化財に指定され、現在も郡上市八幡町の渡辺染物店が15代にわたり技術を継承しています。毎年大寒の前後に吉田川で行われる「鯉のぼりの寒ざらし」は、郡上八幡の冬の風物詩として親しまれています。

山形打刃物
金工山形

山形打刃物

Yamagata Uchihamono

山形打刃物は山形市を中心に受け継がれる鍛冶の技による打刃物です。その始まりは南北朝時代の1356年、最上氏の始祖・斯波兼頼が山形に入部する際に鍛冶師を伴い、鍛冶集落を形成して武具や農具を作らせたことに遡るとされます。江戸時代には山形藩主・最上義光が城下に鍛冶町を置いて鍛冶師を優遇し、歴代領主の庇護のもとで技術が磨かれました。江戸後期には刀剣の名匠・庄司直胤を輩出し、明治以降は刀剣需要の減少とともに、包丁や鎌、鋏、鍬など生活に根ざした刃物づくりへと軸足を移しました。軟らかい鉄と硬い鋼を火造りで接合して打ち鍛える「自由鍛錬」という技法を今に伝え、切れ味と粘り強さを両立させた刃物として評価されています。

諸富家具
木工佐賀

諸富家具

Morodomi Kagu

諸富家具は佐賀市諸富町で作られる家具の総称で、筑後川を挟んで対岸に位置する福岡県大川市の家具産地と隣り合う立地を背景に発展してきました。諸富町では古くから指物大工を中心とした木工業が営まれていましたが、1935年に旧国鉄佐賀線が開通したことで400年の歴史を持つ大川の家具産地との往来が盛んになり、新たな木工技術が伝わりました。1955年に筑後川に諸富橋・大川橋が架けられると交流はさらに深まり、1966年に橋が無料開放されると大川からの家具製造企業の進出が加速し、九州でも有数の家具産地へと成長しました。1980年には家具の年間出荷額が100億円を超え、九州第2位の家具産地となっています。桐たんすや座卓などの和家具から現代的な椅子・ソファまで幅広く手がけ、2022年には地域団体商標として「諸富家具」が登録されました。高い木工技術とデザイン性を兼ね備えた家具産地として、現在は海外への輸出にも力を入れています。

西嶋和紙
和紙山梨

西嶋和紙

Nishijima Washi

西嶋和紙は、山梨県南巨摩郡身延町の西嶋地区で漉かれている手漉き和紙です。元亀2年(1571年)、武田信玄の命で伊豆の修善寺で紙漉きを学んだ望月清兵衛が、故郷に製法を持ち帰ったのが始まりと伝わります。三椏(みつまた)を主原料とする滑らかで光沢のある紙は信玄に喜ばれ、「西未」の名を与えられました。江戸時代には富士川流域で広く漉かれ、明治以降も手漉きを守り続けます。第二次世界大戦後は、中国から書画用の紙が入らなくなったことを受け、故紙や稲わらを混ぜた手漉きの画仙紙(がせんし)を全国に先駆けて開発しました。墨の発色やにじみ、筆ざわりに優れ、書道家に愛用されています。平成6年(1994年)に山梨県郷土伝統工芸品に指定されました。2025年には道の駅「にしじま和紙の里 かみすきパーク」が開業し、紙漉き体験もできます。

赤べこ
和紙福島

赤べこ

Akabeko

赤べこは福島県会津地方を代表する張り子の郷土玩具で、赤く彩色された牛の姿をしています。「べこ」は東北の方言で牛を意味し、由来はおよそ1200年前、会津柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺の本堂建立の際、多くの牛が力尽きる中、最後まで木材運びを担い通した赤毛の牛の伝説にあるとされます。張り子の製法自体は天正年間(1573〜1592年)、会津領主となった蒲生氏郷が殖産振興のために招いた技術者から伝わったといわれます。正徳3年(1713年)に会津地方で天然痘が流行した際、赤べこを持っていた子どもは病にかからなかったという言い伝えが広まり、以来、赤べこは厄除け・疫病除けの縁起物として親しまれてきました。体の赤色は魔除け、描かれた斑点は疱瘡(天然痘)の跡を表すとされ、頭を揺らすと軽やかに動く姿は今も会津土産の代表格です。

大川組子
木工福岡

大川組子

Okawa Kumiko

大川組子は福岡県大川市で発展した木工技法で、釘や金具を一切使わずに、薄く細く加工した木片を幾何学的な文様に組み上げていく繊細な技術です。文化年間(1804〜1818年頃)に中国から伝わった組子の技術が、家具・建具のまちとして知られる大川の指物・建具づくりと結びつき、書院障子や欄間、衝立などに用いられて発展してきました。三角形の地組みを基本単位とする「三組手」に、麻の葉をはじめ200種類以上ともいわれる図柄を組み込み、多いときには数万点もの部材を組み合わせて仕上げます。見た目は繊細で華奢に見えながら、部材同士が精巧に噛み合うことで一枚の板のような強度を持つ点が最大の特徴です。1987年(昭和62年)に福岡県知事指定特産工芸品に指定され、豪華寝台列車「ななつ星in九州」の内装にも採用されるなど、伝統技術は現代のインテリアにも生かされています。

大津絵
文具滋賀

大津絵

Otsu-e

大津絵は、江戸時代初期に東海道の大津宿(追分・大谷周辺)で旅人向けの土産物として売られた民画です。寛永年間(1624~1644年)頃、仏教的な題材を描いた仏画として始まったとされ、松尾芭蕉が「大津絵の筆のはじめは何仏」と詠んだことでも知られています。やがて世俗的な画題へと広がり、文化・文政期(1804~1829年)には「鬼の念仏」「藤娘」など代表的な十種の画題「大津絵十種」が定まりました。それぞれの絵には道歌や護符としての意味が込められ、鬼の念仏は子どもの夜泣き封じ、藤娘は良縁祈願の縁起物として親しまれています。現在も大津市三井寺周辺で、明治初年創業の「大津絵の店」を営む高橋松山家が伝統の技法を受け継ぎ、大津市指定無形文化財として大津絵を描き続けています。

大樋焼
陶器石川

大樋焼

Ohi-yaki

大樋焼は、京都の楽焼の脇窯として金沢で350年以上続く陶芸です。江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が茶道茶具奉行として裏千家4代・仙叟宗室を京都から招いた際、仙叟の師である樂家4代一入の高弟であった陶工・土師長左衛門が同道したことに始まります。仙叟が帰京したのちも金沢に残った長左衛門は、河北郡大樋村(現・金沢市大樋町)で良質の陶土を見出し、地名にちなんで大樋焼と称するようになりました。樂家が黒釉・赤釉を用いる本楽を独占していたため、大樋家は独自に飴釉という技法を編み出し、雪国にふさわしい温かみのある飴色の茶碗を生み出したことが最大の特徴です。轆轤を使わず手とへらだけで成形する手びねりの技法も樂焼の流れを汲んでおり、前田家の御用窯として栄えた歴史から、今日も金沢を代表する茶陶として受け継がれています。

芭蕉布
織物沖縄

芭蕉布

Bashofu

芭蕉布は、糸芭蕉(イトバショウ)という植物の茎から採った繊維を糸にして織る、沖縄を代表する夏の織物です。古い記録では13世紀頃にはすでに織られていたとされ、15世紀頃には現在とほぼ同じ製法が確立していたと伝えられます。琉球王国時代には王府直営の芭蕉園で栽培が行われ、王族の衣服から庶民の普段着まで幅広く使われる、沖縄で最も身近な布でした。中でも国頭郡大宜味村喜如嘉は昔から芭蕉布の一大産地として知られています。第二次世界大戦の沖縄戦により生産は壊滅的な打撃を受けましたが、戦後まもなく平良敏子氏が製作技術の復興に着手し、喜如嘉の地で技術を再興させました。1974年に「喜如嘉の芭蕉布」として国の重要無形文化財に指定され、平良敏子氏を中心とする喜如嘉の芭蕉布保存会がその保持団体に認定されました。糸芭蕉の栽培から糸績み、絣括り、染め、機織りまで3年がかりの工程を経て仕上がる、張りのある清涼な風合いが特徴で、平良敏子氏は2000年に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されています。

白岩焼
陶器秋田

白岩焼

Shiraiwa-yaki

白岩焼は仙北市角館町白岩地区で焼かれる陶器で、秋田県内で最も古い歴史を持つ焼き物とされています。明和8年(1771)、陸奥国相馬(現・福島県)の陶工・松本運七が角館の武士たちの支援を受けて開窯したのが始まりで、以後複数の窯が開かれ、最盛期には年間4万個を超える生活雑器が生産されました。しかし明治維新後は藩の庇護を失ったうえ、磁器の流入や地震による窯の損壊が重なり、明治33年(1900)に130年の歴史にいったん幕を閉じます。昭和49年(1974)、陶芸家・濱田庄司との出会いをきっかけに復興の機運が高まり、翌昭和50年(1975)、地元有志が「和兵衛窯」を開いて技術を復活させました。赤みを帯びた土色と青みがかった海鼠釉のコントラストが特徴で、現在も和兵衛窯が伝統を受け継いでいます。

飯田水引
和紙長野

飯田水引

Iida Mizuhiki

飯田水引は、長野県南部の飯田市とその周辺で作られる水引です。水引は、和紙をよって紐状にし、水糊で固めて色を付けたもので、祝儀袋や結納品などの贈り物を飾るのに使われます。飯田は古くから和紙づくりが盛んな土地で、江戸時代にはその和紙を使った元結(もとゆい)の産地として名を上げました。元結は髷(まげ)を結い束ねる紙の紐で、元禄時代に桜井文七が改良した品は「文七元結」として江戸でも評判になりました。明治時代に断髪令で元結の需要が激減すると、その技術を生かして丈夫で光沢のある水引が作られるようになります。現在、飯田地方は全国の水引製品の約7割を生産しています。金封や結納品に加え、鶴や松竹梅をかたどった水引細工やアクセサリーなども作られています。2014年に長野県知事指定の伝統的工芸品に指定されました。

名古屋仏壇
木工愛知

名古屋仏壇

Nagoya Butsudan

名古屋仏壇は、名古屋市とその周辺で発展した仏壇づくりの総称で、台座部分が高く「まくり」と呼ばれる構造を持つことや、豪華な宮殿部を備えた「空殿御坊造」と呼ばれる様式に代表されるのが特徴です。台を高くしたのは、木曽三川の水害から仏壇を守るための生活の知恵ともいわれています。その始まりは元禄8年(1695年)、高木仁右エ門が仏壇専門店「ひろや」を創業したことにさかのぼるとされます。以来、木地師・荘厳師・彫刻師・錺金具師・塗師・蒔絵師・箔置き師・仕組師など「八職」と呼ばれる専門職人たちの分業によって、一棹の仏壇がつくり上げられてきました。ケヤキやヒノキ、白檀といった高級な木材を用い、木地から漆塗り、金箔押し、蒔絵まで各工程で熟練の技が発揮されます。1976年、経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されています。

浪華本染め
染物大阪

浪華本染め

Naniwa Honzome (Chusen Dyeing)

浪華本染め(なにわほんぞめ)は、明治20年(1887年)ごろに大阪で生まれた「注染(ちゅうせん)」の技法で染める手拭いやゆかたです。注染は、防染糊を置いた生地を何枚も折り重ね、上から染料を注いで染める日本独自の染色法です。染料が糸の芯まで通るため、表裏の区別なく同じ柄・同じ色に染まり、色あせしにくいのが特徴です。手染めならではの、ぼかしの柔らかな風合いも魅力です。生地には、堺で400年続くとされる木綿の晒し「和晒(わざらし)」を使います。第二次世界大戦の戦災で大阪市内の注染業者が堺へ移り、石津川沿いの津久野・毛穴地域が主な産地となりました。2019年(令和元年)11月20日に国の伝統的工芸品に指定されています。「浪華本染めゆかた」と「浪華本染め手拭い」は、それ以前から府の伝統工芸品に指定されていました。

越谷甲冑
金工埼玉

越谷甲冑

Koshigaya Katchu

端午の節句に飾る五月人形の鎧・兜を仕立てる、埼玉県越谷市の伝統技術です。金工・漆工・皮革工芸・組紐など、江戸時代から伝わる複数の工芸技法を組み合わせて一領の甲冑に仕立て上げる点が特徴で、鮮やかな色彩と威厳のある風格を備えています。甲冑師と呼ばれる職人が、兜の鉢や吹返し、鎧の縅(おどし)などの部位ごとに専門技術を駆使して製作し、すべて手作業で仕上げられるため、人形師の技量が仕上がりの良し悪しを左右します。昭和34年(1959年)創業の甲冑工房朝比奈をはじめとする越谷市内の工房が中心となって技術を継承しており、平成8年(1996年)には「越谷甲冑」として埼玉県指定の伝統的手工芸品に指定されました。戦国武将にちなんだ意匠の甲冑も人気を集め、端午の節句の贈り物として今も需要があります。

遠州綿紬
織物静岡

遠州綿紬

Enshu Men Tsumugi (Enshu Cotton Pongee)

遠州綿紬(えんしゅうめんつむぎ)は、静岡県西部の遠州地方で織られてきた綿織物です。遠州は温暖で日照時間が長く、江戸時代から三河・泉州と並ぶ綿の産地として栄えました。農家の副業として手織りの綿織物が広まり、縞柄の木綿は「遠州縞(えんしゅうじま)」と呼ばれるようになります。凹凸のあるネップ糸やスラブ糸を経糸と緯糸に使い、昔ながらのシャトル織機でゆっくり織ることで、紬のような素朴な風合いが生まれます。洗うほどに糸の撚りがほぐれて空気を含み、肌ざわりが柔らかくなるのも特徴です。遠州は明治以降、豊田佐吉らの織機の発明もあって日本有数の織物産地に成長しました。現在は浜松市のぬくもり工房が、常時100柄以上の生地や小物を手がけています。浜松の繊維デザインのルーツともいわれ、地域を代表する織物として親しまれています。

加賀繍
織物石川

加賀繍

Kaga-nui

加賀繍(かがぬい)は、絹糸や金糸・銀糸を用いて立体感のある図柄を浮かび上がらせる石川県の刺繍工芸です。室町時代初期、加賀地方への仏教布教とともに、仏前を飾る打敷や僧侶の袈裟を彩る装飾技術として京都から伝えられたのが始まりとされます。江戸時代に入ると歴代加賀藩主の手厚い保護を受け、武士の陣羽織や能装束の装飾にも用いられるようになり、金沢箔や加賀友禅と並ぶ加賀の伝統染織文化として独自の発展を遂げました。「くさりぬい」「まつりぬい」「すがぬい」など多彩な技法を駆使し、絵画のような繊細さと立体感を糸で表現できる点が最大の特徴です。1991年5月には通商産業大臣(現・経済産業大臣)により国の伝統的工芸品に指定され、現在も金沢市・白山市・能美市を中心に、装束から現代のアクセサリーまで幅広い製品が手がけられています。

岐阜和傘
和紙岐阜

岐阜和傘

Gifu Wagasa

岐阜和傘は岐阜市加納地区で作られてきた和傘で、畳むと細くまとまる「細物」の技術と豊富な装飾技法を特徴とします。起源は江戸時代初期の寛永16年(1639年)、兵庫県明石から来た傘職人が加納で傘づくりを始めたことに遡るとされ、1756年(宝暦6年)には加納藩主・永井直陳が困窮する下級武士の内職として和傘づくりを奨励したことで、藩の後押しを受けて産業として発展しました。良質な竹と美濃和紙の産地に近いという地理的条件にも恵まれ、最盛期の昭和20年代半ば(1950年頃)には600軒以上の問屋が集まり、月間120万〜130万本もの和傘が生産されました。洋傘の普及により需要は大きく減少しましたが、現在も数軒の問屋・工房が伝統を守り、雨傘・日傘のほか、七五三や結婚式など晴れの場を彩る和傘としても用いられています。

宮古上布
織物沖縄

宮古上布

Miyako Jofu

宮古上布は宮古島に伝わる麻織物で、越後上布・小千谷縮と並び称される、薄く軽やかで光沢のある夏の最高級織物です。16世紀に稲石という女性が琉球国王に「綾錆(あやさび)布」を献上したのが始まりと伝えられ、1637年に人頭税制度のもとで宮古・八重山地方の上納布に定められて以降、極めて精緻な織物であることが求められ、その技術が今日まで受け継がれてきました。原料には島で育つ苧麻(ちょま)を用い、結び目を作らずに繊維を手で細く裂いて撚り合わせる「手績み(てうみ)」という根気のいる工程で糸を作ります。藍染めの濃紺地に細かな十字絣を織り出した意匠が代表的で、織り上げた後に木槌で打つ「砧打ち」の仕上げによって独特のしなやかな光沢が生まれます。糸づくり、藍染め、機織り、洗濯(仕上げ)、補修という各工程がそれぞれ専門の職人による分業で行われる点も特徴です。1978年に国の重要無形文化財に指定され、2003年には苧麻糸の手績み技術が国の選定保存技術に認定されました。

京黒紋付染
染物京都

京黒紋付染

Kyo-kuromontsuki-zome

京黒紋付染は、絹織物を深みのある黒色に染め上げ、家紋を正確に染め抜く京都の染色技術で、婚礼で着る黒留袖や葬儀用の喪服などに用いられる。染めの技法には、模様のある黒留袖などに使う「引染」と、無地の喪服などに使う「浸染」の2種類があり、染料には紅や藍などを重ねて用いることで、単に黒く染めるだけでなく、深みと艶のある独特の黒色を生み出す点が特徴である。染め上がった生地には家紋を白く染め抜く紋章上絵の技術も欠かせない。全国で生産される黒紋付のうち9割以上を京都が占めるとされ、1976年に国の伝統的工芸品に指定された。

鯖江のめがね
金工福井

鯖江のめがね

Sabae Eyewear

鯖江のめがねは、福井県鯖江市を中心に作られる眼鏡フレームです。国の伝統的工芸品ではなく、明治時代に始まった地場産業ですが、職人の技と分業体制によって世界に知られる産地を築いてきました。1905年(明治38年)、足羽郡麻生津村生野(現在の福井市生野町)の増永五左衛門が大阪からめがね職人を招き、雪深い冬の農家の副業としてめがねづくりを広めたのが始まりです。技術はやがて鯖江へと広がり、市は「めがねのまちさばえ」を掲げるまでになりました。1983年には、世界で初めてチタン製めがねフレームの開発・生産に成功しています。現在、日本製めがねフレームの約95%が福井県で作られており、その中心が鯖江市です。市内のめがねミュージアムでは、産地の歴史を学べるほか、フレームの手作り体験や県内メーカー製品の購入ができます。

市川大門手漉和紙
和紙山梨

市川大門手漉和紙

Ichikawa Daimon Washi

市川大門手漉和紙は、山梨県西八代郡市川三郷町の市川大門地区で漉かれてきた和紙です。甲斐の紙の記録は奈良時代にさかのぼり、宝亀4年(773年)の正倉院文書に甲斐が紙の産地として記されています。市川では、甲斐源氏の祖とされる源義清に仕えた紙工の甚左衛門が、紙漉きの技を里人に伝えたのが始まりとされます。武田氏の時代には「美人の肌のように美しい」とたとえられた「肌吉紙(はだよしがみ)」が漉かれ、紙漉き職人は「肌吉衆」として手厚く保護されました。江戸時代には幕府の御用紙として献上されます。その後は障子紙の一大産地となり、生産量日本一を誇ってきました。原料は楮(こうぞ)と三椏(みつまた)で、美術紙や画仙紙にも向きます。平成7年(1995年)に山梨県郷土伝統工芸品に指定されました。

芝山細工
漆器千葉

芝山細工

Shibayama Zaiku

芝山細工(芝山象嵌)は、貝や珊瑚、鼈甲、翡翠、象牙などを花鳥人物の形に彫刻し、漆塗りの器物の表面に嵌め込んで立体的な文様を表す象嵌技法です。安永4年(1775年)、上総国芝山村(現在の千葉県芝山町)に生まれた大野木専蔀(せんぞう)が考案したとされ、専蔀は後に江戸へ出て芝山仙蔵と名乗り、この技法を広めました。幕末の開国後、輸出港として発展した横浜に職人が集まり、欧米の貿易商から高く評価されたことで「横浜芝山漆器」として独自の発展を遂げ、1893年のシカゴ万博で入賞するなど国際的にも名を知られました。しかし関東大震災と第二次世界大戦による打撃で職人は激減し、最盛期に100人ほどいた芝山師は、2017年時点で大作を手がけられる職人が1人のみとされるほど希少な存在になっています。発祥の地である芝山町には、文化2年(1805年)に作られた「芝山象嵌の扁額」が残り、町の文化財として大切に保存されています。

庄内刺し子
染物山形

庄内刺し子

Shonai Sashiko

庄内刺し子は酒田市を中心とする庄内地方に伝わる伝統の刺し子で、青森県の「こぎん刺し」「南部菱刺し」と並ぶ日本三大刺し子の一つに数えられます。稲作中心で綿花栽培に向かない庄内地方では衣類の自給が難しいという事情がありました。そこで江戸時代中期、北前船の交易によって京都・大阪から入ってきた古着や古布を、布目にかまわず重ね刺しして丈夫な野良着を仕立てたことが始まりとされています。藍染めの木綿布に白い木綿糸で細かい針目を刺し、保温性や耐久性を高めるとともに、魔除けの意味も込められました。「米刺し」「うろこ刺し」「菱刺し」など約40種の基礎刺しがあり、豊年満作や大漁祈願、家族の健康といった願いを込めた幾何学模様が特徴です。昭和58年(1983年)には愛好者らが「平田さしこの会」を結成し、技術の継承に取り組んでいます。

松代焼
陶器長野

松代焼

Matsushiro-yaki (Matsushiro Ware)

松代焼は、長野県長野市の松代地域を中心に焼かれてきた陶器です。真田家が治めた松代藩の奨励によって江戸時代後期に盛んになり、水がめやこね鉢、徳利など、暮らしに欠かせない実用の器が作られました。鉄分の多い地元の土で作った黒茶色の地肌に、青緑色の釉薬が流れるように掛かり、一つひとつ異なる模様が生まれるのが特徴です。この青緑色は顔料ではなく、地元で採れる白土や銅を調合した釉薬によるものです。明治時代以降は、鉄道で運ばれてくる安価な陶器に押されて衰え、昭和の初めまでに途絶えました。その後、昭和中期に陶工たちが古い陶片や資料をもとに研究を重ね、技術を復活させています。2014年に長野県知事指定の伝統的工芸品となりました。現在は松代町の松代陶苑などで、陶芸体験を通して松代焼づくりに触れることができます。

西川登竹細工
木工佐賀

西川登竹細工

Nishikawanobori Takezaiku

西川登竹細工は佐賀県武雄市西川登町に伝わる竹細工で、真竹や淡竹を用いてざるやかご、弁当箱など生活に根差した道具を手作業で編み上げる伝統工芸です。明治初期に農家の副業として始まったとされ、1909年には西川登村竹細工組合が設立されるなど地場産業として発展し、20世紀初頭から戦後にかけては500人を超える職人を抱える一大竹細工産地となりました。しかし1950年代以降、家具や農具に合成樹脂製品が普及すると需要は徐々に減少し、現在は栗山商店をはじめとする数事業者がその技術を受け継いでいます。竹を割いて幅を整え、しなりを生かして編み込む工程はすべて手作業で行われ、米とぎざるに使われる「菊底編み」など独自の編み技法も伝わります。佐賀県指定伝統的地場産品として、近年はランチボックスやランプシェードなど現代の暮らしに合う製品も生み出され、SDGsの観点からも若い世代に再注目されています。

仙台平
織物宮城

仙台平

Sendai-hira

仙台平は仙台市で織られる男性用袴地の絹織物で、江戸時代中期の貞享・元禄年間(1680年代~1704年ごろ)、仙台藩四代藩主・伊達綱村が御用織物師を召し抱え、袴地や能装束などを織らせたことに始まると伝えられます。撚りをかけた生糸を経糸に、生糸に近い緯糸を水で湿らせながら強く打ち込んで織り上げることで、しなやかで張りがあり、しわになりにくく、光沢と衣擦れの音を持つ独特の風合いが生まれます。江戸から明治・大正期にかけて袴地の最高峰として名を馳せ、最盛期には年間30,000反もの生産量を誇りましたが、需要の減少とともに織元は次第に減り、現在は「合資会社仙台平」がただ一社その伝統を守り続けています。中でも最高級とされる「精好仙台平」は2002年に国の重要無形文化財に指定され、当主・甲田綏郎氏は人間国宝として認定されています。1985年(昭和60年)には宮城県知事指定伝統的工芸品にも指定されました。

大津くみひも
織物滋賀

大津くみひも

Otsu Kumihimo

大津くみひもは、大津市逢坂を中心に伝わる組紐(くみひも)の伝統的工芸品です。組紐は仏教伝来とともに日本に伝わり、当初は経巻や袈裟の紐、公家・武家の装束の紐として用いられてきました。大津では江戸時代、東海道を通って京都へ入る武士や町人の刀の下げ緒や印籠の紐を修理したことが始まりと伝えられています。丸台・角台・綾竹台・内記台など複数の組台を使い分けながら、糸を編み組んで一本の紐に仕立てる手仕事で、高級品には草木染めを施した糸が用いられます。現在も逢坂で慶応3年(1867年)創業の藤三郎紐が唯一の組紐屋として技術を受け継ぎ、帯締めや羽織紐、ストラップなどの小物まで、幅広い製品を手がけています。

中山人形
陶器秋田

中山人形

Nakayama Ningyo

中山人形は横手市平鹿町中山地区で作られる土人形で、丸みを帯びた愛らしい形と鮮やかな彩色が持ち味です。明治中頃、地元の樋渡ヨシが夫を亡くしたのち、生活の糧として姉様人形や押し絵をヒントに粘土細工を作り始めたのが起こりとされ、約150年の歴史を数えます。当初は雛人形や歌舞伎物など節句向けの人形が中心でしたが、その後かまくらや竿燈、梵天、秋田犬といった秋田ならではの題材や、干支をかたどった土鈴も手がけられるようになりました。3代目・樋渡義一が考案した「十二支土鈴」は、昭和54年(1979)に年賀切手の図案に採用されたことで全国に知られるようになります。現在も横手市の樋渡人形店が伝統を受け継いでおり、令和3年(2021)1月には秋田県伝統的工芸品に指定されました。

白河だるま
和紙福島

白河だるま

Shirakawa Daruma

白河だるまは福島県白河市で作られる張り子のだるまで、眉を鶴に、口ひげを亀に見立て、顔の両側に松と梅、口の下に竹を配した独特の絵付けから「白河鶴亀松竹梅だるま」とも呼ばれています。白河でのだるま作りは江戸時代前期にはすでに行われていたと伝えられますが、天明3年(1783年)の天明の大飢饉で疲弊した地域産業を立て直すため、白河藩主となった松平定信が、お抱え絵師・谷文晁にだるまの意匠を描かせて奨励したことで、現在に続く原型が完成したと伝えられています。毎年2月11日(建国記念の日)には白河市中心部で「白河だるま市」が開催され、約15万人もの人出でにぎわう、白河の冬を代表する風物詩となっています。

八女和紙
和紙福岡

八女和紙

Yame Washi

八女和紙(八女手すき和紙)は、福岡県八女市を中心につくられる伝統の手すき和紙です。天正年間(1590年代)に越前国(現在の福井県)出身の僧・日源上人が八女を訪れ、矢部川流域の水質や気候が製紙に適していることを見出して製法を伝えたのが始まりと伝えられています。矢部川の清らかな水と、この地方特有の繊維が長く太い楮(こうぞ)を用いることで、他産地には見られない強靭な和紙に仕上がるのが特徴です。繊維が太く腰が強いため耐久性に富み、掛軸や障子紙、ふすまの内張りなど表装用の和紙として高い評価を受けており、国宝の修復に用いられたこともあるといいます。九州でも最も古い和紙産地の一つとされ、福岡県指定特産工芸品にも指定されています。

尾鷲わっぱ
木工三重

尾鷲わっぱ

Owase Wappa (Owase Bentwood Lacquerware)

尾鷲わっぱ(おわせわっぱ)は、三重県尾鷲市で作られている曲げ物の漆器です。良質な尾鷲ヒノキの薄板を曲げ、桜の皮で継ぎ目を綴じて、天然の漆で仕上げます。尾鷲では江戸時代初期から林業が盛んになり、山で働く人々が木の曲げ物を食器として使っていました。同じころ盛んになったカツオ漁の漁師たちも、わっぱを愛用したといわれます。現在の作り手は、1887年(明治20年)創業の「ぬし熊」の四代目・世古効史さんただ一人です。木地づくりから漆塗りまでの45工程を一人で手がけ、一つの完成に1か月以上かかります。注文から1年待ちともいわれますが、「100年もつ」とされる丈夫さが評判です。1994年(平成6年)に三重県指定伝統工芸品となり、2013年(平成25年)には製作技術が尾鷲市の無形文化財に指定されました。

豊橋筆
文具愛知

豊橋筆

Toyohashi Fude

豊橋筆は、愛知県豊橋市を中心に田原市・豊川市などでもつくられている書道用を主とした毛筆で、書道用のほか日本画用、化粧用など数百種類以上が生産されています。始まりは文化元年(1804年)、京都から吉田藩(現・豊橋)に招かれた鈴木甚左衛門が筆づくりを伝えたことにさかのぼるとされます。最大の特徴は「練りまぜ」と呼ばれる独自の技法で、タヌキやイタチなどの獣毛を水で柔らかくしながら混ぜ合わせ、毛の種類・太さ・長さを巧みに組み合わせることで、なめらかな書き心地と優れた墨含み・墨はけを実現しています。選別から毛もみ、寸切り、練りまぜ、上毛かけ、仕上げ、刻銘まで約36の工程をすべて手作業で行います。生産量では熊野筆(広島県)に次ぐ全国第2位ですが、書道家向けの高級筆の産地としては全国有数の地位を占め、年間およそ180万本が全国に流通しています。1976年、経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されています。

無名異焼
陶器新潟

無名異焼

Mumyoi-yaki

無名異焼は、新潟県佐渡市の相川地区を中心に作られる焼き物です。「無名異(むみょうい)」とは、佐渡金銀山から産出する酸化鉄を多く含んだ赤い土のことで、古くは止血薬などの薬としても用いられました。この無名異を陶土に用いて高温で焼き締めると、成形から乾燥までに約3割も縮み、非常に硬く仕上がります。叩くと澄んだ金属音がし、使い込むほどに光沢が増していくのが特徴です。文政2年(1819年)に無名異を使った楽焼が焼かれたのが始まりとされ、明治時代に高温で硬く焼き上げる現在の技法が確立されました。2003年には国の重要無形文化財に指定され、五代伊藤赤水が保持者(人間国宝)に認定されています。さらに2024年10月には「佐渡無名異焼」の名称で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。島内の窯元では、ろくろ体験ができるところもあります。

和泉蜻蛉玉
ガラス大阪

和泉蜻蛉玉

Izumi Tonbodama (Glass Beads)

和泉蜻蛉玉(いずみとんぼだま)は、和泉市や堺市でつくられるガラス玉です。蜻蛉玉とは、2色以上の色ガラスで表面に文様を施したガラスの丸玉のことです。斑点の文様がトンボの複眼に似ていることから、この名が付いたといわれます。和泉国(現在の堺市以南)では、奈良時代以前からガラス玉が作られていたとされます。江戸時代には「泉州玉」「さかとんぼ」と呼ばれ、広く知られていました。明治初期に製造技術が確立し、和泉市の信太(しのだ)地域では農業の副業としてガラス玉づくりが盛んになります。大正期には、ガラス玉に塗装を施して作る人造真珠の製造も広がりました。炎で溶かした色ガラス棒を芯棒に巻き付けて玉を形づくり、表面に模様を付けていきます。複数のガラスを組み合わせて生む色彩の技術は、国宝の復元や文化財の修復にも生かされています。2002年(平成14年)に大阪府の伝統工芸品に指定されました。

会津木綿
織物福島

会津木綿

Aizu Momen

会津木綿は福島県会津地方で約400年にわたり織り継がれてきた綿織物です。安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)、会津藩主・蒲生氏郷が若松城下町の整備とあわせて綿花栽培を奨励したことに始まり、寛永4年(1627年)には藩主・加藤嘉明が前領国の伊予松山から織師を招いて技術を伝えたことで、本格的な生産が広がったと伝えられています。丈夫で洗うほどに風合いが増す素朴な縞模様の木綿織物として、江戸時代から庶民の普段着や野良着に用いられてきました。最盛期の大正時代には会津若松周辺に約30軒の織元が軒を連ねましたが、現在は会津若松市内に2軒、会津坂下町に1軒を残すのみです。福島県の伝統的工芸品に指定されており、昭和初期の旧式織機を使い続ける織元が、縦縞や格子縞を中心にした生地を今も織り出しています。

弓野人形
陶器佐賀

弓野人形

Yumino Ningyo

弓野人形は佐賀県武雄市西川登町弓野地区で作られる郷土人形です。1882年(明治15年)、博多人形師・藤原清重に師事していた原田亀次郎が、博多人形の作風に飽き足らず九州各地を修行する中で弓野の吉田山に立ち寄り、そこで採れる黒灰色の粘土に触れたことから創作意欲を得て、この地に人形づくりを興したのが始まりとされます。当初は博多人形に近い洗練された作風でしたが、次第に胡粉を厚く塗ったぽってりとした丸みのある形と、鮮やかな彩色を特徴とする素朴で親しみやすい人形へと変化していきました。石膏型に粘土を詰めて成形し、乾燥・焼成の後、胡粉を重ね塗りして表情を作り、手作業で彩色を施すのが基本の工程です。招き猫や十二支など縁起物のモチーフが多く、なかでも招き猫の貯金箱は人気の製品として知られます。現在は創業140年を超える江口人形店が、その伝統をほぼ唯一継承しています。

京鹿の子絞
染物京都

京鹿の子絞

Kyo-kanoko Shibori

京鹿の子絞は、生地を糸で一粒ずつ括って防染し、染め分けることで模様を表す京都の絞り染めで、仕上がった模様が子鹿の背の斑点に似ていることからその名がついたとされる。疋田絞りや一目絞りなど多数の括り技法を組み合わせ、精緻な括り粒とあざやかな色の染め分けが生み出す立体感が特徴で、すべての工程が手仕事によって行われるため、機械染めにはない独特の潤いと温かみを持つ。室町から江戸時代初期にかけて辻が花染として盛んになり、江戸中期の元禄期に全盛を迎えた。起源はインドとされ、7世紀ごろに日本へ伝わったとする説があり、日本書紀にも絞り染めに関する記述が見られるなど古い歴史を持つ。1976年に国の伝統的工芸品に指定された。

桑名鋳物
金工三重

桑名鋳物

Kuwana Imono (Kuwana Cast Metalwork)

桑名鋳物(くわないもの)は、三重県桑名市で作られている鋳物です。1601年(慶長6年)、本多忠勝が桑名藩の初代藩主となり、鋳物師を招いたのが始まりとされます。藩の奨励のもとで鉄砲の製造などが行われ、鋳物産業が根づきました。江戸時代には灯籠や梵鐘、鍋などが作られ、桑名宗社(春日神社)の青銅鳥居が名高い作例です。明治時代には製麺機や水道器具などの機械鋳物が始まり、「東の川口、西の桑名」と並び称される産地に育ちました。東海道の宿場町として栄えた桑名は、今も「鋳物の街」として知られます。現在はマンホールの蓋や機械部品などの工業用鋳物が中心ですが、鉄瓶や鍋などの日用品も作られています。2026年(令和8年)には、ケトルベルと鉄鍋を対象に三重県指定伝統工芸品となりました。

戸隠竹細工
木工長野

戸隠竹細工

Togakushi Takezaiku (Togakushi Bamboo Craft)

戸隠竹細工は、長野市戸隠で作られる竹細工です。材料は、戸隠の山に自生するチシマザサで、根元が曲がっていることから地元では「根曲竹(ねまがりだけ)」と呼ばれます。この竹は細くても硬くしなやかで、冬の豪雪にも折れずに曲がる強さを持っています。標高が高く稲作に向かない戸隠では、江戸時代に米の代わりに竹を年貢として納めることが認められていたと伝わります。明治以降は養蚕用の大きな籠の需要が高まり、やがてざるやかごなど、暮らしの道具が作られるようになりました。代表的な製品は、戸隠そばを盛り付けるそばざるです。山での竹の伐り出しから竹ひご作り、編み上げまでを1人の職人が一貫して手がけるのが特徴です。1983年には、山ノ内町・伊那市の竹細工とともに「信州竹細工」として長野県知事指定の伝統的工芸品になりました。戸隠神社の門前には、竹細工の店や体験のできる施設が点在しています。

堺手織緞通
織物大阪

堺手織緞通

Sakai Teori Dantsu (Hand-Woven Carpets)

堺手織緞通(さかいておりだんつう)は、江戸時代後期に堺で始まった手織りの敷物です。緞通(だんつう)は厚手の織物の敷物のことで、技法は中国から伝わり、肥前の鍋島藩を経て播州赤穂と泉州堺に広まったとされます。堺では天保2年(1831年)、糸物商の藤本庄左衛門が泉利兵衛に織らせて「堺緞通」として売り出したのが始まりです。明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会への出品で、広く知られるようになりました。庄左衛門の孫で「緞通王」と呼ばれた藤本荘太郎は技術を改良し、自ら渡米して海外への普及に努めます。明治中期には国内外へ盛んに出荷され、最盛期を迎えました。熟練を要する手織りの技法で、丈夫で重厚な仕上がりになります。1986年(昭和61年)に大阪府の伝統工芸品に指定されました。2006年(平成18年)には、その技術が大阪府の無形民俗文化財にも指定されています。

三河木綿
織物愛知

三河木綿

Mikawa Momen

三河木綿は、愛知県東部の三河地方(西尾市・蒲郡市・豊川市周辺)で古くから栽培・生産されてきた綿織物の総称です。伝承によれば、延暦18年(799年)に崑崙人(インド人と伝わる)が漂着した際に伝えた綿種が、日本における綿栽培の始まりとされ、その地が三河国幡豆郡(現・西尾市)であったといいます。文献上の初見は永正7年(1510年)で、興福寺大乗院の記録「永正年中記」に年貢として「三川木綿」が納められたことが記されています。江戸時代には三河地方一帯で綿花栽培と綿織物業が盛んになり、「三白木綿」として江戸方面へも送られました。明治以降は西洋の紡織技術を取り入れながら発展し、「三河木綿」「三河縞」のブランド名で全国に知られるようになりました。独特の縦縞模様と淡い藍色を特徴とする「三河縞」や、保温性・吸水性に優れた多重織ガーゼなどの製品があり、2007年には地域団体商標として登録されています。

三線
木工沖縄

三線

Sanshin

三線は蛇皮を張った胴に木製の棹を通した三弦の弦楽器で、沖縄の音楽・芸能に欠かせない存在です。14世紀末頃、中国福建省の弦楽器「三弦」が交易を通じて琉球王国に伝わり、久米村(現在の那覇市久米)を拠点に琉球独自の楽器として発展したのが起源とされます。15世紀以降、琉球の士族の間で広まり、宮廷の饗宴音楽や芸能の伴奏楽器として発展を遂げました。棹の形状には琉球王国時代の名工の名を冠した「真壁型」「南風原型」「与那城型」など7つの伝統的な型があり、黒木(くるち)などの木材を使った棹に、ニシキヘビの皮を張った胴を組み合わせて作られます。三線の職人による工房・組合が製作技術を今に伝えており、2018年に国の伝統的工芸品に指定され、2012年には沖縄県の伝統工芸製品にも指定されています。価格帯は入門用が数万円から、高級な蛇皮張り・銘木仕様のものは数十万円以上に及び、選ぶ型や素材によって音色や見た目が大きく異なるのも魅力です。

酒田船箪笥
木工山形

酒田船箪笥

Sakata Funadansu

酒田船箪笥は江戸時代から大正時代にかけて、北前船の船乗りが船内で貴重品を保管するために作らせた頑丈な箪笥です。酒田は佐渡小木、福井県三国と並ぶ船箪笥の三大産地の一つに数えられます。日本海側で船が商品を仕入れて売買する「買積」という廻船業の形態のもと、寄港地であった酒田でも独自の船箪笥づくりが発展しました。外側には堅牢な欅材と装飾性の高い鉄金具を用い、内側には高湿度で膨張して水の浸入を防ぐ桐材を使う二重構造が特徴です。火事や難破の際にも運び出しやすいよう小型に作られ、懸硯・帳箱・半櫃など用途に応じた様式があります。江戸時代には斉藤如斎をはじめとする名工も現れましたが、現在は装飾金具や漆塗りの職人が不足しており、継承が課題となっています。

修善寺紙
和紙静岡

修善寺紙

Shuzenji Gami (Shuzenji Washi Paper)

修善寺紙(しゅぜんじがみ)は、静岡県伊豆市修善寺の紙谷(かみや)地区で漉かれてきた和紙です。起源ははっきりしませんが、平安時代ごろから漉かれていたともいわれ、千年に及ぶ歴史を持つとされます。『平家物語』にもその名が見え、源頼朝が挙兵の際に関東の武士へ送った文書にも使われたと伝わります。江戸時代には徳川家康がその質を認めて奨励し、幕府の御用紙として用いられたといわれます。古くは薄紅色を帯びた薄い紙で、簾目(すだれめ)の模様が表れるのが特徴でした。明治から大正にかけて、洋紙の普及などにより生産は途絶えます。1985年に地元住民の協力で紙谷に工房が建てられ、復元への取り組みが始まりました。現在は修善寺紙谷和紙工房で紙漉きが続けられ、紙漉き体験も行われています。

秋田八丈
織物秋田

秋田八丈

Akita Hachijo

秋田八丈は、ハマナスの根皮やカリヤス、レンゲツツジといった植物染料で染め上げた絹糸を用いる、鳶色(とびいろ)を基調とした縞・格子模様の絹織物です。天明4年(1784)頃、石川滝右衛門らによって織物の技術がもたらされたのが始まりとされ、伊豆諸島の「本場黄八丈」に通じる草木染めの技法を土台に、文化年間には上州桐生から職人を招いて改良が重ねられました。明治36〜37年(1903〜1904)頃に生産の最盛期を迎えましたが、その後は徐々に生産者が減少し、最後まで生産を続けていた滑川織物工場(秋田市)が2003年に廃業したことで、一度は途絶えます。2006年、同工場の元従業員だった奈良田登志子氏が設備を譲り受けて北秋田市に工房を設立し、技術を一人で復活させました。2023年には工房を移転して「秋田八丈はまなす工房」と改称、現在も奈良田氏がただ一人の生産者として糸の染めから織りまでを手がけながら、地域おこし協力隊員への技術継承にも取り組んでいます。

小国和紙
和紙新潟

小国和紙

Oguni Washi

小国和紙は、新潟県長岡市小国町で漉かれている手すきの和紙です。豪雪地帯の小国では、雪を生かした独自の製法が受け継がれてきました。原料の楮(こうぞ)の皮を雪の上で天日にさらして漂白する「雪晒し」や、漉いた紙を重ねた紙床を春まで雪に埋めて保存する「かんぐれ」がその代表です。漉いた紙を板に貼り、雪の上で乾かす「雪上天日干し」も行われます。記録では天和2年(1682年)に、農家の冬仕事として楮の栽培と紙漉きが行われていたとされます。江戸時代には、水田のない山間の集落から年貢として納められていました。昭和初期には一冬に2,200万枚もの紙が生産され、現在は小国和紙生産組合がその技を伝えています。雪を使った製法は国の選択無形文化財と新潟県無形文化財となり、2022年には新潟県伝統工芸品に指定されました。書道や絵画の用紙、清酒のラベルなどに使われています。

川口鋳物
金工埼玉

川口鋳物

Kawaguchi Imono

川口鋳物は、荒川と芝川に挟まれた川口市で発展した鋳造業の総称で、「鋳物のまち川口」として知られています。発祥には平安時代説・鎌倉時代説・南北朝時代説・戦国時代説など複数の説があり定かではありませんが、遅くとも中世には鋳物師が定着していたとされます。荒川・芝川流域で鋳型に適した良質な砂や粘土が採れたことに加え、大消費地である江戸・東京に隣接し水運にも恵まれていたことから、江戸時代以降、鍋や釜、農具、梵鐘などをつくる一大産地として発展しました。明治以降は工場制生産や技術革新が進み、1942年には単独市として生産量日本一を達成、映画『キューポラのある街』の舞台としても知られています。近年は生活雑貨や工業製品まで幅広い分野で、軽量化やデザイン性を追求した製品づくりが続けられています。

中新田打刃物
金工宮城

中新田打刃物

Nakaniida Uchihamono

中新田打刃物は宮城県加美郡加美町(旧中新田町)に伝わる鍛冶技術による打刃物で、江戸時代の寛文年間(1661~1673年ごろ)、仙台藩の刃匠・舟野五郎兵衛が鎌づくりを始めたことに起源を持つと伝えられています。以来300年以上にわたり、日本刀づくりと同じ鍛錬技術を用いて鉄と鋼を打ち鍛える「空打式」と呼ばれる製法が受け継がれてきました。刃を上向きに使う独自の形状の鎌は土との摩擦を減らして刃こぼれしにくく、研ぎ直しもしやすいと評価されています。鎌のほか、菜切り包丁や皮剥き包丁など各種の打刃物も手がけられています。最盛期には11軒の鍛冶屋が軒を連ねていましたが、後継者不足により現在は「石川刃物製作所」の4代目・石川美智雄氏がただ一人の職人としてその技術を守り続けています。1982年(昭和57年)に宮城県知事指定伝統的工芸品に指定されました。

長浜仏壇
木工滋賀

長浜仏壇

Nagahama Butsudan

長浜仏壇は滋賀県長浜市を中心に作られる金仏壇で、彦根仏壇とは別系統の産地として知られています。室町時代、京都の仏師が集まる「八仏所」から移り住んだ職人によって各地で仏壇づくりが広まったとされ、長浜では浄土真宗信仰の篤い土地柄を背景に藤岡和泉が産地の礎を築いたと伝えられています。現存最古の作例は延宝8年(1680年)の年紀を持ち、17世紀半ばには早くも産地として成立していました。木地・宮殿・彫刻・錺金具・塗り・蒔絵・箔押しの7工程からなる分業制で作られ、木地師・錺師・塗師・蒔絵師など複数の職人が手を掛ける総合芸術です。接着剤や釘を使わずに組み上げる「構架式」の技法により、完成後も解体・修理が可能で、長年にわたり使い続けられる点も特徴です。長浜曳山祭の曳山づくりで培われた木工・彫刻・金工の技術が、仏壇産業を支えてきました。

二俣和紙
和紙石川

二俣和紙

Futamata-washi

二俣和紙は、金沢市二俣町で1300年以上にわたり漉き継がれてきた手漉き和紙です。奈良時代の養老年間(717〜724年)、僧・泰澄が医王山に寺を開いたことが紙漉きの始まりと伝えられ、文禄年間(1592〜1596年)には加賀藩の御用紙を漉く紙漉き場として保護を受け発展しました。天正11年(1583年)に加賀国に入った前田利家は、二俣がすでに紙の産地であったことを知り紙を注文して保護を加え、以後加賀藩は正式な儀礼用紙「御料紙」として二俣紙を用いたと伝わります。二俣の気候風土は楮の繊維を短く育てるため、強靭でありながら繊細な紙質を生み出すことが特徴で、書道用紙や色紙、金沢箔を打つ際に用いる箔打紙、格式高い加賀奉書などに用いられてきました。現在も現地の職人によって楮の栽培から紙漉きまでが一貫して手がけられ、伝統の製法が守られています。

博多曲物
木工福岡

博多曲物

Hakata Magemono

博多曲物は、杉やヒノキの薄板を丸く曲げて成形し、桜の皮でとじて底をはめ込んだ木工品で、金属釘を一切使わないのが特徴です。その起源は古く、博多の柴田家が400年以上にわたって曲物づくりを家業として受け継いでおり、現当主は十八代目にあたる柴田玉樹氏です。江戸時代には東区の筥崎宮の神具としても奉納されてきた歴史を持ちます。飯びつ(おひつ)や弁当箱、茶びつなどの生活道具として親しまれ、特におひつは杉が余分な水分を吸放出することでご飯をふっくらと保つ性質があり、寿司職人をはじめ多くの料理人に愛用されています。使い方や手入れ次第では50年にわたって使い続けられるとも言われ、令和7年(2025年)3月には福岡県指定無形文化財(工芸技術)に新たに指定されました。

飛騨家具
木工岐阜

飛騨家具

Hida Kagu

飛騨家具は岐阜県高山市を中心とする飛騨地方で作られる家具で、木材に蒸気を当てて曲げる「曲木(まげき)」の技術を生かした椅子やテーブルなどの脚物家具を得意とする、日本を代表する家具産地です。1920年(大正9年)、地元有志が未活用材だったブナ材の活用を目指して曲木家具づくりに取り組み、中央木工株式会社(現・飛騨産業株式会社)を設立したのが飛騨家具の始まりとされています。飛騨地方には約1300年前から「飛騨の匠」と呼ばれる木工技術者の伝統があり、平城京や東大寺の造営にも携わったと伝えられるこの匠の技が、近代的な家具づくりにも受け継がれてきました。堅くて粘りがあり曲木加工に適したブナ材や、落ち着いた木目が魅力のナラ材を用い、木の色や木目を生かした美しく洗練されたデザインが特徴です。2008年(平成20年)には「飛騨の家具」「飛騨・高山の家具」が地域団体商標として登録されました。

富士勝山スズ竹細工
木工山梨

富士勝山スズ竹細工

Fuji Katsuyama Suzutake Craft

富士勝山スズ竹細工は、山梨県南都留郡富士河口湖町の勝山地区に伝わる竹細工です。富士山の二合目付近に自生する細い「スズ竹」を割って編み、笊(ざる)や籠などの暮らしの道具を作ります。江戸時代の始め頃から村人の生活の中で工夫が重ねられ、慶長15年(1610年)には冨士御室浅間神社の本宮造営の際に籠を奉納した記録もあるといいます。文化11年(1814年)の地誌『甲斐国志』にも、富士北麓のスズ竹が箕(み)や笊を作る材料になったと記されています。スズ竹はしなやかで香りがよく、編み上げた製品は軽くて丈夫、水切れにも優れます。丁寧に使えば30年、40年ともつとされ、米研ぎざるなど台所の道具として重宝されてきました。平成10年(1998年)に山梨県郷土伝統工芸品に指定されました。現在は勝山スズ竹伝統工芸センターで、作り手たちが技を受け継いでいます。

福井羽二重
織物福井

福井羽二重

Fukui Habutae

福井羽二重は、明治時代に福井県で盛んに織られた輸出向けの絹織物です。羽二重は、撚りのない細い経糸(たていと)を2本引きそろえて平織にした生地で、軽く柔らかく、白く美しい光沢を持ちます。福井では明治初期に京都へ伝習生を送るなど、新しい絹織物の研究が始まりました。1880年代後半には、先進地の桐生から技術者を招いて羽二重の製織技術を導入します。技術は県内一円に広がり、1890年代前半には福井県の絹織物の生産額が全国1位となりました。大正初期にかけて電動の力織機が普及し、北陸は全国有数の輸出羽二重の産地へと成長します。その後は人絹(レーヨン)や合成繊維へと転換し、福井は今も国内屈指の繊維産地です。勝山市では緯糸を濡らして織る「ぬれよこ羽二重」の生産が続いています。福井銘菓の羽二重餅も、この羽二重織にちなんで名付けられました。

京繍(京刺繍)
織物京都

京繍(京刺繍)

Kyo-nui

京繍(京刺繍)は、一本の針と多色の絹糸・金銀糸を用いて布地に模様を縫い表す京都の伝統的な刺繍工芸である。平安京遷都に伴い宮中の衣服装飾を担う「縫部司(ぬいべのつかさ)」が置かれたことに始まり、十二単や武将の胴服、能装束、小袖などとともに発展してきた。染や織と並んで日本の染織史上重要な位置を占め、全体の構図、繍糸の配色、繍技・繍法が一体となることで、平面の布に立体感と情趣あふれる表現を生み出す点が特徴である。現在も約30種の技法が伝わり、そのうち繍切り・駒使い繍・まつい繍など15種が経済産業大臣指定の伝統的工芸品の技法として認められている。近年は和装品にとどまらず、額装作品や小物などにも応用され、新たな需要が開拓されている。

京仏壇
木工京都

京仏壇

Kyo-butsudan

京仏壇は、木地・屋根(宮殿)・木彫刻・漆塗・蝋色・純金箔押・錺金具・蒔絵・彩色など、四十余りの専門職種による分業体制のもとで作られる京都の伝統的な仏壇である。仏教伝来直後の8世紀頃に始まった京都の仏具製作は、11世紀初頭に仏師定朝が七条に「七条仏所」を設けたことで本格化し、江戸時代初期の宗門改め制度によって各家庭に仏壇を安置する習慣が広まったことで需要が急増した。宗派ごとに荘厳(しょうごん)の様式が異なるため大量生産になじまず、木工・漆工・金工などあらゆる伝統技術を結集した総合工芸品としての性格を持つ。現在、京都で製作される仏壇・仏具のうち約7割は寺院用とされ、全国の寺院用仏具の多くを京都が担っている。1976年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された。

京仏具
金工京都

京仏具

Kyo-butsugu

京仏具は、香炉・燭台・花瓶(けびょう)や仏像、荘厳具など寺院や家庭の仏事に用いる道具類の総称で、木工・漆工・金工・染織など多様な技術を結集した総合工芸品である。仏具の製作は6世紀の仏教伝来とともに始まったとされ、京都では11世紀初頭に仏師定朝が七条に「七条仏所」を設けたことで本格化し、以来千年余りの歴史を刻んできた。宗派ごとに仏具の意匠や仕様が異なるため大量生産になじまず、四十余りの専門職種による分業体制のもとで一点一点手作業により仕上げられる。現在、京都で製作される仏具の約7割は寺院用とされ、全国の寺院で使われる仏具の多くを京都が供給している。1976年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となった。

楽焼
陶器京都

楽焼

Raku-yaki

楽焼は、桃山時代に樂家初代長次郎が千利休の侘茶の思想を受けて創案した手づくねの茶碗を源流とする陶芸で、京都で450年以上受け継がれてきた。轆轤を使わず、手とへらだけで一椀ずつ成形し、低い火度で焼き上げる技法が特徴で、装飾を排したおおらかな造形と、掌に包み込むような柔らかい風合いが茶人に愛されてきた。技術のルーツは中国明時代の三彩陶にあるとされ、長次郎の父と伝わる渡来人・阿米也がその技法を伝えたと考えられている。樂家は初代長次郎から現在の十六代まで一子相伝で受け継がれ、各代当主が個性豊かな作風を打ち出してきた点も他の陶芸には見られない特色である。今日では樂家本流の樂焼のほか、これに倣った赤楽・黒楽の茶碗を手掛ける窯元も京都に複数存在する。

京表具
和紙京都

京表具

Kyo-hyogu

京表具は、掛軸・屏風・襖・額装など、書画や染織品を裂地や和紙で仕立てて飾り、保存する京都の伝統工芸である。仏教伝来とともに中国から伝わった経巻の表装を起源とし、都が置かれた京都では仏画の礼拝や書院造の床の間文化、茶の湯の興隆と結びついて技術が磨かれてきた。湿度の高い盆地気候が、糊と和紙を幾重にも重ねて乾燥させる表具の製作に適していたことも技術発達を後押ししたとされる。表具師(経師)は掛軸や屏風の新調にとどまらず、古書画や文化財の修理・修復も手掛け、国宝や重要文化財の修復現場でもその技術が頼りにされている。1997年に国の伝統的工芸品指定を受け、2007年には地域団体商標にも登録された。

あけび蔓細工
木工青森

あけび蔓細工

Akebi-tsuru Zaiku

あけび蔓細工は、江戸時代末に岩木山麓の嶽温泉で湯治客向けの土産物として、周辺の山野に自生するあけびの蔓を使った炭籠や手提げ籠が作られたことに由来する津軽の編組工芸です。八甲田・十和田湖周辺や岩木山一帯で採れるあけびの蔓、また山ぶどうの皮を材料とし、蔓の選定から陰干し乾燥、水漬け、編み上げまで、すべての工程を職人が手作業で行います。丈夫で巧みな編目と自然な光沢が特徴で、使い込むほどに艶が増し手になじんでいくのが魅力です。明治期以降は国内外の展覧会にも出展されて評価を広げ、平成8年3月には青森県伝統工芸品に指定されました。現在も弘前市を中心に、山野で採れる自然素材ならではの風合いを生かした手提げ籠やざる、盆などが作られ続けています。

こぶ志焼
陶器北海道

こぶ志焼

Kobushi-yaki

こぶ志焼は、北海道岩見沢市の「こぶ志窯」で焼かれる陶器で、道内で最も古い歴史を持つ民窯(日常づかいの器を焼く窯)として知られています。1946年(昭和21年)、窯業技術者であった初代・三秋(みあき)が、妻の実家のある岩見沢の地に開窯したのが始まりです。初窯を焚いた折に辛夷(こぶし)の花が咲いていたことから「こぶ志窯」と名付けられました。開窯当時の北海道は陶芸不毛の地とされ、土づくりから釉薬、焼成まですべてを手探りで確立せねばならなかったことが、かえって独自の作風を育みました。中でも藍色を基調とした「海鼠釉(なまこゆう)」は、創窯間もない頃から安定した発色を得られたことで評判となり、こぶ志焼を代表する釉調として現在まで受け継がれています。二代目・山岡憬のあとを継ぎ、現在は山岡千秋を中心に、道内産原料を用いた土づくりなど新たな取り組みも進められています。

とやま土人形
陶器富山

とやま土人形

Toyama Tsuchi Ningyo

とやま土人形は富山藩の時代から続く素焼きの土人形で、富山市を中心に作られてきた郷土玩具である。嘉永年間、名古屋出身の陶工・広瀬秀信が富山藩十代藩主・前田利保に土人形を献上したのが始まりとされ、その子・安次郎が天神様(牛乗り天神)を焼いて献上したことがとやま土人形の起源と伝わる。型に入れて成形した素地を約800度で素焼きし、一体ずつ手作業で絵具による彩色を施す製法で、素朴であたたかみのある色使いが持ち味である。学問の神様として親しまれる天神様をはじめ、招き猫、干支、抱き雛など、縁起物や郷土色豊かな題材が数多く作られてきた。天神信仰の強い富山では、男児の初正月に天神様を贈る習わしとも結びつき、家庭で親しまれる存在であり続けている。2013年(平成25年)に富山県指定伝統工芸品となり、富山市民俗民芸村内の工房で今も製作技術が受け継がれている。

ならくみひも
織物奈良

ならくみひも

Nara Kumihimo

組紐(くみひも)は、複数の絹糸を交差させながら束ねて紐状に組み上げる伝統技術で、飛鳥・奈良時代に仏教の伝来とともに大陸から伝わったとされています。正倉院宝物や法隆寺伝来の宝物には古代の組紐の遺品が残されており、伝統的な組紐の技法の中には、正倉院に伝わる聖武天皇ゆかりの品に見られる組み方にちなんで「奈良組」と呼ばれる技法が今も伝えられているなど、奈良は組紐の歴史を語るうえで欠かせない土地です。奈良時代には経典や袈裟などの仏具に用いられた組紐は、時代を経て武具の紐や茶道具、江戸時代末期以降は女性の帯締めとしても広く使われるようになりました。現在、奈良市西ノ京の工房「ならくみひも鳳美」では、角台・丸台・高台といった伝統的な組み台を用いた組紐づくりが受け継がれ、教室や体験プログラムを通じてこの技術を今に伝えています。

ひたち竹人形
木工茨城

ひたち竹人形

Hitachi Take Ningyo

ひたち竹人形は、福井県の伝統工芸「越前竹人形」の技術を受け継ぐ竹人形師が、茨城県日立市大みか町に構える工房で製作する竹細工の人形である。全国に3軒ほどしかないとされる越前系竹人形の作り手の一つで、竹人形師の柴田重光氏が福井で技術を学んだのち、1972年に日立で工房を開いたのが始まりとされる。竹は3年ものを選んで採取した後、さらに3年寝かせてから使用するため、伐採から完成までに実に6年を要する。真竹やさらし竹、ごま竹、黒竹、紋竹、虎竹など用途に応じてさまざまな竹を使い分け、能や歌舞伎、郷土芸能を題材にした人形を製作する。竹本来のたたずまいを生かした造形が特徴で、時を経るごとに飴色に変化する竹の色合いも楽しめる、茨城県を代表する竹工芸品の一つである。

旭川家具
木工北海道

旭川家具

Asahikawa Furniture

旭川家具は、北海道旭川市とその近郊で作られる木工家具の総称で、静岡・飛騨・徳島・大川と並ぶ日本有数の家具産地として知られます。起源は1890年(明治23年)の旭川村誕生とともに開かれた木挽場にさかのぼり、1898年の鉄道開通と1899年の陸軍第七師団移駐を契機に本州から大工や家具・建具職人が旭川へ移住したことで木工業が本格化しました。1913年の冷害を機に木工伝習所が開設されて技術振興が進み、1949年には国指定「重要木工集団地区」に北海道で唯一選定されました。旭川近郊の大雪山系の原生林から良質な広葉樹材を調達できることに加え、1990年開催の国際家具デザインフェア旭川(IFDA)を通じて世界的なデザイン性の追求が続けられている点が特徴です。現在は旭川家具工業協同組合に旭川市・東川町・東神楽町・当麻町の家具メーカー約40社が加盟し、共同展示・共同受注などを通じて産地全体でブランドを支えています。

粟野春慶塗
漆器茨城

粟野春慶塗

Awano Shunkei-nuri

粟野春慶塗は茨城県東茨城郡城里町粟に伝わる漆器で、室町時代の延徳元年(1489年)に稲川山城守源義明が地元に自生する漆・檜・梅を用いて塗物を考案したのが始まりと伝えられる。江戸時代には稲川家8代・興兵衛が水戸藩2代藩主・徳川光圀の前で紀州の漆工と技を競い、その仕上がりが優れていたことから水戸藩の塗物御用達となった。木地に黄や赤の下地色をつけたうえに透明な透漆を塗り重ねて木目を透かして見せる技法を用い、岐阜の飛騨春慶塗、秋田の能代春慶塗と並ぶ「日本三春慶」の一つに数えられる。1989年(平成元年)1月25日に茨城県指定無形文化財となったが、現在は稲川家1軒のみが伝統の技を継承している。

井波彫刻
木工富山

井波彫刻

Inami Chokoku

井波彫刻は富山県南砺市井波地区を中心に受け継がれる木彫刻の伝統工芸で、1390年創建の井波別院瑞泉寺が度重なる火災に見舞われるなか、宝暦・安永年間(1763〜1774年)に行われた再建工事の際、京都本願寺御用彫刻師・前川三四郎から地元の大工たちが本格的な彫刻技法を学んだことに始まるとされる。当初は寺社建築を彩る欄間や向拝彫刻が中心だったが、明治時代以降は一般住宅の欄間彫刻へと需要が広がり、「井波の欄間」として全国に知られる地場産業へと発展した。最大の特徴は、ノミだけで文様を彫り抜く「透かし彫り」の技法にあり、松竹梅や花鳥風月、龍や獅子といった意匠を、裏表両面から幾重にも彫り重ねることで、今にも動き出しそうな立体感と躍動感を生み出す。1975年に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定され、現在も社寺彫刻や欄間、獅子頭など幅広い製品が作られており、日本の欄間彫刻において高いシェアを持つ産地として知られる。

宇陀紙
和紙奈良

宇陀紙

Uda-gami

宇陀紙は、奈良県南部の吉野地方で漉かれる手漉き和紙です。楮を原料とし、軽石を砕いた白土を漉き込むことで、強靭さとしなやかさ、独特の柔らかな風合いを兼ね備えた紙に仕上がります。産地は吉野川上流の吉野町国栖地区で、もともとは「国栖紙」と呼ばれていましたが、江戸時代に経済的な結びつきの強かった大和国宇陀郡(現在の宇陀市周辺)の商人がこの紙を仕入れて全国に売り歩いたことから、次第に「宇陀紙」の名で知られるようになったと伝えられています。白土を漉き込むことで紙の収縮や虫害を防ぎ、巻いても跳ね返りにくいという特性を持つため、書画の掛軸や屏風を仕立てる表具の裏打ち用紙として最高級品とされ、国宝や重要文化財の修理にも用いられています。この製法は国の選定保存技術「表具用手漉和紙(宇陀紙)製作」に指定されており、現在は吉野町国栖の老舗和紙工房がその技術を継承しています。

烏山和紙
和紙栃木

烏山和紙

Karasuyama Washi

烏山和紙は栃木県那須烏山市に伝わる手すき和紙で、鎌倉時代の建保年間(1213〜1219年)にこの地を治めた那須氏が越前(現在の福井県)から紙漉き職人を招き、向田村(現・那須烏山市)で「那須奉書」を漉かせたのが起源と伝わる。楮を原料に手すきで作られる厚手で緻密な紙質が特徴で、江戸時代中頃には越前奉書・美濃紙・西ノ内と並ぶ良質な紙として知られた。なかでも下境地区に伝わる「程村紙」は、那須地方特産の良質な楮「那須楮」を原料とし、独特の「半流し」という漉き方といちょう板を使った天日乾燥などの伝統技法によって作られる厚紙で、強靭さと品格を兼ね備えた紙として1977年(昭和52年)に国の選択無形文化財に指定された。現在、那須烏山市に唯一残る「福田製紙所」がこの伝統を受け継いでおり、卒業証書や工芸品、山あげ祭の山車の装飾など幅広い用途に使われている。

烏城彫
木工岡山

烏城彫

Ujo-bori

烏城彫は、岡山城の別称「烏城(うじょう)」にちなんで名付けられた岡山市の木彫漆器です。創始者は木口九峰(本名・木口房四郎、1895〜1969年)で、趣味で茶道具などを彫っていたことから木彫に傾倒し、1927年(昭和2年)に自らの作品を「烏城彫」と命名しました。ケヤキ・ナラ・カツラ・キリなどの一枚板に、野菜や果物、草花、古瓦の文様などを浮き彫りにし、生漆を塗っては布で拭き取る「拭き漆」を13〜24回ほど繰り返して仕上げます。使い込むほどに艶と味わいが増していく点が特徴です。もともとは営利目的ではなく、身体障害者の仕事づくりを目的とした社会事業として考案されたもので、1953年に財団法人烏城彫協会が設立されました。1930年と1946年の2度、昭和天皇に烏城彫の香盆・茶入が献上されています。90年以上の歴史を経て、現在も岡山市の特産工芸品として受け継がれています。

益子焼
陶器栃木

益子焼

Mashiko-yaki

益子焼は栃木県芳賀郡益子町を産地とする陶器で、1979年8月3日に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。始まりは嘉永6年(1853年)頃、笠間で技術を学んだ大塚啓三郎が益子の地に窯を開いたことにあるとされ、当初は甕や土瓶、擂鉢などの日用雑器を焼く産地として発展した。大正末期の1924年には陶芸家・濱田庄司が益子に定住し、柳宗悦や河井寛次郎とともに民藝運動を推し進める拠点とし、イギリス人陶芸家バーナード・リーチとの深い交流も益子焼の名を広く知らしめた。鉄分を多く含む粗めの陶土に柿釉や糠白釉を厚くかけて焼き上げるため、重厚感がありながら素朴で温かみのある質感が持ち味である。特定の様式に縛られず作り手ごとの個性が生きる自由な作風も特徴で、日用の器から作家性の強い作品まで幅広く手がけられている。現在は益子町内に多くの窯元が集まり、春と秋の陶器市には合わせて約60万人が訪れる。

越中瀬戸焼
陶器富山

越中瀬戸焼

Ecchu Seto-yaki

越中瀬戸焼は富山県中新川郡立山町の瀬戸・上末地区で焼かれる陶器で、愛知県の「瀬戸焼」とは産地も系譜も異なる、富山県独自の古窯である。この地区は平安時代初めから須恵器を焼いてきた古窯地で、桃山時代から文禄・慶長年間にかけて尾張瀬戸から陶工が移住して瀬戸村が誕生し、越中瀬戸焼と呼ばれるようになったと伝わる。加賀藩二代目当主が尾張から陶工を招いて茶道具を作らせたことから加賀藩の御用窯として栄え、九谷焼よりも古い歴史を持つ北陸有数の古窯地として知られる。明治・大正期には鉄道網の整備で他産地の安価な製品に押されて多くの窯が瓦生産へ転じたが、昭和に入り地元有志による保存会の活動で陶器製造が復興した。地元でとれる赤・黄・青・白などの多彩な陶土と、草木灰を原料とする釉薬による大胆で多彩な施釉が持ち味で、現在は「かなくれ会」に属する窯元たちが430年以上続く伝統を受け継いでいる。

越中福岡の菅笠
織物富山

越中福岡の菅笠

Ecchu Fukuoka no Sugegasa

越中福岡の菅笠は、富山県高岡市福岡町一帯で作られてきた菅(スゲ)製の笠で、日除け・雨除けとして全国の農作業や祭礼で使われてきた400年以上の歴史を持つ。起源は400年以上前、小矢部川の氾濫によって沿岸一帯が泥沼状になった際、質の良いスゲが自生するようになり、村の副業として笠づくりが始まったことにあるとされる。江戸中期の1670年頃には加賀藩主・前田綱紀の保護と奨励を受けて産業として本格化し、江戸後期には福岡町に笠問屋が生まれて日本全国へ直接販売されるようになった。最盛期の1864年には210万枚もの菅笠が出荷されたと伝わる。竹をひご状に加工して円錐状に組み立てる「笠骨づくり」と、菅笠用に栽培したスゲを笠骨に縫いつける「笠縫い」を男女で分業しながら、栽培から仕上げ・出荷までの全工程を地域内で完結させている点が特徴で、現在も全国生産の約9割を占める。2009年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2017年には経済産業大臣指定伝統的工芸品にも指定された。

越中和紙
和紙富山

越中和紙

Ecchu Washi

越中和紙は、富山市八尾町の「八尾和紙」、南砺市の「五箇山和紙」、下新川郡朝日町の「蛭谷和紙」という3つの産地でつくられる手すき和紙の総称で、1984年(昭和59年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。その歴史は古く、奈良時代の774年に成立した「図書寮解」に紙の産地として越中の名が記され、正倉院文書にも「越中国紙」の記載が見られる。平安時代の「延喜式」では租税として和紙を納めていた記録もあり、江戸時代には富山藩2代藩主・前田正甫が売薬を奨励したことで、薬包紙や顧客名簿である懸場帳の材料として八尾和紙の需要が飛躍的に高まった。楮(こうぞ)や三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)を原料とし、丈夫で温かみのある質感を持つ点が共通の特徴で、八尾和紙は鮮やかな型染めの技法、五箇山和紙は雪さらしなどにより強靭さと白さを併せ持つ紙として知られる。現在も日用品からインテリア、工芸品まで幅広く活用されている。

横浜スカーフ
染物神奈川

横浜スカーフ

Yokohama Scarf

横浜スカーフは、1859年の横浜開港を機に発展した生糸・絹織物の輸出産業を背景に生まれた神奈川県横浜市の伝統的工芸品です。開港とともに横浜に集まった浮世絵の絵師・摺師の技術と、輸出の中心であった生糸・絹製品が結びつき、絹ハンカチーフやスカーフの捺染産業として発展しました。昭和初期にはスクリーン捺染の技術が確立され、型紙に染料を乗せてへらで刷り込む「手捺染」による繊細な染めが世界的な評価を得ました。高度経済成長期には輸出で世界シェアの8割、1976年頃には国内生産量の9割を占めるまでに成長しましたが、その後は円高や海外生産移転により生産規模は縮小しています。それでも横浜の職人による手捺染の技術は今も受け継がれ、神奈川県指定伝統工芸品として認定されています。

横浜家具
木工神奈川

横浜家具

Yokohama Kagu

横浜家具は、幕末の横浜開港をきっかけに生まれた、日本における西洋家具製造発祥の地とされる工芸です。1863年(文久3年)頃、横浜に居留していたイギリス人ゴールドマンが、日本人の馬具職人・原安造に椅子の修理を依頼したことが始まりと伝えられています。修理の仕上がりに感心したゴールドマンが本国と同じ洋家具の製作を注文したことをきっかけに、地元の木工職人たちが西洋家具の構造や意匠を学び、独自に発展させていきました。釘をほとんど使わずに部材を精密に組み合わせる木組みの技術や、曲線刃の鉋で優美な曲面を削り出す加工など、日本の伝統的な木工技術と西洋家具の様式を融合させた独自の技法が特徴です。明治期にはパリ万博にも出品されるなど国際的にも高く評価されましたが、関東大震災や戦災を経て担い手は減少し、現在は数少ない工房・企業がその技術を受け継いでいます。

横浜芝山漆器
漆器神奈川

横浜芝山漆器

Yokohama Shibayama-nuri

横浜芝山漆器は、貝殻や象牙、鼈甲などを彫り込んで漆器の表面にはめ込み、花鳥風月の文様を立体的に浮かび上がらせる象嵌技法の工芸品です。技法自体は江戸時代後期、上総国芝山村(現・千葉県芝山町)出身の大野木専蔵が江戸で考案した「芝山象嵌」に由来し、幕末の横浜開港を機に貿易港・横浜で海外向けの輸出工芸品として独自の発展を遂げました。明治期には欧米での評価が高く、最盛期には100人近い職人が横浜に集まりましたが、関東大震災や第二次世界大戦による被害、輸出需要の減少により職人は激減しました。現在、大型作品まで手がけられる現役の職人は宮﨑輝生氏ただ一人とされ、国内に残る作品自体も数少ない、極めて希少な伝統技術です。

下川原焼土人形
陶器青森

下川原焼土人形

Shitakawara-yaki Tsuchi-ningyo

下川原焼土人形は弘前市下川原の地で焼かれてきた素朴な土人形で、文化年間(1804〜1814年)に9代藩主・津軽寧親が津軽の地に玩具が少ないことを憂い、下川原にあった藩窯の陶師・高谷金蔵、太田粂次郎らに作らせたのが始まりと伝えられています。赤土と砂を調合した粘土を石膏型で成形し、約800度で焼き上げたのち、すべて手作業で色付けを施すため同じ表情のものは一つとしてありません。中でも「ホー」という優しい音色を奏でる鳩笛は代表的な製品で、干支人形をはじめ数百種類の土人形が作られてきました。明治以降も弘前の郷土玩具として親しまれ、青森県伝統工芸品にも指定されています。現在は弘前市内にわずかに残る窯元が、二百年以上続く技法を受け継いでいます。

笠間焼
陶器茨城

笠間焼

Kasama Ware

笠間焼は茨城県笠間市を中心に生産される陶器で、江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)、箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が近江国信楽から招かれた陶工・長右衛門の指導を受けて窯を築いたのが始まりとされる。幕末から明治にかけては江戸に近い立地を生かし、水瓶や徳利などの日用雑器の大量生産地として発展した。戦後はプラスチック製品の普及で需要が落ち込んだが、官民一体で日用雑器から工芸陶器へと転換を図り、1992年(平成4年)10月8日に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された。「特徴のないのが特徴」といわれるほど作風の自由度が高く、現在も約300人の陶芸家・窯元が個性豊かな作品を生み出している。

鎌倉彫
漆器神奈川

鎌倉彫

Kamakura-bori

鎌倉彫は、木彫りの上に漆を塗り重ねて仕上げる神奈川県鎌倉市の伝統的工芸品です。鎌倉時代、中国・宋から伝わった彫漆(堆朱・堆黒)に影響を受けた鎌倉の仏師たちが、より簡便に立体的な意匠を表現しようと、木地に文様を彫刻したうえで漆を塗る技法を編み出したのが始まりとされます。当初は仏具や禅宗寺院の道具として作られていましたが、明治初期の廃仏毀釈で仕事を失った仏師たちが、盆や茶托など生活工芸品の製作へと活路を見出し、現在の鎌倉彫へと発展しました。彫りの断面がV字形になる「薬研彫り」を基本とし、木肌の質感を生かした重厚な色合いの漆塗りが特徴です。1979年には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、現在も鎌倉市内の工房・組合を中心に技術が受け継がれています。

間々田ひも
織物栃木

間々田ひも

Mamada Himo

間々田ひもは、栃木県小山市間々田に鎌倉時代から伝わるとされる組紐(くみひも)の技術です。糸の両端に重りをつけて常に張りを保ちながら幾本もの糸を交差させていく技法で、複雑で緻密な文様を持つ紐を編み上げます。金糸・銀糸や草木染めの正絹糸を用いた美しい仕上がりが特徴で、かつては武士の甲冑の緒や刀の下げ緒として使われてきました。現在の産地としての歩みは大正11年(1922年)、初代渡辺浅市が東京・錦糸町での組紐修業を終えて間々田に帰郷し店を開いたことに始まります。1954年には民藝運動の柳宗悦がこの技術を「間々田紐」と命名し、1964年に小山市無形文化財、1973年に栃木県無形文化財に指定されました。渡辺家が代々技術を継承し、現在は帯締めや羽織紐、ループタイなどの和装小物・雑貨として親しまれています。

岩手ホームスパン
織物岩手

岩手ホームスパン

Iwate Homespun

岩手ホームスパンは、羊毛を手で紡いだ糸を手織りで仕上げる毛織物です。明治14年(1881年)頃、二戸地方に緬羊が導入された際、駐在していた英国人宣教師が織り方を指導したのが始まりと伝えられています。その後、旧東和町(現・花巻市)の梅原乙子・五郎親子が事業として発展させ、盛岡の「みちのくあかね会」や「日本ホームスパン」など複数の工房・企業に技術が広まりました。手紡ぎならではの弾力性としわになりにくい風合い、軽やかな着心地が特徴で、植物染料による落ち着いた色合いも魅力です。手紡ぎによる生産が今も続く産地は全国でも岩手だけといわれ、ストールやマフラーなどの製品が親子三代にわたって使えるほど丈夫な布として親しまれています。

岩谷堂箪笥
木工岩手

岩谷堂箪笥

Iwayado Tansu

岩谷堂箪笥は岩手県奥州市江刺の岩谷堂地区で作られる伝統的な木製箪笥です。起源は天明年間(1781〜1788年)に遡り、当時の岩谷堂城主が家臣に車付箪笥や長持といった木工家具の商品化を研究させたのが始まりと伝えられています。文政年間(1818〜1830年)には鍛冶職人・徳兵衛が彫金金具を考案し、これが岩谷堂箪笥の原型となりました。欅や桐を素材に、木目を生かした重厚な漆塗りと、手打ち・手彫りによる華麗な金具の組み合わせが最大の特徴で、1982年に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。木地・塗り・金具の分業による丁寧な手仕事が今も受け継がれています。

郷原漆器
漆器岡山

郷原漆器

Gobara Shikki

郷原漆器は、岡山県真庭市蒜山(旧・郷原地区)に伝わる生活漆器です。起源は明徳年間(1390〜1400年頃)にさかのぼるとされ、蒜山高原に自生するクリ材を、伐採した生木のまま轆轤(ろくろ)で挽いて木地を作るという、他の漆器産地には見られない独特の製法で知られます。木目の美しさを生かしながら備中漆などの天然漆で仕上げた椀や盆は、飾るためではなく日々使うための道具として、地域の暮らしに寄り添ってきました。大正末期から昭和初期にかけて生産のピークを迎えましたが、第二次世界大戦を機に一時途絶。平成元年(1989年)から地元有志による復活の取り組みが始まり、平成8年(1996年)には岡山県指定重要無形民俗文化財に指定されました。現在は「郷原漆器の館」を拠点に、600年余り続く生木ロクロ挽きの技が受け継がれています。

結城桐箪笥
木工茨城

結城桐箪笥

Yuki Paulownia Chest

結城桐箪笥は茨城県結城市で作られる桐材の箪笥で、室町時代末期に領主・結城家の御殿調度品として欅(けやき)を用いた箪笥づくりが行われていたことに遡るとされる。結城家が領内に桐を植栽していたことから、通気性がよく燃えにくい桐材の特性が衣類収納に適しているとして、江戸時代後期以降は桐箪笥づくりが広まった。桐は湿度が高いと膨張して密閉性を高め、乾燥すると収縮して通気を良くする性質を持ち、着物や貴重品をカビや虫食いから守る収納具として重宝されてきた。昭和33年(1958年)には茨城県の特産物に指定され、結城市は現在も全国8大産地の一つに数えられている。女児の誕生時に桐を植えれば嫁入りの頃に箪笥が仕立てられるといわれ、婚礼調度品としても親しまれてきた。

結城紬
織物栃木・茨城

結城紬

Yuki-tsumugi

結城紬は現在の茨城県結城市を中心に、鬼怒川を挟んだ栃木県小山市一帯にかけて織り継がれてきた絹織物である。原型は奈良時代に常陸国から朝廷へ献上された「絁(あしぎぬ)」とされ、鎌倉時代には見た目が質素で丈夫なことから関東の武士に好まれて結城地方が生産の中心となり、室町時代には「結城紬」の名で幕府へ献上される特産品として知られるようになった。慶長年間(1596〜1615年)には代官・伊奈忠次による改良振興を経て技法が確立し、1977年3月30日に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、2010年にはユネスコ無形文化遺産にも登録された。最大の特徴は、真綿を手でつむいだほぼ無撚りの糸を、経糸を織り手の腰に結わえて体全体で織る「地機(いざり機)」の技法にあり、生糸で織った反物より軽く、絣模様の細やかさとともに独特のやわらかな着心地を生み出している。

江戸指物
木工東京

江戸指物

Edo Sashimono

江戸指物は東京都台東区・荒川区・江東区などで作られる木工品で、釘を一切使わず、木材の接合部を刻んで組み合わせる「指物」の技法によって家具や小物を作り上げる伝統工芸品である。指物の歴史自体は平安時代の京都までさかのぼるが、江戸に伝わった技術は17〜19世紀の江戸の経済・文化の発展とともに独自の発展を遂げた。武家の調度品として重厚で直線的な意匠のものが作られる一方、歌舞伎役者向けの「梨園指物」や町人向けの指物では遊び心を感じさせる粋で繊細な意匠が生まれ、次第に庶民の暮らしにも浸透していった。クワ・ケヤキ・キリ・スギなど天然の木地の木目を活かし、金具の使用を最小限に抑えた簡素な意匠が特徴で、矧接(はぎつぎ)・ほぞ接ぎ・相欠き接ぎなど多様な木組みの技法によって釘を使わずとも堅牢な作りを実現する。桐たんすをはじめ、何十年も大切に使い続けられる工芸品として今も職人の手仕事が受け継がれている。1997年(平成9年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となった。

江戸硝子
ガラス東京

江戸硝子

Edo Glass

江戸硝子は、旧江戸地域(現在の東京)で発展した技術を受け継ぎ、職人がひとつひとつ手作りで仕上げるガラス製品の総称である。18世紀初め、日本橋通塩町の加賀屋(皆川)久兵衛が鏡や眼鏡を、浅草の上総屋留三郎が簪や風鈴を製作したのが始まりとされ、19世紀末には東京を代表する産業のひとつへと発展した。江戸切子がカットガラスによる装飾を特徴とするのに対し、江戸硝子は型を使わず吹き竿とガラス種だけで成形する「宙吹き」や、型に息を吹き込んで成形する「型吹き」による無地の器物が中心で、素朴で温かみのある風合いが持ち味である。コップやガラス鉢、金魚鉢、江戸風鈴など暮らしに根差した日用品を多く生み出してきたほか、海外の大量生産品とは異なり多品種少量生産に対応できることから、ワイングラスや酒器などのオーダーメイド品でも高く評価されている。2002年に東京都の伝統工芸品、2014年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も墨田区・江東区・江戸川区を中心に多くの町工場的な硝子工房がその技を継承している。

江戸切子
ガラス東京

江戸切子

Edo Kiriko

江戸切子は、ガラスの表面に細かい文様を刻んで作る江戸生まれのカットガラス工芸である。1834年(天保5年)、江戸大伝馬町のびいどろ屋・加賀屋久兵衛が金剛砂を用いてガラス表面に彫刻を施したのが始まりと伝わる。明治期には政府が招いた英国人技術者エマニュエル・ホープトマンの指導を受け、現在に伝わるカット技法が確立された。透明なガラスに薄く色ガラスを被せた「色被せガラス」を用い、そこに刃物を当てて文様を彫り出すのが特徴で、色ガラスの層が約1ミリと薄いため、カットの境目がくっきりとシャープに際立つ。魚子(ななこ)、菊つなぎ、麻の葉、矢来など約20種の伝統文様があり、切り込みが光を受けてきらめく繊細な輝きが魅力である。同じ切子文化として知られる薩摩切子は色ガラスの層が厚くグラデーションを帯びるのに対し、江戸切子はシャープな切れ味が持ち味とされる。1985年に東京都の伝統工芸品、2002年に国の伝統的工芸品に指定され、現在は江東区・江戸川区・墨田区を中心に多くの職人が技を受け継いでいる。

江戸木目込人形
木工東京

江戸木目込人形

Edo Kimekomi Ningyo

江戸木目込人形は、桐塑(とうそ、桐の粉末と正麩糊を練った素材)や木で作った人形の原型に細い溝を彫り込み、そこに衣裳となる布地の端を「きめこむ」ように押し込んで着せる独特の技法で作られる人形である。起源は元文年間(1736〜1741年)の京都にさかのぼり、上賀茂神社の神官に仕えた高橋忠重が、柳の木で人形の原型を彫って神官の装束の端切れを木目込んで作ったのが始まりとされ、「柳人形」や「賀茂人形」と呼ばれた。この技法が江戸に伝わり、明治以降の東京で独自の発展を遂げて「江戸木目込人形」として定着した。京都産の人形が王朝風のふくよかな顔立ちを特徴とするのに対し、東京産はやや細面で目鼻立ちのはっきりした現代的な顔立ちが特徴とされる。桐塑製の素地に幾重にも上塗りを施し、溝に布を木目込み、面相筆で顔を描いて毛を仕上げるまで、多くの手仕事を経て一体の人形が完成する。雛人形や五月人形として今も広く親しまれ、1978年(昭和53年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となった。

江戸簾
木工東京

江戸簾

Edo Sudare

江戸簾は東京都台東区・港区などで作られる、竹やヨシなど天然素材を糸で編み上げて作るすだれの伝統工芸品である。簾の歴史は古く、7〜8世紀に編まれた日本最古の和歌集「万葉集」にもその記述が見られ、平安時代には宮廷や貴族の屋敷、神社仏閣で間仕切りや日よけとして用いられてきた。江戸時代に入ると町の発展とともに庶民の暮らしにも普及し、元禄期の書物には御簾師と呼ばれるすだれ専門の職人の存在も記されている。京都の豪華な京簾に対し、江戸簾は庶民の生活道具として使い勝手やシンプルなデザインを重視し、竹・ヨシ・ハギ・ガマなど天然素材の風合いをそのまま生かしているのが特徴である。細かく割いたり薄くへいだりした竹ひごを、1本編みや2本編み、もじり編み、亀甲編みなど多様な編み方で編み上げ、通気性に優れ心地よい風を運ぶ室内空間を作り出す。1983年(昭和58年)に東京都指定の伝統工芸品となった。

高岡漆器
漆器富山

高岡漆器

Takaoka-shikki

高岡漆器は富山県高岡市で生産される漆器で、江戸時代初期の慶長年間、加賀藩二代藩主・前田利長が高岡城を築いた際、武具や箪笥、膳など日常生活の道具に漆を塗らせたことに始まるとされる。以降、明和年間に辻屋丹甫が中国漆器を模した堆朱・存星の技法を確立し、富山藩主・前田正甫が京都から招いた名工・杣田清輔の技を土台に「青貝塗(螺鈿)」が発展、さらに江戸末期には初代石井勇助が中国明代の漆器を研究して独自の「勇助塗」を生み出すなど、他産地に比べて多彩な加飾技法を併せ持つ点が最大の特徴となっている。1891年に富山県工芸学校が設立されて技術指導が進んだこともあり、盆や重箱、茶道具といった暮らしの道具から美術工芸品まで幅広く手がけられてきた。1975年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定され、現在も高岡市内の工房で伝統技法が受け継がれている。

高岡銅器
金工富山

高岡銅器

Takaoka-doki

高岡銅器は富山県高岡市を中心に生産される鋳物工芸で、日本国内の銅器生産の大部分を占める一大産地として知られる。起源は1611年(慶長16年)、加賀藩二代藩主・前田利長が高岡城下の産業振興のため、砺波地方などから7人の鋳物師を金屋町に招いたことにさかのぼる。当初は鍋や農具などの日用鉄器が中心だったが、江戸後期に銅器生産へと展開し、仏具や梵鐘、美術工芸品づくりへと発展した。1867年のパリ万国博覧会に出品されて高い評価を得たことを契機に、明治・大正期には生産量が飛躍的に拡大し、国内外に高岡の名を知らしめた。最大の特徴は、双型・焼型・蝋型・生型といった多様な鋳造技法に、毛彫りや透かし彫りなどの彫金、鉄漿色や青銅色などを発色させる着色技法を組み合わせる総合力にあり、小さな置物から寺院の梵鐘、屋外の大型モニュメントまで幅広く手がけられる。1975年に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定され、現在は仏具から現代アート、生活雑貨まで幅広い製品が作られている。

高岡仏壇
木工富山

高岡仏壇

Takaoka Butsudan

高岡仏壇は富山県高岡市で製造される仏壇で、高岡銅器・高岡漆器を育んできた同地の金工・漆芸の技術を仏壇づくりに応用した総合工芸である。慶長時代には指物師による漆塗り家具製造の記録が残り、これが仏壇づくりの源流になったと考えられている。遅くとも幕末には仏壇製造が産業として形成され、1846年(弘化3年)頃に作られた仏壇は現在の高岡仏壇の様式とほぼ同じであったといわれる。木地屋・彫刻屋・塗師屋・蒔絵屋・金具師による分業体制で作られるのが特徴で、イチョウやクサマキなどの木材を用いた木地に立体感のある木彫を施し、下地を丁寧に整えた漆を幾重にも塗り重ね、煮出しの着色によって赤みを帯びた手打ちの厚地金具で仕上げる。高岡銅器の彫金技術が装飾面の発展を支えたとされ、2013年(平成25年)に富山県指定伝統工芸品となった。

高山茶筌
木工奈良

高山茶筌

Takayama Chasen

高山茶筌は奈良県生駒市高山町で作られる茶道用の竹製茶筌で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。室町時代、高山城主の子・高山民部丞入道宗砌が、茶道の祖とされる村田珠光の依頼を受けて創案したのが起源と伝わります。以来500年以上にわたり一子相伝で製法が受け継がれ、現在では日本国内で流通する茶筌の大部分を生駒市高山町で生産しているといわれるほど、全国でも数少ない茶筌の産地として知られています。素材には淡竹(はちく)を中心に黒竹や煤竹も用いられ、竹を割り、穂先を薄く削り、糸で編み上げるまでの工程をすべて職人の手作業でおこないます。流派や用途によって形状や穂の数が異なり、その種類は100を超えるとされ、繊細な美しさと実用性を兼ね備えた道具として、茶道具の中でも特に重んじられています。

黒羽藍染
染物栃木

黒羽藍染

Kurobane Aizome

黒羽藍染は栃木県大田原市黒羽地区に伝わる藍染で、文化・文政年間(1804〜1829年頃)に初代・紺屋新兵衛が黒羽の地に藍甕を埋め込み紺染めを始めたのが起源と伝わる。徳島産のすくもにふすまや石灰、日本酒などを加えて藍甕の中でさらに発酵させた液で布を染める伝統的な技法を用い、松の根を燃やして作る松煙墨と大豆汁による下染め「紺染め」を組み合わせることで、色あせしにくい深く濃い藍色に染め上がるのが特徴である。約200年にわたり藍甕を守り続けてきた「黒羽藍染紺屋」が現在もこの技術を継承する唯一の店として知られ、栃木県指定伝統工芸品にも指定されている。黒羽は俳人・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で13泊14日間という最長の逗留をした地としても知られ、江戸時代から続く商家町の面影とともに藍染の文化が息づいている。

作州絣
織物岡山

作州絣

Sakushu Kasuri

作州絣は岡山県津山市を中心とする美作地方に伝わる木綿絣の織物です。津山地方では古くから高級絹織物が織られていましたが、17世紀初め頃から綿花栽培が広まり、手つむぎの木綿糸を紺屋で藍染めした紺無地や縞物が庶民の衣服として織られるようになりました。明治初期には鳥取県の倉吉絣の影響を受けて木綿紺絣が普及しましたが、大量生産される他産地の織物に押されて生産・技術ともにほぼ途絶えかけた時期もありました。戦後、津山市の産業振興策の一環として作州絣が見直され、昭和30年頃には東京で人気を集め、最盛期には動力織・手織を合わせて年間三万反を生産するまでになりました。1981年には「手織作州絣」として岡山県郷土伝統的工芸品に指定されましたが、その後織り手が途絶える時期もあり、2012年に日名川茂美が正式な後継者として認定されたことで技術が再び受け継がれています。藍色に映える幾何学模様は、糸を紐で括って防染する「括り」の技術によって生み出されます。

児島デニム
織物岡山

児島デニム

Kojima Denim

児島デニムは岡山県倉敷市児島地区で作られるデニム生地・ジーンズの総称で、児島は「国産ジーンズ発祥の地」として知られています。江戸時代、遠浅の海を干拓して生まれた児島の土地では塩分に強い綿花の栽培が盛んになり、綿織物業を基盤として小倉織や真田紐づくりが発達しました。明治・大正期には足袋や学生服の産地として発展し、この繊維産業の技術とノウハウが、後のデニム・ジーンズ産業へと受け継がれていきます。1965年、マルオ被服(現ビッグジョン)の尾﨑小太郎がアメリカから輸入したデニム生地を使い、学生服づくりの縫製技術を応用して日本初の国産ジーンズを製造・販売しました。1973年には倉敷紡績が国産デニム生地の生産に成功し、児島は糸から生地、縫製、洗い加工までを一貫して手がけられる産地として発展しました。現在、児島駅から続く「児島ジーンズストリート」には約40店のジーンズ専門店が軒を連ね、国内外から多くの人が訪れる観光名所になっています。

鹿沼組子
木工栃木

鹿沼組子

Kanuma Kumiko

鹿沼組子は、「木工のまち鹿沼」として知られる栃木県鹿沼市を代表する木工細工です。日光東照宮の造営に全国から集まった木工職人たちがこの地にとどまり、良質な日光杉などを用いて障子の格子を美しく飾ったことが起源とされ、約400年にわたって受け継がれてきました。木曽檜や秋田杉、日光杉といった木材を細かく加工し、釘や金具を一切使わずに職人の手作業だけで組み合わせることで、麻の葉・胡麻柄・亀甲といった幾何学文様を精緻に描き出します。伝統的には書院障子や欄間、仏壇などの建具に用いられてきましたが、近年ではコースターや花器、照明などのインテリア雑貨にも展開され、幅広い世代に親しまれています。栃木県の伝統工芸品に指定されているほか、鹿沼市独自の「かぬまブランド」にも認定されており、地域を代表する工芸品として発信が続けられています。

秀衡塗
漆器岩手

秀衡塗

Hidehira-nuri

秀衡塗は岩手県平泉町を中心に作られる漆器で、平安時代末期に奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡が京都から職人を招き、平泉特産の漆と金を使って器を作らせたのが起源と伝えられています。中尊寺金色堂には漆・金箔・蒔絵・螺鈿といった多彩な漆芸技術が用いられており、平安期の平泉が高度な漆工技術を有していたことがうかがえます。最大の特徴は、菱形に切った金箔を貼り、その上から漆絵で草花文様を描く「秀衡文様」で、雲を表す「源氏雲」と菱形を組み合わせた「有職菱文様」が椀や重箱などに施されます。素朴でありながら金の輝きをまとった華やかな意匠は、他産地の漆器にはない独自の様式として今日まで受け継がれています。

小久慈焼
陶器岩手

小久慈焼

Kokuji-yaki

小久慈焼は岩手県久慈市小久慈町で焼かれる陶器です。1813年(文化10年)、相馬(現・福島県)の陶工・嘉蔵が、地元の甚六の助けを得て三日町に窯を築いたのが始まりと伝えられ、その後甚六の子・熊谷甚右衛門が嘉蔵に師事して技法を受け継ぎ、以後熊谷家によって代々受け継がれてきました。創始以来一つの窯元のみで作陶が続けられており、江戸時代以前から続く窯元としては日本最北に位置します。地元産の粘土を使い、わら灰による素朴な白釉(糠白釉)と、砂鉄を用いた飴釉を基調とした日用の器づくりが特徴で、明治期には民藝運動を提唱した柳宗悦にも高く評価されました。

小砂焼
陶器栃木

小砂焼

Kosunago-yaki

小砂焼は、栃木県那須郡那珂川町小砂で焼かれる陶器です。江戸時代末期、天保元年(1830年)頃に水戸藩主・徳川斉昭がこの地の良質な陶土を発見し、水戸藩営御用製陶所の原料として用いたのが興りと伝えられています。越中富山から来た陶工・初代半平(斎藤栄三郎)が、志鳥村(現・那須烏山市)から小砂村の庄屋藤田家に招かれて登り窯を築いたのが産地としての始まりです。金色を帯びた黄色に輝く「金結晶」釉と、ほんのりとした桃色を呈する「辰砂」釉が代表的な特徴で、カオリンを多く含む小砂の陶土から陶器と磁器両方の性質を併せ持つ独特の風合いが生まれます。現在も藤田製陶所や市川窯など地域の窯元が伝統を継承しており、小砂地区は2013年に「日本で最も美しい村」連合に栃木県内で初めて加盟しました。

小樽ガラス
ガラス北海道

小樽ガラス

Otaru Glass

小樽ガラスは、北海道小樽市で発展したガラス工芸の総称です。始まりは1901年、九州から北海道に渡った浅原久吉が小樽で創業した浅原硝子による石油ランプの製造でした。1910年からは漁業用の浮き玉の製造も始まり、小樽・室蘭・旭川・釧路・樺太にまで工場を広げるほどの規模に発展しました。しかし電気や石油ストーブの普及でランプが衰退し、浮き玉もガラス製からプラスチック製へと移行したことで、小樽のガラス製造業者は1960年には浅原硝子一社のみとなりました。1971年、浅原硝子は社名を北一硝子に改め、かつて生活必需品だった石油ランプをあえて店頭に並べたところ、旅行者の間でインテリアとして評判となり、産業用ガラスから工芸品・生活雑貨としてのガラスへと転換を遂げました。現在は北一硝子や大正硝子など複数の工房・ショップが小樽運河周辺に集積し、吹きガラス体験ができる観光地としても知られています。

小田原ちょうちん
木工神奈川

小田原ちょうちん

Odawara Chochin

小田原ちょうちんは、神奈川県小田原市に伝わる提灯で、江戸時代中ごろに地元の提灯職人・甚左衛門が箱根越えをする旅人のために考案したと伝えられています。通常の提灯と異なり、胴の中骨が一本のリング状に独立しているため、たたむと胴体部分が上下の蓋の中にすっぽりと収まり、懐にしまえるほど小さく携帯できるのが最大の特徴です。竹ひごを四角形に削って糊付け面を増やしているため雨や霧に強く、上下の蓋には大雄山最乗寺の霊木が使われ道中の魔除けになるとも信じられました。これら携帯性・耐久性・魔除けという3つの長所は「三得」として宣伝され、江戸時代には東海道を行き交う旅人の土産物として全国に知られるようになりました。現在は市内で伝統の技法を守る提灯店がわずかに残り、体験教室などを通じて技術の継承が図られています。

小田原漆器
漆器神奈川

小田原漆器

Odawara Shikki

小田原漆器は、木地の美しい木目をそのまま生かして仕上げる神奈川県小田原市の伝統的工芸品です。室町時代中期、箱根山系で切り出したケヤキなどの木材をろくろで挽いて器物を作り、生漆を摺り込むように塗ったのが始まりとされます。戦国時代には北条氏康が塗師を城下に招いて彩漆塗の技法を導入し、江戸時代には東海道の宿場町として栄えた小田原で、日用品から武具の部材まで製造範囲を広げながら発展しました。木地の木目を消さずに漆を薄く塗り重ねる「摺漆塗」と、錆漆で下地を作る「木地呂塗」の2つの技法を特徴とし、丈夫でゆがみが少ないケヤキ材の器が多く作られています。1984年には国の伝統的工芸品に指定されました。

小田原鋳物
金工神奈川

小田原鋳物

Odawara Imono

小田原鋳物は、神奈川県小田原市に伝わる金属工芸で、室町時代末期の1534年(天文3年)、河内から来住した山田治郎左衛門が鋳物業を開いたことに始まるとされます。江戸時代の1702年(元禄15年)には柏木家が鋳物業を興し、銅とスズを独自の比率で配合した合金「砂張(さはり)」を用いた鳴物づくりで名を高めました。現在では風鈴やおりん(仏具の鈴)、振鈴など、澄んだ余韻の長い音色を持つ「鳴物」が主力製品となっており、小田原に唯一残る鋳物工房・柏木美術鋳物研究所がその伝統を今に伝えています。同工房は黒澤明監督の映画『赤ひげ』で使用された御殿風鈴を手がけたことでも知られ、工房内の「砂張ギャラリー鳴物館」で風鈴やおりんなどの製品を展示・販売するとともに、近年は箱根寄木細工とのコラボレーション商品にも取り組んでいます。

庄川挽物木地
木工富山

庄川挽物木地

Shogawa Hikimono Kiji

庄川挽物木地は富山県砺波市庄川町を中心に作られる木工品で、ろくろで木材を挽いて盆・鉢・椀などの木地を仕上げる伝統工芸である。1866年(慶応2年)、魚津の木地師・越後屋清次が庄川の流木事業で集まる豊富な木材を求めて金屋(現・砺波市庄川町)に移り住み、ろくろ挽物の仕事を始めたのが起源とされる。明治期には青島貯木場に木材が集積し、周辺は製材所や木工所が建ち並ぶ木材の一大集積地へと発展した。木目の美しさを最大限に生かすため木を横方向に挽く技法が特徴で、使い込むほどに艶と味わいが増す。トチやケヤキなど国産材を用い、からかさ鉋や薄刃といった職人自作の道具で仕上げられる。1978年(昭和53年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品となり、現在も庄川木工挽物会に属する職人たちが技術を受け継いでいる。

常陸獅子
木工茨城

常陸獅子

Hitachi Jishi

常陸獅子は茨城県石岡市に伝わる獅子頭で、角を持たず、太く力強い眉と勇壮な表情を特徴とする。石岡の獅子舞に関する最古の記録は江戸末期の1854年(安政元年)の文書に見られ、当初は僧侶が経を唱えながら町を練り歩き悪魔祓いを行う「行道」の獅子として発展したと伝わる。近代以降、地域最大の祭礼である常陸国総社宮例大祭(石岡のおまつり)に各町内の獅子が一堂に会するようになり、獅子頭作りの需要とともに技術が磨かれてきた。現代の職人による製作では、地元産の桐材を木地に用い、耳・眉・目・鼻・上下顎などを部位ごとに彫り出して組み合わせ、本漆と純金箔で仕上げるのが特徴。石岡市内には獅子頭の制作技術を教える教室や工房があり、飾り獅子として購入することもできる、全国的にも珍しい「生きた」郷土工芸である。

浄法寺塗
漆器岩手

浄法寺塗

Joboji-nuri

浄法寺塗は岩手県二戸市浄法寺町を中心に作られる実用漆器です。神亀5年(728年)に行基が同地に天台寺を建立した際、中央から派遣された僧侶たちが自らの什器を作るために漆工技術を持ち込んだのが始まりと伝えられ、装飾を抑えた素朴で質実な器が「御山御器」の名で藩政期には南部藩の産物として広まりました。二戸市浄法寺町一帯は国産漆の生産量日本一を誇る産地で、国産漆のおよそ7割から8割がこの地域で採取されています。地元産の漆をふんだんに用い、朱・黒・溜を基調とした無地の塗りは使うほどに艶を増すのが特徴で、日常の食器としての実用性を重視した器づくりが今も受け継がれています。

真壁石燈籠
石工茨城

真壁石燈籠

Makabe Stone Lantern

真壁石燈籠は茨城県桜川市真壁町周辺で切り出される良質な花崗岩「真壁石」を用いて作られる石燈籠で、起源は16世紀頃に真壁の地で仏石づくりが始まったことに遡るとされる。真壁町内の寺院境内には文政7年(1824年)製作とみられる石燈籠が現存し、江戸時代末期の石工・久保田吉兵衛を祖として厳しい師弟相伝により技法が確立された。切り出しから仕上げまで18の技法を駆使し、突彫りや沈め彫り、透かし彫りなど繊細な彫刻を施すのが特徴で、1995年(平成7年)4月5日には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された。県内では結城紬、笠間焼に次ぐ3番目の指定品目であり、桜川市真壁地区は愛知県岡崎、香川県庵治と並ぶ石材三大産地の一つに数えられている。

水府提灯
和紙茨城

水府提灯

Suifu Chochin

水府提灯は茨城県水戸市に伝わる提灯で、江戸時代の水戸の異称「水府」を冠する。約400年前、財政難に苦しむ水戸藩の下級武士が内職として提灯づくりを始めたのが起源とされ、藩が特産品として奨励したことで発展した。最大の特徴は、輪にした篠竹に糸を一本ずつからめて補強する「一本掛け」という独自の製法で、丈夫で長持ちする提灯に仕上がる。近郊で漉かれる丈夫な和紙「西ノ内紙」を張ることも特徴の一つで、現在も岐阜・八女と並ぶ日本三大提灯産地の一つに数えられている。最盛期には水戸市内に30軒以上あった工房は近年数軒にまで減ったが、蔭山利兵衛商店や青野商店など老舗が伝統技法を今に伝え、祭礼用の提灯から観光客向けの体験まで幅広く手がけている。

西ノ内紙
和紙茨城

西ノ内紙

Nishinouchi Washi

西ノ内紙は茨城県常陸大宮市(旧山方町西野内)を中心に漉かれる手漉き和紙で、ミツマタやガンピを混ぜずコウゾのみを原料とする点に特徴がある。原料には常陸大宮市や大子町周辺で栽培される「那須楮」を用い、昼夜の寒暖差により絹に例えられるほど適度な太さと長さの繊維が育つとされる。江戸時代には水戸藩の紙専売仕法(1688年)により藩が全量を買い上げる重要産業となり、強靭さと保存性の高さから江戸の商家では大福帳にも用いられた。1971年(昭和46年)12月2日には茨城県の無形文化財(工芸技術)に指定され、現在も少数の漉き手により伝統の技が受け継がれている。

赤膚焼
陶器奈良

赤膚焼

Akahada-yaki

赤膚焼は奈良市西部から大和郡山市にかけて焼かれる陶器で、乳白色を帯びた柔らかな肌合いの釉薬と、御所人形風の絵柄を描く「奈良絵」の意匠で知られています。桃山時代、大和郡山城主で豊臣秀吉の弟にあたる豊臣秀長が、尾張国常滑の陶工を招いて五条山(赤膚山)に窯を開かせたのが始まりと伝えられていますが、この時期を裏付ける確かな史料や遺物は確認されていません。江戸時代後期には郡山藩主・柳沢家の御用窯となって保護奨励を受け、「遠州七窯」のひとつに数えられるようになりました。幕末には名工・奥田木白が卓越した陶技を駆使して赤膚焼を再興し、奈良絵をはじめとする多彩な作品を生み出したことから、赤膚焼中興の祖と称されています。現在も大和郡山市と奈良市にまたがる複数の窯元が、それぞれの解釈による釉薬や絵付けで独自の作風を受け継いでいます。

雪村うちわ
木工茨城

雪村うちわ

Sesson Uchiwa

雪村うちわは茨城県常陸太田市に伝わる茨城県郷土工芸品指定のうちわで、室町時代に同地に滞在した画僧・雪村周継が水墨画を描いたうちわを配ったことに始まると伝えられる。地元産の真竹を細く裂いた骨にい草を交差させて編み、常陸大宮市で漉かれる丈夫な和紙「西ノ内紙」を貼って仕上げる。図柄には馬や朝顔、案山子、水戸八景など雪村ゆかりの山水花鳥画が用いられ、水戸藩2代藩主・徳川光圀も愛用したと伝えられている。伐採から仕上げまで33にも及ぶ全工程を手作業で行うため、年間の製造数は2,000本ほどにとどまる。江戸時代から200年以上にわたり一軒の店が家業として技を受け継いでおり、現在は4代目が唯一の担い手として制作を続けている。

倉敷帆布
織物岡山

倉敷帆布

Kurashiki Hanpu

倉敷帆布は岡山県倉敷市児島地区で作られる厚地の綿織物で、帆船の帆布として発展した歴史を持ちます。児島は江戸時代の干拓地で塩分に強い綿花の栽培が盛んになり、海の恵み「いかなご」「塩」の白と合わせて「児島三白」と呼ばれるほど綿産業が発達しました。播州高砂の工楽松右衛門が考案した太糸を用いる織機の技術が伝わったことで、丈夫で厚みのある帆布づくりの土台が築かれたとされます。近代の倉敷帆布の直接のルーツは1888年、武鑓石五郎・梅夫婦が倉敷で創業した織物工場に遡り、梅の手織りの技が地元の木綿問屋の間で評判となったことから事業が拡大していきました。現在は綿100%の原糸数本を撚り合わせる糸撚りの技術と、旧式のシャトル織機によって、極厚の1〜3号帆布まで織り上げられる稀少な産地となっています。シャトル織機ならではの美しい「耳(セルヴィッジ)」と、凹凸のある温かみのある風合いが特徴で、現在はバッグや雑貨など日用品としての用途が広がっています。

倉敷緞通
織物岡山

倉敷緞通

Kurashiki Dantsu

倉敷緞通は岡山県倉敷市で織られる手織りの敷物で、い草と和紙、麻や綿の糸を組み合わせて織り上げる点が特徴です。倉敷は江戸時代から畳表や花ござの産地として知られ、昭和初期に早島町の発明家・矢吹貫一郎が洋風建築にも合う敷物として「金波織」を考案したのが始まりとされます。1932年、民芸運動家の柳宗悦がこの敷物を見出し、図案家の芹沢銈介に縞柄の意匠を依頼したうえで「倉敷緞通」と名付けました。戦後は手織りのまま最盛期を迎え海外にも輸出されるほどの人気を博しましたが、原材料費の高騰や職人の高齢化により1986年に生産が途絶えました。1991年発足の伝統産業復興研究会に加わった瀧山雄一氏が技術を独学で習得し直し、1993年に生産を再開。現在は瀧山氏がほぼ唯一の作り手として、倉敷市早高の工房で製作を続けています。

村山大島紬
織物東京

村山大島紬

Murayama Oshima Tsumugi

村山大島紬は、東京都武蔵村山市を中心に瑞穂町・昭島市周辺で織られてきた絣模様の絹織物である。江戸時代の元禄期(1688〜1704年)頃に始まった縞模様の木綿織物「村山紺絣」と、玉繭から紡いだ絹糸で織る「砂川太織り」という二つの織物文化を源流とし、明治中期以降の絹織物需要の高まりを受けて、大正9年(1920年)頃にこの二つが合流する形で絹織物としての村山大島紬が生まれた。名称に「大島」を冠するが、奄美大島で織られる本場大島紬とは全くの別物で、最大の違いは絣糸の染色技法にある。奄美の大島紬は締機(しめばた)を用いた泥染めなど手間のかかる技法で精緻な絣を生み出すのに対し、村山大島紬は1919年に群馬県伊勢崎から伝わった「板締め染色」という技法を用いる。文様を彫刻した型板の間に糸を挟んで締めつけながら染色することで、経糸と緯糸を寸分違わず柄合わせした精巧な絣模様を、比較的手頃な価格で実現できるのが特徴である。手触りが滑らかで軽く、男物は控えめで上品な細かい絣、女物はシックで年齢を問わず着られる意匠が持ち味とされる。1975年(昭和50年)に国の伝統的工芸品に指定された。

大山こま
木工神奈川

大山こま

Oyama Koma

大山こまは、神奈川県伊勢原市の大山山麓に伝わる木製の独楽(こま)で、江戸時代中期に盛んになった「大山詣り」の土産物として発展しました。地元でとれるミズキ材を木地師が轆轤(ろくろ)で挽き、白木の生地に朱・藍・紫の3色を鮮やかに塗り分けた回転模様が特徴です。太く長い心棒と丸みを帯びた重厚な形は、心棒に別の堅い木を挿し込む構造によって「けんかごま」として使っても壊れにくいよう工夫されており、「よく回る」ことから金運や商売繁盛を呼び込む縁起物として親しまれてきました。かつては参道沿いに多くの木地師・こま屋が軒を連ね、「こま参道」という通り名の由来にもなりましたが、生活様式の変化とともに担い手は減少し、現在は参道にわずかに残る店が伝統を守っています。2023年(令和5年)には「大山こまの製作技術」が国の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択されました。

虫明焼
陶器岡山

虫明焼

Mushiake-yaki

虫明焼は瀬戸内市邑久町虫明で焼かれる茶陶で、江戸時代中期に岡山藩筆頭家老・伊木氏が虫明に設けた御庭窯を起源とすると伝えられています。同じ岡山県を代表する備前焼が釉薬を用いない焼き締め技法を特徴とするのに対し、虫明焼は釉薬をかけた薄作りの端正な器形と、京都の作風を思わせる瀟洒な意匠を特徴としており、両者は同じ県内でも異なる系譜を歩んできました。江戸末期の1847年には伊木忠澄(三猿斎)が自ら御庭窯を開き、京都から清風与平や楽長造、宮川香山といった当代一流の陶工を招いたことで、京焼の粟田風に通じる薄手で瀟洒な作風が確立されました。現在も地元産の山土を用いた独自の粘土に、天然松灰を用いた透明釉や鉄釉・銅釉を掛け、酸化と還元を明確に分けない焼成によって生まれる窯変が味わいを添えています。1988年には岡山県指定郷土伝統的工芸品に指定され、瀬戸内海に面した風光明媚な虫明の地で、少数の窯元が伝統を受け継いでいます。

鳥越竹細工
木工岩手

鳥越竹細工

Torigoe Takezaiku

鳥越竹細工は、岩手県二戸郡一戸町の鳥越地区に伝わる竹細工です。県北の山地に自生する細くしなやかな笹の一種「南部鈴竹(すず竹)」を材料とし、内側から見ても外側から見ても美しく仕上がる「合わせ編み」の技法で編み上げるのが特徴です。起源は平安時代にさかのぼるとされ、鳥越に滞在していた慈覚大師が観音のお告げを受けて里人に竹細工を広めたという伝説が残っています。かごやざるなど日用の道具として長く親しまれてきましたが、近年は原料となるすず竹の大量枯死などにより担い手・生産量が減少しており、「鳥越竹細工 産地を守る会」が後継者の育成や産地のPRに取り組んでいます。

津軽こぎん刺し
織物青森

津軽こぎん刺し

Tsugaru Kogin-zashi

津軽こぎん刺しは、青森県弘前市を中心とする津軽地方に伝わる刺し子の技法です。江戸時代、津軽藩では農民の衣服は麻布に限られ木綿の着用が許されていなかったため、寒さの厳しい津軽の女性たちは野良着の麻布に木綿糸で目を刺し埋めることで、保温性と丈夫さを高める工夫を重ねました。縦の織り目を一・三・五と奇数目で数えながら幾何学模様を構成していく点が最大の特徴で、作られた地域によって大柄が特徴の「東こぎん」、横縞で模様を区切る「西こぎん」、太い三本縞が入る「三縞こぎん」の三系統に分かれます。明治以降、木綿が普及すると一時衰退しましたが、昭和初期の民藝運動の中でその造形美が再評価され、現在も弘前を中心に技術が受け継がれています。青森県を代表する刺し子文化として、菱形文様を特徴とする南部菱刺しとしばしば対比されます。

津軽びいどろ
ガラス青森

津軽びいどろ

Tsugaru Vidro

津軽びいどろは青森県青森市の北洋硝子が生み出すハンドメイドガラスの工芸品です。北洋硝子は昭和24年(1949年)、漁業用のガラス製浮き玉を製造する工場として創業し、丈夫な浮き玉づくりで培った「宙吹き」の技法で全国トップクラスの生産高を誇りました。しかしプラスチック製浮き玉の普及により需要が減少したことをきっかけに、職人たちは培った技術を活かして食器や花器づくりへの転換を進め、昭和52年(1977年)に「津軽びいどろ」が誕生しました。津軽の七里長浜の砂を原料に加えたところ深みのある緑色に発色したことから色ガラスづくりが本格化し、現在では100種類以上ともいわれる色ガラスを自社で調合しています。平成8年(1996年)3月には青森県から伝統工芸品の指定を受け、青森の自然を映すガラス工芸として国内外で親しまれています。

津軽系こけし
木工青森

津軽系こけし

Tsugaru-kei Kokeshi

津軽系こけしは、東北6県に伝わる伝統こけし11系統の一つで、青森県黒石市の温湯温泉を中心に大鰐町にも産地を広げています。大正時代の初め頃、温湯温泉の木地師・盛秀太郎が湯治客向けに作り始めたのが起こりとされ、大鰐町の長谷川辰雄とともにその礎を築きました。ほかの系統に比べ成立が新しい分、徒弟制度に縛られない自由な作風が育まれ、頭と胴を一本の木から作る「作りつけ」の技法や、裾が広くふくらんだ胴の形、津軽藩の家紋である牡丹文様やアイヌ模様、ねぶた絵の影響を受けた模様など、他の産地にはない個性的な意匠が特徴です。黒石市には1988年に津軽こけし館が開館し、津軽系こけし工人による製作実演や絵付け体験を通じて、今もその技と魅力が伝えられています。

津軽打刃物
金工青森

津軽打刃物

Tsugaru Uchihamono

津軽打刃物は、藩政時代の弘前城下に軒を連ねた刀鍛冶・農具鍛冶の技を起源とする鍛造刃物です。江戸初期の弘前には「鍛冶町」という町名が残るほど多くの鍛冶職人が集まり、刀や大砲づくりの技術が、時代とともに鎌や鍬、和包丁といった暮らしに根差した道具づくりへと受け継がれてきました。伝統的な「火造り」と「泥塗り」による焼き入れ技術で鍛えられた刃は、優れた切れ味と耐久性を兼ね備えています。青森県はりんごの一大産地であることから、剪定や摘果に用いる鋏やのこぎりも津軽打刃物の重要な製品となっており、弘前のりんご栽培を支える道具としても発展してきました。平成8年3月には青森県伝統工芸品に指定され、現在も鍛冶場では火造りから仕上げまで一貫した手仕事が続けられています。

津軽塗
漆器青森

津軽塗

Tsugaru-nuri

津軽塗は青森県弘前市を中心に作られる漆器で、青森県で唯一の経済産業大臣指定伝統的工芸品です。江戸時代中期、弘前藩四代藩主・津軽信政が産業育成のため若狭国から塗師・池田源兵衛を招いたことに始まり、その子・源太郎が江戸で青海波塗の技法を修め、津軽の地で独自の漆器を作り上げました。以来約300年の歴史の中で「唐塗」「七々子塗」「紋紗塗」「錦塗」という四つの技法が確立し、いずれも漆を幾重にも塗り重ねては研ぎ出す工程を繰り返すため、完成までに約50もの工程と長い年月を要します。その手間のかかりようから通称「馬鹿塗」とも呼ばれ、明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に出品されたことをきっかけに「津軽塗」の名が広く知られるようになりました。昭和50年(1975年)には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定され、現在も弘前市を中心に多くの職人が伝統の技を受け継いでいます。

津山箔合紙
和紙岡山

津山箔合紙

Tsuyama Hakuaishi

津山箔合紙は、岡山県津山市横野地区(上横野・下横野)で作られている三椏(みつまた)を原料とした手漉き和紙です。薄くかさばらないのに強く、表面がなめらかで金箔・銀箔を傷つけないことから、金箔工芸に欠かせない「箔合紙」として京都や金沢の金箔職人たちに愛用されてきました。やや赤みを帯びた光沢のある紙肌が特徴で、古文書の修復や、ドイツ・カナダなど海外での銅版画・エッチング用紙としても用いられています。原料の三椏は美作地方の特産で、財務省印刷局に紙幣原料として納められる「局納ミツマタ」の産地としても知られます。昭和56年(1981年)1月に岡山県の伝統的工芸品に指定されましたが、現在この津山箔合紙を漉いているのは全国でただ一軒、横野地区の上田手漉和紙工場(横野和紙工房)のみとなっており、貴重な手仕事が続けられています。

天明鋳物
金工栃木

天明鋳物

Temmyo Imono

天明鋳物は、栃木県佐野市に伝わる鋳物の伝統技術です。伝承によれば天慶年間(938〜947年)、河内国から移住した5人の鋳物師が藤原秀郷の命により兵器類を鋳造したのが始まりとされ、現存する鋳物産地としては国内最古級、千年以上の歴史を持つといわれています。鎌倉時代末期には雑炊釜や湯沸かしなど日用の鋳物釜の生産が盛んになり、茶の湯の流行とともに素朴で野趣に富んだ肌合いの茶釜が茶人に愛され、福岡の芦屋釜と並んで「西の芦屋、東の天明」と称されました。千利休や織田信長、豊臣秀吉も天明の茶釜を愛用したと伝えられます。現在も佐野市内の鋳物師が江戸時代さながらの砂型鋳造技法を守り、風鈴や茶釜、梵鐘などを一つひとつ手作業で仕上げています。2024年3月には「佐野の天明鋳物生産用具及び製品」が国の重要有形民俗文化財に指定され、その価値が改めて注目されています。

東京くみひも
織物東京

東京くみひも

Tokyo Kumihimo

東京くみひもは東京都台東区・杉並区・北区などで作られる絹糸を主素材とした組紐で、丸台・角台・綾竹台・高台といった専用の組台を用いて糸を編み組み上げる伝統工芸品である。起源は仏教伝来とともに伝わった経巻や袈裟の紐、貴族の礼服に添える帯にさかのぼり、武家社会では鎧兜のおどし糸や刀の下緒として実用性と美しさを兼ね備えた組み方が発達した。公家文化を背景に華やかな京くみひもに対し、東京くみひもは武家社会と江戸町人文化の影響を受け、主張し過ぎない渋みのある色合いと堅牢な組み目を特徴とする。江戸時代後期から明治以降は帯締めや羽織紐など庶民の装いに広く用いられるようになり、1652年創業の老舗「道明」をはじめとする組紐処が今もその技を受け継いでいる。現在は帯締めのほか、ネクタイやアクセサリーなど現代の暮らしに合わせた製品も作られている。

東京銀器
金工東京

東京銀器

Tokyo Ginki

東京銀器は東京都台東区・荒川区・文京区などで作られる銀製の工芸品で、鍛金・彫金・切嵌・鑞付けといった伝統技法により茶道具や装身具、酒器などが作られている。日本における銀製品の歴史は古く、平安時代の法典「延喜式」にはすでに銀製の食器や酒器の記録が見える。江戸時代中期になると経済力をつけた町人の間で銀製品が広く用いられるようになり、飾り職人や銀師(しろがねし)と呼ばれる専門の職人が育っていった。明治以降は西洋の精練技術も取り入れられ、1867年のパリ万博では日本の銀器の完成度の高さが海外の専門家を驚かせたと伝えられる。純度1,000分の925以上の銀を用い、金鎚で叩いて模様を打ち出す槌目や、岩石目・ゴザ目など独特の質感を生み出す技法が特徴で、使い込むほどに手になじむ道具として今も茶道具やアクセサリーなど幅広く愛用されている。1979年(昭和54年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となった。

東京染小紋
染物東京

東京染小紋

Tokyo Some Komon

東京染小紋は、伊勢型紙と呼ばれる精緻な型紙を用い、一色の色糊で極小の柄を染め上げる江戸生まれの型染め技法である。小紋そのものの発達は室町時代にさかのぼるとされるが、江戸時代初期になると、諸大名家が江戸屋敷で着用する裃(かみしも)に、家ごとに定めた細かな柄を染めるようになったことから発展した。江戸には全国の大名家が集まったため小紋の需要が大きく高まり、やがて武士の裃柄が庶民の間にも広まって、江戸時代中頃からは町人文化の中で親しまれる染物として花開いた。代表的な柄である「鮫」「行儀」「角通し」は特に格式が高いとされ「江戸小紋三役」と呼ばれる。柄は0.5〜1ミリほどの極めて小さな点や線で構成され、極鮫柄では3センチ四方に千個もの点が寸分の狂いなく染め抜かれる緻密さが最大の特徴である。遠目には無地に見えながら近づくと繊細な文様が浮かび上がる「粋」の美意識を体現した染物として、女性の着物の「華」として今日まで親しまれ、1976年(昭和51年)に国の伝統的工芸品に指定された。

東山和紙
和紙岩手

東山和紙

Tozan Washi

東山和紙は、岩手県一関市東山町に約800年伝わる手漉き和紙です。発祥については、平安時代末期に鎌倉勢に滅ぼされた奥州藤原氏の落人がこの地に土着し、農耕の傍ら生活用品として紙を漉き始めたとする説や、平泉・中尊寺の造営に伴い写経用の紙が大量に必要となり、近隣の東山町で漉かれるようになったとする説が伝えられています。「東山」という地名は、中尊寺近くの束稲山から東方を望む風景が京都の東山に似ていたことに由来するといわれ、町内には文字どおり「紙生里(かみあがり)」という地名も残っています。楮(こうぞ)をほぼ唯一の原料とする、素朴で強靭な紙質が特徴です。

奈良一刀彫
木工奈良

奈良一刀彫

Nara Ittobori

奈良一刀彫は檜や桂、楠などの木材をノミで豪快に彫り上げ、金箔や岩絵具で極彩色に仕上げる木彫人形です。平安時代末期から続く春日若宮おん祭の田楽法師が花笠や島台に飾った彩色人形が起源と伝えられ、1136年の創始以来一度も途切れることなく続く祭礼とともに、その造形が受け継がれてきました。丸みを帯びた通常の彫刻とは異なり、面と稜線を生かした簡素で力強い形態が特徴で、神に捧げる人形として小手先の細工に頼らず物事の本質を表そうとする心構えが根底にあるといわれます。明治時代には「一刀彫奈良人形」、続いて「奈良一刀彫」と称されるようになり、その名は魂を込め一刀両断に彫り上げたような風合いから、春日大社の初代宮司・水谷川忠起が名付けたと伝わります。現在も雛人形や五月人形、干支の置物など幅広い作品が奈良の地で作られ続けています。

奈良晒
織物奈良

奈良晒

Nara-zarashi

奈良晒は、奈良を中心に生産されてきた高級麻織物です。室町時代後期の記録である「多聞院日記」の天文18年(1549年)の記述に晒しに関する言及が見られ、江戸時代の慶長16年(1611年)には徳川家康の命により、晒された麻布の端に「南都改」の朱印が押されたものでなければ販売できない仕組みが整えられ、幕府御用達の品として全国に流通しました。享保年間(1716〜1735年)には「麻の最上は南都なり」と称されるほど名声を高め、年間30万〜40万疋もの生産量を誇ったと伝えられています。苧麻(ちょま)を手で績んだ糸を用い、機で織り上げた布を晒して純白に仕上げる工程はすべて手作業で行われ、僧侶の袈裟や武士の裃、茶巾など格式の高い品に用いられてきました。明治以降は需要の変化とともに生産規模を大きく縮小させましたが、江戸時代創業の老舗織元が今も手仕事によってその技術を伝えています。

奈良漆器
漆器奈良

奈良漆器

Nara Shikki

奈良漆器は、正倉院宝物や春日大社の古神宝類に見られる奈良時代の漆工技術をルーツとする漆器で、奈良は「日本の漆器発祥の地」とも称されます。飛鳥時代に仏教とともに大陸から伝わった漆工技術は、天平文化の中で大きく花開き、正倉院には螺鈿を施した名品「螺鈿紫檀五絃琵琶」をはじめ数々の優品が納められました。明治以降、正倉院宝物や社寺の古神宝類の修理・復元模造を手がける職人が奈良に輩出されたことで、夜光貝など光沢の美しい貝を用いる「螺鈿」の技術が受け継がれてきました。木地に漆を塗り重ね、文様の形に切り抜いた貝を貼り付けて研ぎ出す螺鈿細工は、天平時代さながらの華やかな輝きを放ちます。螺鈿の重要無形文化財保持者(人間国宝)であった北村昭斎氏をはじめとする漆工家たちが、文化財修理と創作の両面から奈良漆器の技を今日まで伝えています。

奈良団扇
木工奈良

奈良団扇

Nara Uchiwa

奈良団扇は、日本で最も歴史が古い団扇の一つとされる奈良市の伝統工芸品です。奈良時代創建の春日大社に仕えた神官が作った「禰宜(ねぎ)団扇」がその起源と伝えられ、江戸時代前期には興福寺の僧侶が中国伝来の団扇に趣向を凝らし、鹿や藤など奈良の風物にちなむ文様を透かし彫りで施す独自の意匠を完成させました。女竹を細く割った60〜90本もの骨に和紙を貼り、文様部分を彫刻刀でくり抜く「透かし彫り」が最大の特徴で、一般的な団扇の3倍以上という骨数のおかげでしなやかにたわみ、優しい風を送ります。紙染めから竹骨加工、下絵付け、透かし彫り、たたき張りまで全13の工程をすべて手作業で行い、分業をせず一つの工房で一貫して作る点も他産地の団扇には見られない特徴です。現在は奈良市内にある日本で唯一の専門店が、170年以上にわたりこの技術を守り継いでいます。

奈良筆
文具奈良

奈良筆

Nara Fude

奈良筆は奈良市を中心に作られる書道用・化粧用の毛筆で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。奈良時代、遣唐使として唐に渡った空海(弘法大師)が筆の製法を修め、帰国後に大和国今井の坂名井清川に伝授したのが起源と伝わります。以来1200年余りにわたり、日本の筆づくりの発祥地として技術が受け継がれてきました。最大の特徴は「練り混ぜ法」と呼ばれる技法で、リス・イタチ・タヌキ・ヒツジ・ウマなど十数種類の獣毛を毛質に応じて配分・寸法を決めて丹念に混ぜ合わせ、一本の筆に仕上げます。この工程は最も難度が高く、一人前の筆匠となるには長い年月を要するとされます。1977年(昭和52年)には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、書道用の毛筆だけでなく化粧筆の分野でも高い評価を得ています。

奈良墨
文具奈良

奈良墨

Nara Sumi

奈良墨は奈良市を中心に作られる書道用の墨で、国内生産量のおよそ9割を占めるとされる、日本最大の墨の産地です。室町時代初期、興福寺二諦坊で油煙(油を燃やして採った煤)を用いた製墨が始められたのが起源と伝わり、この墨は当時の奈良の異名にちなんで「南都油煙」と呼ばれ、良質な墨の代名詞として広く知られるようになりました。江戸時代には奈良市内に約40軒の墨屋があったとされますが、現在は10軒に満たないところまで数を減らしながらも、油煙を採る採煙から膠(にかわ)との配合、練り、型入れ、乾燥、貝殻による磨き、彩色まで、すべての工程を手作業でおこなう伝統的な製法が受け継がれています。2018年(平成30年)11月には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定され、書家や愛好家から高い評価を得ています。

南部系こけし
木工岩手

南部系こけし

Nanbu-kei Kokeshi

南部系こけしは岩手県花巻市を発祥とする伝統こけしで、木地師によって作られた玩具「キナキナ」を原型とします。頭部と胴体を別々にろくろで挽き、頭をあえてゆるく差し込むことで首を軸にくらくらと動く点が最大の特徴で、こうした構造は全国11系統の伝統こけしの中でも南部系だけに見られます。当初は顔も模様も描かれない素木のままの玩具でしたが、後に鳴子系・遠刈田系工人の影響を受けて花や模様が描かれるようになり、花巻こけしとも呼ばれるようになりました。木肌が白く堅いコサンバラ(アオハダ)と呼ばれる良材を使うことでも知られ、現在も花巻市・盛岡市を中心に工人によって手作業で作り続けられています。素朴で表情豊かな佇まいは、東北の風土が育んだ郷土玩具として今も多くの人に親しまれています。

南部古代型染
染物岩手

南部古代型染

Nanbu Kodai Katazome

南部古代型染は、盛岡市に伝わる型染めの技法です。寛永年間(1624〜1643年)、南部藩主が京都から蛭子屋三右衛門(小野家)を御用染師として招き、裃や小袖、鎧下などに型紙を使って南部家の家紋「向鶴」や小菊、牡丹、千鳥といった文様を染めたことに始まると伝えられています。以来、小野家によって代々技術が受け継がれ、藩政期から伝わる型紙は300種類以上にのぼります。藍を基調とした落ち着いた色合いと、一枚の型紙から丁寧に染め出される文様の美しさが特徴で、着尺や帯などの和装小物から、現代の生活に取り入れやすいテーブルセンターまで幅広く手がけられています。現在も盛岡市内の工房でその伝統が守り継がれています。

南部鉄器
金工岩手

南部鉄器

Nanbu Tekki

南部鉄器は岩手県盛岡市と奥州市水沢を二大産地とする鉄鋳物で、約400年の歴史を持ちます。盛岡では17世紀中頃、南部藩主が京都から茶釜師を招いて茶の湯釜を作らせたのが始まりとされ、水沢では平安時代末期に奥州藤原氏が近江国から鋳物師を招いたのが起源と伝えられています。両地域は砂鉄や川砂、粘土、木炭など鋳造に適した資源に恵まれ、古くから鋳物づくりが盛んでした。1975年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。質実剛健で丈夫、熱が均一に伝わり保温性に優れることから鉄瓶や急須、鍋、風鈴などが作られ、近年は海外でも茶器として高い人気を集めています。現在も焼型による手仕事の技法が受け継がれています。

南部菱刺し
織物青森

南部菱刺し

Nanbu Hishizashi

南部菱刺しは青森県南部地方、八戸市を中心に受け継がれてきた刺し子の技法で、津軽地方のこぎん刺しと並び青森県を代表する刺し子文化の一つです。江戸時代、木綿の着用を禁じられていた農村の女性たちが、麻布を丈夫にし寒さをしのぐために木綿糸で刺し重ねたことに始まるとされ、およそ200年前に八戸を中心とする南部地方で生み出されたと伝わります。こぎん刺しが縦の織り目を奇数目数えるのに対し、菱刺しは偶数目を数えながら刺し進める点が大きな違いで、「梅の花」「雉の足」などと呼ばれる横に長い菱形文様の幾何学模様を織りなします。現在は前掛けや卓布といった伝統的な品に加え、ネクタイやタペストリーなど現代の生活に合わせた製品にも応用され、八戸市内の工房や教室で技術が受け継がれています。同じ青森県内でも津軽と南部で異なる刺し子文化が育まれてきた点も興味深いところです。

南部裂織
織物青森

南部裂織

Nanbu Sakiori

南部裂織は青森県十和田市を中心に伝わる手織りの技法で、着古した木綿布を細く裂いて緯糸とし、麻糸や木綿糸を経糸にして織り上げる再生織物です。江戸時代、寒冷な南部地方では木綿布が大変貴重であったため、着られなくなった古布も裂いて糸にし、着物やこたつ掛けなどに仕立てて最後まで使い切る知恵として発展しました。昭和23年(1948年)の大麻取締法制定により経糸に用いていた麻の栽培ができなくなったことなどから一時は技術の継承が途絶えかけましたが、昭和50年(1975年)に十和田市出身の菅野暎子氏が南部裂織保存会を設立して教室を開き、技法の掘り起こしと普及に努めたことで復興を遂げました。古布を無駄にせず新たな布へと生まれ変わらせるその手法は、現代ではサステナブルな工芸としても改めて注目されています。

二風谷アットゥシ
織物北海道

二風谷アットゥシ

Nibutani Attus

二風谷アットゥシは、北海道沙流郡平取町二風谷地区に伝わるアイヌ民族の樹皮織物です。沙流川流域に育つオヒョウやシナノキなどの樹皮の内皮を剥ぎ、煮て乾燥させたのち細く裂いて糸を作り、糸に撚りをかけてから機で織り上げます。糸づくりだけで工程全体の8割を占めるといわれるほど手間のかかる作業で、樹皮の採取から反物になるまでに長い時間と労力を要します。天然の樹皮の色合いが織りなす縞模様が特徴で、水に強く通気性に優れ、天然繊維としては類稀な強靭さを持つといわれています。かつてはアイヌの人々の衣服に広く用いられ、100年以上続く技術・技法が現在も継承されています。2013年3月8日、二風谷イタとともに北海道で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。

二風谷イタ
木工北海道

二風谷イタ

Nibutani Ita

二風谷イタは、北海道沙流郡平取町の二風谷地区に古くから伝わるアイヌ民族の木彫りの盆(イタ)です。カツラやクルミなどの北海道産材を数年かけて乾燥させた板を彫り込み、モレウノカ(渦巻文様)やアイウシノカ(棘のような文様)、シクノカ(目のような文様)といったアイヌ文様を彫刻します。文様の合間を埋めるように施される「ラムラムノカ(鱗彫り)」も二風谷イタに欠かせない技法とされています。これらの文様には魔除けや厄除けの意味が込められていると伝えられています。2013年3月8日、二風谷アットゥシとともに北海道で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。長らく日常の盆として使われてきた道具でありながら、彫り手ごとに文様の構成や深浅の表現が異なり、作り手の個性が色濃く表れる工芸品でもあります。現在も平取町二風谷を中心に、地元の工芸家や工房によって技術が受け継がれています。

日光彫
木工栃木

日光彫

Nikko-bori

日光彫は栃木県日光市に伝わる木彫刻の伝統工芸で、江戸幕府3代将軍・徳川家光による日光東照宮の造替(1634〜1636年)に際し、全国から集められた名工たちが仕事の合間に手がけた余技が起源とされる。最大の特徴は「ひっかき」または「日光三角刀」と呼ばれる独特の彫刻刀にあり、これはもともと東照宮の修復時に漆を掻き落とすために使われていた道具に由来する。刃先を折り曲げ手前に引いて彫ることで生まれる流れるような曲線が日光彫特有の表情を生み、牡丹・菊・梅・桜といった植物文様を中心に、東照宮彫刻の影響を色濃く受けた意匠が多く見られる。彫り上げた木地には漆を塗り重ねて仕上げられ、盆や茶托、小引き出しなど暮らしの道具として親しまれてきた。現在も日光市内の工房や体験施設では、観光客が実際にひっかき刀を使って手鏡や菓子器を彫る体験ができる。

箱根寄木細工
木工神奈川

箱根寄木細工

Hakone Yosegi Zaiku

箱根寄木細工は、天然木が持つ色合いや木目の違いをそのまま生かして幾何学模様を組み上げる神奈川県箱根町の伝統的木工技術です。江戸時代後期、箱根の山中でとれる多彩な樹種に着目した畑宿の石川仁兵衛が、色や木目の異なる木片を寄せ合わせて盆や箱を作ったのが始まりとされます。明治時代には静岡方面の寄木技法が加わり、より精緻な幾何学文様が生み出されるようになりました。からくり仕掛けを施した「秘密箱」は、東海道を旅する人々や温泉客の土産物として人気を集め、現在も箱根土産の代表格です。1984年には国の伝統的工芸品に指定され、発祥の地である畑宿を中心に工房や資料館が今も軒を連ねています。

八幡馬
木工青森

八幡馬

Yawata-uma

八幡馬は青森県八戸市を中心とする南部地方に伝わる木彫りの馬の郷土玩具で、福島県の三春駒、宮城県の木下駒と並ぶ「日本三駒」の一つに数えられています。かつて名馬「南部馬」の産地であった南部地方で、八戸市八幡にある櫛引八幡宮の例大祭に集う参詣者向けの土産物として木彫りの馬が売られたのが始まりとされ、地名の「八幡」にちなんで八幡馬と呼ばれるようになりました。台座に乗った素朴な馬体に赤や青の華やかな模様を施した姿は、農村の嫁入り道中を彩った盛装馬の様子を映したものともいわれています。明治以降は玩具から祝い事の記念品へと役割を広げ、現在は結婚や新築、出産などの贈答品として親しまれています。平成8年3月には青森県伝統工芸品に指定され、木取りから絵付け、たてがみを植える毛すげまで、一貫して職人の手作業で仕上げる技が受け継がれています。

備前焼
陶器岡山

備前焼

Bizen-yaki

備前焼は岡山県備前市伊部地区を主産地とする炻器(せっき)で、瀬戸・常滑・丹波・信楽・越前と並ぶ日本六古窯の一つに数えられます。産地の地名から「伊部焼」とも呼ばれ、釉薬を一切使わず高温で焼き締める点が最大の特色です。原料には備前・伊部から香登にかけての水田の底に堆積した鉄分豊富な粘土「ひよせ」を用い、長期間かけて焼成することで、窯の中の炎の当たり方や灰のかかり方によって器ごとに異なる模様「窯変」が現れます。代表的な窯変には、藁を巻いて焼く「緋襷」、灰に埋もれて焼ける「桟切」、灰が溶けて付着する「胡麻」などがあり、同じものが二つとない一点物としての魅力を持ちます。鎌倉時代には日用雑器の産地として発展し、桃山時代には茶の湯の流行とともに堺・京都の茶人から高く評価され、茶陶の名品が数多く生み出されました。近代以降も金重陶陽をはじめとする陶工たちにより技法が磨かれ、現在まで多くの窯元が伊部の街に軒を連ねています。

備前刀(長船)
金工岡山

備前刀(長船)

Bizen-to (Osafune)

備前刀は、旧備前国(現在の岡山県瀬戸内市・岡山市東部一帯)で作られた日本刀の総称で、なかでも吉井川沿いの長船(現・瀬戸内市長船町)を拠点とした「長船派」は、日本刀史上最大規模の刀工集団として知られます。備前国は吉井川下流域に良質な砂鉄(赤目砂鉄)を産し、中世を通じて日本刀生産の一大中心地となりました。日本刀の五大流派「五箇伝」のうち「備前伝」を形成し、国宝・重要文化財に指定された日本刀のおよそ4割を備前刀が占めるとも言われます。戦乱や需要の変化により衰退した時期もありましたが、大正〜昭和期に今泉俊光が独学と口伝により作刀技術を研究・復興し「備前刀復興の祖」と称されました。現在も瀬戸内市長船町には現役の刀匠が拠点を構え、備前長船刀剣博物館・備前おさふね刀剣の里では鍛刀や研磨などの工程を見学できます。

富山木象嵌
木工富山

富山木象嵌

Toyama Mokuzogan

富山木象嵌は、色や木目の異なる天然木を糸鋸で挽き抜いてはめ込み、一枚の板の上に絵や模様を表現する富山市発祥の木工技法である。明治40年(1907年)、富山出身の中島杢堂が神奈川県小田原の木象嵌家・白川洗石のもとに弟子入りし、糸鋸機械を用いた近代的な象嵌技術を学んで富山に持ち帰ったのが始まりとされる。中島杢堂は1964年(昭和39年)に富山県無形文化財の指定を受け、富山の風土に根ざした独自の作風を築いた。三角形や四角形など単純な木片を組み合わせる寄木細工とは異なり、台板に描いた図柄に沿って糸鋸で精密に挽き抜き、同型の模様材をはめ込むことで絵画的な図柄を表現できる点が最大の特徴である。額装やテーブルなどの伝統的な製品に加え、近年は茶器や照明など新しい形の製品づくりも進められている。後継者たちの活動が評価され、2013年(平成25年)に富山県指定伝統工芸品となった。

本場黄八丈
織物東京

本場黄八丈

Honba Kihachijo

本場黄八丈は、東京都心から南へ約290キロ、絶海の孤島・八丈島に伝わる草木染めの絹織物である。かつて「鳥も通わぬ島」と呼ばれた島の中で、室町時代には貢納品として白紬が納められていたと伝わり、現在に続く染色技法が確立したのは江戸時代の寛政年間(1789〜1801年)頃とされる。島に自生する植物だけを染料とし、黄色は八丈刈安(コブナグサ)、樺色(茶褐色)はマダミ(タブノキ)の樹皮、黒色は椎の木の樹皮を用いた泥染めによって糸を染め上げる。染めた糸を手投げ杼(て​なげひ)で織り込み、無地・縞・格子といった極めてシンプルな意匠に仕立てるのが特徴で、着るほどに生地が体になじみ、洗うほどに色が冴えるとも言われる。黒染めには椎皮の煎じ汁での染色と天日干しを約40回も繰り返す入念な工程があり、深く艶やかな黒を生み出す。江戸時代中頃には縞や格子模様も織られるようになり、島の女性たちが代々受け継いできた手仕事として今日まで続いている。1977年(昭和52年)に国の伝統的工芸品に指定された。

木彫り熊
木工北海道

木彫り熊

Kibori-guma (Wood-carved Bear)

木彫り熊は、北海道を代表する木彫り工芸品として広く知られる熊の木彫像です。発祥は渡島半島の八雲町とされ、尾張徳川家19代当主・徳川義親が1921〜1922年のヨーロッパ視察でスイスに立ち寄った際に見かけた木彫りの熊などの民芸品を持ち帰り、自身が営む八雲農場の冬期間の副業として地元農民に制作を奨励したのが始まりです。酪農家の伊藤政雄が手本を基に彫った作品が北海道第一号とされ、1924年の八雲農村美術工芸品評会で展示されました。八雲では日本画家・十倉金之が確立した繊細な「毛彫り」と、柴崎重行が確立した力強い「面彫り(ハツリ彫り)」の2つの表現が発展しました。一方、旭川では1926年頃にアイヌの熊猟師・松井梅太郎が実体験を基に彫ったことをきっかけに独自の系統が生まれ、面による抽象的な造形を特徴とする「旭川系」として発展しました。北海道土産の定番として全国に知られています。

優佳良織
織物北海道

優佳良織

Yukara-ori

優佳良織は、1962年に旭川出身の染織作家・木内綾(きうち あや、1924〜2006年)が創始した北海道独自の染織工芸です。羊毛を200色以上に染め分け、その色糸を綴れ織や浮き織の技法で織り込むことで、流氷やクロユリ、摩周湖の湖面といった北海道の自然風景を、まるで油絵を描くように一枚の織物へ表現します。染色・紡ぎ・機織りの全工程を手作業で行う点も大きな特徴です。名称はアイヌ語の「ユーカラ(伝承する)」に由来し、北海道の風土を後世へ伝える工芸でありたいという願いが込められています。木内綾は日本民芸公募展最優秀賞(1977年)やハンガリー国際織物ビエンナーレ金賞(1978年)を受賞するなど国際的にも高く評価されましたが、木内の没後、事業を引き継いだ北海道伝統美術工芸村が2016年に経営破綻し、拠点だった優佳良織工芸館は長期休館(実質閉館)状態にあります。現在は元債権者の高嶋良樹氏が2018年に設立した「合同会社 優佳良織工房」が、ベテランの織り手や染め手の協力を得て技術と作品の継承にあたっています。