伝統工芸ジャンル
陶器
全国各地の陶器を横断的に紹介します。
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45 件

伊賀焼
Iga Yaki (Iga Ware)
伊賀焼(いがやき)は、三重県伊賀市の丸柱(まるばしら)地区を中心に焼かれている陶器です。起こりは奈良時代ごろにさかのぼるとされ、地元では約1200年の歴史を持つ焼き物と紹介されています。原料は、約400万年前の古琵琶湖の湖底に積もった「古琵琶湖層」の粘土です。焼くと細かな気孔が多くでき、熱をよく蓄えるため、土鍋や行平(ゆきひら)などの調理具に向きます。桃山時代には茶の湯の流行とともに、ゆがみの大きい豪快な花入や水指が焼かれました。登り窯の炎が生む緑色のガラス質「ビードロ」や「焦げ」は、古伊賀の見どころとされます。五島美術館が所蔵する重要文化財「古伊賀水指 銘 破袋(やぶれぶくろ)」は、その代表作です。江戸時代前期の後に窯は一時途絶えましたが、中期に再興され、以後は土鍋などの日用品が主力となりました。1982年(昭和57年)に国の伝統的工芸品に指定されています。
伊香保焼
Ikaho-yaki
伊香保焼は、群馬県渋川市の伊香保温泉で明治11年(1878年)に陶芸家・篠田仙果が窯を開いたことに始まる陶器です。粘土や釉薬に伊香保温泉の「湯の花」を用いる独自の製法が特徴で、鉄分を多く含む湯の花を使うことで、器は黄色や茶褐色、黒など温泉地ならではの豊かな色合いに発色します。しかし仙果の他界とともに窯の火は途絶え、伊香保焼は長らく「幻の焼き物」となっていました。その後、地元の陶芸家・木暮陶句郎が古い文献をもとに独自に研究を重ね、伊香保焼の復活に取り組んでいます。現在は伊香保温泉街近くの陶句郎窯で作品が制作・展示販売されているほか、電動ろくろや絵付けの体験も行われており、伊香保温泉の湯の花を生かした一点物のうつわづくりを、旅の思い出として楽しむことができます。

常滑焼
Tokoname-yaki
常滑焼は愛知県常滑市を中心とする知多半島一帯で焼かれる炻器(せっき)で、越前焼・信楽焼・丹波立杭焼・備前焼・瀬戸焼とともに「日本六古窯」の一つに数えられます。起源は平安時代末期の12世紀頃、丘陵地に穴窯が築かれ、山茶碗や三筋壺などの「古常滑」が焼かれたことに遡り、六古窯のなかでも最大規模の生産地として発展しました。江戸時代後期の1835年には陶工・鯉江方救が登り窯を完成させ、1850年代には代表格である朱泥焼が誕生しました。明治以降は土管や衛生陶器、タイルなど産業用陶器の一大産地として発展し、現在は酸化鉄を多く含む陶土を用いた朱泥急須をはじめ、茶碗・花器・招き猫まで幅広い製品が作られています。1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。

信楽焼
Shigaraki-yaki
信楽焼は滋賀県甲賀市信楽町を中心に焼かれる陶器で、瀬戸・常滑・丹波・越前・備前と並び日本六古窯の一つに数えられます。鎌倉時代に隣接する常滑の技術を受けて開窯したとされ、桃山時代には茶の湯の道具として珍重されました。一般には愛嬌のある狸の置物で広く知られていますが、本来は壺や甕から茶陶、タイル、植木鉢、現代アートまで幅広い製品を手がける産地です。狸の置物が全国的に有名になったのは昭和26年(1951年)、昭和天皇の信楽行幸の際、日の丸を持たせた狸を並べて奉迎したことが新聞で報じられ話題を呼んだことがきっかけとされます。土に含まれる鉄分がもたらす温かみのある緋色や、薪の灰が溶けて生まれるビードロ釉など、土と炎が織りなす素朴な景色が信楽焼最大の魅力です。

博多人形
Hakata Ningyo
博多人形は福岡市博多区を中心に作られてきた素焼きの土人形で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。起源は1600年、黒田長政の筑前入国に伴って多くの職人が博多に集められ、その中から素焼き人形づくりの技が生まれたと伝えられています。木偶師による細工物人形、瓦師の系譜を引く宗七焼、江戸末期に土俗玩具を手がけた中ノ子吉兵衛の系譜など複数の流れが合わさって発展しました。彩色を施した後に絵付けをせず焼き締める点や、写実性の高い「美人もの」をはじめ、歌舞伎や能、武者、干支、福助など多彩な題材を写実的かつ繊細に表現する点が特徴です。明治期にはパリ万国博覧会など海外の博覧会で高い評価を受け、日本を代表する人形として世界に知られるようになりました。

美濃焼
Mino-yaki
美濃焼は岐阜県東濃地方の多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市を中心に1300年以上作り続けられてきた陶磁器の総称で、国内で流通する食器類の約6割を生産する日本最大の陶磁器産地です。特定の様式や技法に縛られない点が最大の特徴で、桃山時代の茶の湯文化とともに生まれた志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒をはじめ、経済産業大臣指定の伝統的工芸品としては15品目もの技法・様式が認められています。素朴な白釉の志野焼、大胆な緑釉と自由な文様の織部焼など、多彩な表情を持つやきものが同じ「美濃焼」の名のもとに生み出されており、日用の器から茶陶まで幅広い用途で親しまれています。

有田焼
Arita-yaki
有田焼は佐賀県有田町を中心に生産される磁器で、日本における磁器発祥の地として知られます。1616年(元和2年)頃、朝鮮出兵の際に肥前へ渡った陶工・李参平が有田東部の泉山で良質な陶石を発見し、天狗谷窯で日本初の白磁を焼いたことが起源とされます。江戸時代には染付を基調とした初期伊万里に始まり、1640年代には赤を主調とする色絵の柿右衛門様式、藩窯による献上品専用の鍋島様式、金彩を施した豪華な金襴手など多様な様式が花開きました。伊万里港から積み出されたことから「IMARI」の名で東インド会社を通じヨーロッパへも大量に輸出され、西洋の陶磁器文化にも影響を与えました。1977年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も陶山神社や有田陶器市など、町全体が窯業とともに息づいています。

伊万里焼
Imari-yaki
伊万里焼は、有田周辺で焼かれた磁器が積み出し港である伊万里港から各地へ運ばれたことに由来する呼び名です。江戸時代に海外へ輸出された古い有田焼は「古伊万里」と呼ばれ、現在では特に伊万里市大川内山で焼かれる磁器を指すことが多くなっています。大川内山は1675年に佐賀藩鍋島家が藩窯を有田から移転させた地で、将軍家や諸大名への献上品・贈答品を焼く「秘窯の里」として発展しました。山あいの谷にあるこの地には技術の漏洩を防ぐための関所が置かれ、職人たちは一生をこの地で過ごしたと伝えられます。明治以降に一般販売が始まり、1873年のウィーン万国博覧会にも出品されました。精緻な染付と気品ある色絵を特徴とし、現在も約30の窯元が伝統の技を守り続けています。

越前焼
Echizen-yaki
越前焼は、福井県丹生郡越前町を中心に作られている陶器です。瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前と並ぶ「日本六古窯」の一つに数えられます。産地としての始まりは約850年前の平安時代末期で、常滑窯など東海地方の技術を取り入れて焼き締め陶の生産が始まりました。釉薬をかけずに高温で焼き締めるため、硬く丈夫な器になります。窯の中で薪の灰が溶けて生まれる黄緑色の自然釉が、素朴な美しさを添えます。室町時代後期には壺・甕・すり鉢を主力に、日本海側最大の窯業地へと発展しました。1986年に国の伝統的工芸品に指定され、2017年には六古窯の一つとして日本遺産にも認定されています。越前陶芸村では、窯元の器を選んだり、陶芸を体験したりできます。

九谷焼
Kutani-yaki
九谷焼は石川県南部の加賀地方で焼かれる色絵磁器で、赤・黄・緑・紫・紺青の五色を用いた「九谷五彩」による華やかな絵付けを最大の特徴とします。始まりは明暦年間(1655〜1657年)、加賀藩の支藩・大聖寺藩の初代藩主前田利治が、領内の九谷村で磁鉱が発見されたことを機に、金工師の後藤才次郎に命じて色絵磁器を焼かせたことに遡ります。この時期に焼かれた作品は後に「古九谷」と呼ばれ、大胆な構図と力強い塗り埋めの絵付けで高く評価されました。しかし九谷村の窯は約50年で廃窯となり、以後およそ100年間、生産は途絶えます。江戸後期になると加賀・大聖寺の各地で古九谷の再興を目指す窯が相次いで開かれ、これを「再興九谷」と呼びます。吉田屋窯や宮本屋窯、永楽窯などが個性を競い合いながら技術を発展させ、今日に続く九谷焼の基礎を築きました。現在は石川県南部の金沢・小松・加賀・能美の各市を中心に生産され、1975年には国の伝統的工芸品に指定されています。

四日市萬古焼
Yokkaichi Banko Yaki (Yokkaichi Banko Ware)
四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)は、三重県四日市市を中心に作られている陶磁器です。江戸時代中期、桑名の豪商・沼波弄山(ぬなみろうざん)が、現在の朝日町小向に窯を開いたのが始まりです。弄山は作品に「萬古」や「萬古不易(ばんこふえき)」の印を押しました。作品がいつまでも変わらず伝わるようにという願いが込められ、これが名前の由来となりました。弄山の没後に途絶えましたが、江戸時代後期に桑名の森有節らが再興します。幕末から明治にかけては、四日市の山中忠左衛門が量産できる陶法を確立し、地場産業へと育てました。代表的な製品は、あずき色の「紫泥(しでい)急須」と、耐熱性に優れた土鍋です。土鍋は国内生産の約8割を占めるとされます。現在は四日市市と菰野町を中心に100社以上の窯元が集まる、全国有数の陶磁器産地です。1979年(昭和54年)に国の伝統的工芸品に指定されました。

瀬戸焼
Seto-yaki
瀬戸焼は愛知県瀬戸市を中心に作られる陶磁器の総称で、常滑焼と並ぶ日本六古窯の一つに数えられます。起源は5世紀後半、現在の名古屋市東山丘陵にあった猿投窯での須恵器生産に遡り、12世紀末には日本で唯一、中世を通じて施釉陶器を焼き続けた「古瀬戸」の生産が始まりました。江戸時代後期の文化年間(1804〜1818年)には加藤民吉が肥前有田から磁器の製法を導入し、コバルト顔料で文様を描く染付磁器が発展、以降は陶器の「本業焼」と磁器の「染付焼」が並行して作られるようになりました。良質な木節粘土・蛙目粘土に恵まれ、鉄分の少ない白い素地が特徴で、日常食器から美術品まで幅広く生産されています。全国で焼き物を指す「せともの」の語源としても知られ、2017年には日本遺産に認定されました。国指定の伝統的工芸品には1977年の「赤津焼」、1997年の「瀬戸染付焼」があります。

大堀相馬焼
Obori-Soma-yaki
大堀相馬焼は、かつて福島県浪江町大堀地区で焼かれてきた陶器で、国指定の伝統的工芸品です。元禄年間(1688〜1704年)に相馬中村藩士の半谷休閑が大堀で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼かせたのが始まりとされ、以来ろくろ成形を一貫して守り続けてきました。器全体に走る細かな貫入模様「青ひび」、相馬藩の御神馬を狩野派の筆法で描いた縁起物「走り駒」、そして湯が冷めにくく熱くない二重構造の「二重焼」という3つの特徴で知られます。しかし2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故により、大堀地区を含む浪江町は全域が避難区域となり、20軒以上あった窯元はすべて町外への避難を余儀なくされました。現在は二本松市や福島市、郡山市など県内各地に窯を移し、また一部は浪江町内の道の駅なみえで再興を果たしながら、伝統の技を受け継いでいます。

壺屋焼
Tsuboya-yaki
壺屋焼は沖縄県那覇市の壺屋地区や読谷村を中心に焼かれる、沖縄を代表する陶器です。琉球王国は14〜16世紀頃、東アジアの焼物の集積地として海外貿易が盛んでしたが、1609年の薩摩侵攻により交易が下火になると、王府は朝鮮人陶工を招いて製陶技術の導入を進めました。1682年、王府によって美里村知花窯・首里宝口窯・那覇湧田窯の三窯が那覇の壺屋に統合され、現在の壺屋焼が誕生したとされています。器肌に厚みがあり、素朴で力強い作風が特徴で、釉薬をかけ高温で焼く「上焼(じょうやち)」と、釉薬をかけずに焼く「荒焼(あらやち)」の二種に大別されます。上焼は碗・皿・シーサーなど日常づかいの器が中心で、荒焼は酒甕や水甕といった大型の貯蔵容器が中心です。1970年代、煙の出る登り窯を那覇市内で焚くことが難しくなったことをきっかけに、人間国宝の故・金城次郎氏らが読谷村へ移り、以後読谷村も壺屋焼の主要な産地となりました。1976年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されています。

会津本郷焼
Aizu-Hongo-yaki
会津本郷焼は福島県会津美里町を産地とする陶磁器で、東北最古の窯場として約400年の歴史を持つ国指定伝統的工芸品です。起源は1593年、会津若松城主・蒲生氏郷が城の屋根瓦を焼かせたことにさかのぼり、1645年には会津藩主・保科正之が尾張瀬戸の陶工・水野源左衛門を招いて本格的な陶器づくりが始まりました。さらに1800年頃、佐藤伊兵衛が肥前有田で磁器の製法を学び持ち帰ったことで、同じ産地で陶器と磁器の両方を焼くという全国でも珍しい特徴を備えるに至りました。現在も本郷地区には十数の個性豊かな窯元が点在し、流し釉を用いた流紋焼をはじめ、日用の器から美術品まで幅広い作品が作られています。毎年8月第1日曜には夜明け前から始まる「せと市」が開かれ、県内外から多くの人が掘り出し物を求めて訪れる会津の夏の風物詩となっています。

京焼・清水焼
Kiyomizu-yaki
京焼・清水焼は京都を代表する陶磁器の総称で、特定の様式に縛られず作り手ごとに個性豊かな表現が見られる点が最大の特徴です。京都で最初の焼き物は寛永年間(1624〜1645年)頃に東山・粟田口で焼かれた「粟田口焼」とされ、桃山時代に茶の湯が流行すると、京都市内でも楽焼をはじめ様々な茶道具やうつわが作られるようになりました。江戸時代には野々村仁清や尾形乾山、奥田頴川、青木木米といった名工が相次いで登場し、京焼の地位を不動のものとしました。名称は清水寺への参道である五条坂・清水地区の窯元で焼かれていたことに由来します。土や技法、絵付けの手法に厳密な決まりがなく、陶工それぞれの独自性が尊重されている点が、他の産地の陶磁器と大きく異なる特徴です。現在は東山区の五条坂・茶わん坂に加え、山科区の清水焼団地、宇治市炭山などが主な産地となっています。

上野焼
Agano-yaki
上野焼は福岡県田川郡福智町を中心に、香春町・大任町にまたがる地域で焼かれる陶器で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。1602年、豊前小倉藩主・細川忠興が朝鮮出身の陶工・尊楷を招き、福智山の麓・上野の地に開窯したのが始まりとされます。その後、細川氏・小笠原氏という歴代藩主の庇護のもと藩窯として発展し、江戸時代には遠州七窯の一つに数えられるほど茶人に愛されました。極めて軽く薄づくりであることが最大の特徴で、絵付けをほとんど行わず、深い青緑色が薄い白肌の上を流れ落ちる「緑青流し」をはじめ、鉄釉・灰釉・藁白釉・三彩釉など多彩な釉薬が生む窯変の美しさで知られています。1983年に国の伝統的工芸品に指定され、現在も福智町上野地区を中心に約20の窯元が伝統を受け継いでいます。

唐津焼
Karatsu-yaki
唐津焼は佐賀県唐津市を中心に、佐賀県西部から長崎県北部にかけて焼かれる陶器です。茶人の間では「一楽二萩三唐津」と称され、楽焼・萩焼と並んで茶陶の名品として珍重されてきました。創始は1580年代、岸岳城主・波多氏の庇護のもとに開窯したのが始まりとみられ、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れ帰られた朝鮮人陶工により、蹴轆轤や連房式登り窯、叩き作りといった新技術がもたらされ、生産が飛躍的に発展しました。唐津港から西日本一帯へ広く流通し、当時は焼き物全般を「からつもの」と呼ぶほど代表的な産地として知られました。明治以降は一時衰退しましたが、十二代中里太郎右衛門(無庵)による古唐津技法の復興を経て再興し、1988年に国の伝統的工芸品に指定されています。

小石原焼
Koishiwara-yaki
小石原焼は福岡県朝倉郡東峰村の小石原地区一帯で焼かれる陶器で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。1682年、筑前福岡藩3代藩主・黒田光之が、当時焼き物の産地として栄えていた伊万里にならい、陶工を招いて窯を開かせたのが起源とされています。開窯当初は磁器も焼かれていましたが、次第に日用の陶器づくりが主流となり、約340年にわたり技術が受け継がれてきました。最大の特徴は、ろくろを回しながら刃先を当てて規則的な削り目を生む「飛び鉋」や、刷毛で模様を描く「刷毛目」など、道具と手の動きから生まれる幾何学的な文様です。「用の美」を体現する暮らしの器として民藝運動の中でも高く評価され、1975年には陶磁器として日本で初めて国の伝統的工芸品に指定されました。現在も約50の窯元が集まり、春と秋には産地最大の陶器市「民陶むら祭」が開催されます。

志戸呂焼
Shitoro Yaki (Shitoro Ware)
志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市の金谷地区で焼き継がれてきた陶器です。名前は、大井川西岸の金谷周辺がかつて「志戸呂郷」と呼ばれたことに由来します。窯跡の発掘調査から、成立は室町時代後期にさかのぼるとされます。瀬戸や美濃から移り住んだ陶工が窯を築いたのが始まりといわれます。その後、徳川家康の庇護を受け、家康から朱印状を与えられたとも伝わります。江戸時代には茶人・小堀遠州が好んだ「遠州七窯(えんしゅうなながま)」の一つに数えられ、茶陶の産地として全国に名を知られました。地元で採れる鉄分の多い土は硬く焼き締まり、湿気を嫌う茶壺に向くとされます。褐色や黒の鉄釉による素朴で渋い色調が持ち味です。現在は金谷の横岡などに窯元があり、抹茶・煎茶用の茶器を中心に作られています。静岡県の郷土工芸品に指定されています。

膳所焼
Zeze-yaki
膳所焼は滋賀県大津市の膳所地区で焼かれてきた陶器で、江戸時代前期に膳所藩の御用窯として、茶人としても名高い小堀遠州の指導のもとに始まったと伝えられます。遠州の好みを反映した端正な意匠から、遠州が選んだとされる代表的な七つの窯「遠州七窯」の一つに数えられ、黒みを帯びた釉薬に白土を掛けまわした茶入や水指などの茶陶で知られました。藩主の国替えにともない藩窯としての歴史は比較的短命に終わりましたが、大正8年(1919年)に地元の実業家・岩崎健三が画家・山元春挙と協力して窯を再興し、「新生膳所焼」として今日まで技術が受け継がれています。現在は大津市の膳所焼美術館などでその作品や歴史に触れることができます。
小幡人形
Obata Ningyo
小幡人形は滋賀県東近江市五個荘小幡町に伝わる伝統的な土人形で、1994年に滋賀県伝統的工芸品に指定されました。享保年間(1716~1736年)、京都との飛脚業を営んでいた安兵衛が、当時人気を集めていた京都・伏見人形の製法を学び持ち帰ったことが始まりと伝えられています。旧中山道沿いの工房では、今も木型・土型を用いた昔ながらの製法が受け継がれ、素朴な土の風合いに桃色や群青色を中心とした鮮やかな彩色を施すのが特徴です。長年にわたり数百種ともいわれる型が蓄積され、節句人形や干支にちなんだ土鈴など、季節や縁起にまつわる多彩な品が作られてきました。近江商人ゆかりの町並みに溶け込む郷土玩具として親しまれる一方、後継者は初代安兵衛から数えて九代目にあたる細居源悟氏ただ一人となっており、地域では保存継承に向けた取り組みも続けられています。

堤焼
Tsutsumi-yaki
堤焼は仙台市の旧堤町(現・仙台市青葉区堤町周辺)を産地とする陶器で、江戸時代元禄年間(1688~1704年)、仙台藩四代藩主・伊達綱村が京都から陶工を招いて窯を築かせたことに始まると伝えられます。当初は藩主の茶道具などを焼く御用窯として出発し、のちに壺や甕、片口といった庶民の生活雑器を大量に生産するようになりました。江戸期には素焼きの土人形「堤人形」の産地としても知られ、京都の伏見人形と並び「西の伏見、東の堤」と称されるほどの賑わいを見せました。最大の特徴は、地元でとれる赤土に、鷺ヶ森周辺の岩石や籾殻の灰を用いた釉薬を黒と白で豪快に流し掛ける「海鼠釉(なまこゆう)」で、素朴で力強い風合いを生み出します。昭和初期には民藝運動の柳宗悦にも東北を代表する民窯として高く評価されました。最盛期には30軒近い窯元が軒を連ねましたが、現在は「堤焼乾馬窯」1軒のみがその伝統を守り続けています。宮城県知事指定伝統的工芸品。
平清水焼
Hirashimizu-yaki
平清水焼は山形市南東に位置する千歳山の南麓、平清水の里で焼かれる陶磁器です。千歳山から採れる鉄分を多く含んだ陶石を原料とすることから「千歳焼」とも呼ばれます。江戸時代後期の文化年間(1804〜1818年)に常陸国から来た陶工・小野藤治平が始祖とされます。その後の文政年間には相馬藩の陶工が窯を開いて相馬焼の技法をもたらし、窯業の一大集落へと発展しました。明治中期の最盛期には30軒を超える窯元が軒を連ねましたが、現在は青龍窯・七右エ門窯など数軒を残すのみです。陶器と磁器の両方の原料となる土が採れる珍しい産地で、窯元ごとに釉薬や技法が異なります。千歳山の原土に含まれる硫化鉄が生む青白い斑点の「梨青瓷」や、純白釉に黒斑が浮かぶ「残雪」など個性豊かな作品が作られています。
賤機焼
Shizuhata Yaki (Shizuhata Pottery)
賤機焼(しずはたやき)は、静岡市葵区で焼かれている陶器です。江戸時代初期、徳川家の家臣・太田七郎右衛門が、駿府に在城していた徳川家康から、賤機山(しずはたやま)の麓に朱印地と「賤機焼」の称号を与えられたのが始まりと伝わります。以後、徳川家の御用窯として栄えたといわれます。しかし文政年間の末頃、安倍川の大氾濫で窯場が流され、一度途絶えました。明治時代に再興の動きが起こり、静岡県が招いた陶工の青島庄助によってよみがえります。その後、青島家の二代目が常滑焼の技術を、三代目が南蛮手や釉裏紅(ゆうりこう)の技法を取り入れ、独自の焼き物へと発展しました。外側を鬼瓦、内側を福面にかたどった縁起物「鬼福(おにふく)」がよく知られています。現在は青島家の五代目が「秋果陶房」で作陶を続けており、静岡県郷土工芸品に指定されています。

切込焼
Kirigome-yaki
切込焼は宮城県加美郡加美町(旧宮崎町)の切込地区を産地とする陶磁器で、江戸時代後期から明治時代初め頃まで生産されました。仙台藩の御用窯として上質な染付磁器を焼く一方、庶民向けの日用雑器も大量に作られていたと伝わります。白地に藍色の呉須で草花文様などを描いた染付が生産の中心で、有田焼のような純白の地肌ではないものの、素朴で温かみのある風合いが持ち味です。確たる史料が乏しく創始の詳細は謎に包まれていますが、天保6年(1835年)の年紀を持つ染付作品が現存し、江戸末期の弘化・安政期(1844~1860年ごろ)に最盛期を迎えたとされています。明治10年代に一度廃窯となり、大正期の復興の試みも実らなかったものの、1990年(平成2年)に町おこしの一環として本格的な復興が果たされました。現在は「三浦陶房」が唯一の窯元として伝統を受け継いでおり、加美町ふるさと陶芸館(切込焼記念館)では歴史や作品を紹介しています。1984年(昭和59年)に宮城県知事指定伝統的工芸品に指定されました。

楢岡焼
Naraoka-yaki
楢岡焼は秋田県大仙市南外の楢岡地区で焼かれる陶器で、県内で最も長い歴史を持つ焼き物とされています。文久3年(1863)、地元の旧家・小松清治が陶工を招いて窯を築いたのが始まりで、創業当初はオリーブ色の茶器などが中心でしたが、明治中期以降、青みを帯びた重厚な「海鼠釉(なまこゆう)」を用いた作品が主流となりました。現在は明治41年(1908)に移転した南外高野地区で、地元産の土と釉薬を使い、登り窯による薪焼きで作陶が続けられています。窯元の楢岡陶苑は5代にわたって窯を守り続けており、昭和初期には陶芸家の加藤唐九郎や濱田庄司の指導を受け技術改良を重ねたことでも知られます。深みのある群青色の器は、秋田新幹線E6系グリーン車の内装にもイメージが用いられました。

大樋焼
Ohi-yaki
大樋焼は、京都の楽焼の脇窯として金沢で350年以上続く陶芸です。江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が茶道茶具奉行として裏千家4代・仙叟宗室を京都から招いた際、仙叟の師である樂家4代一入の高弟であった陶工・土師長左衛門が同道したことに始まります。仙叟が帰京したのちも金沢に残った長左衛門は、河北郡大樋村(現・金沢市大樋町)で良質の陶土を見出し、地名にちなんで大樋焼と称するようになりました。樂家が黒釉・赤釉を用いる本楽を独占していたため、大樋家は独自に飴釉という技法を編み出し、雪国にふさわしい温かみのある飴色の茶碗を生み出したことが最大の特徴です。轆轤を使わず手とへらだけで成形する手びねりの技法も樂焼の流れを汲んでおり、前田家の御用窯として栄えた歴史から、今日も金沢を代表する茶陶として受け継がれています。

白岩焼
Shiraiwa-yaki
白岩焼は仙北市角館町白岩地区で焼かれる陶器で、秋田県内で最も古い歴史を持つ焼き物とされています。明和8年(1771)、陸奥国相馬(現・福島県)の陶工・松本運七が角館の武士たちの支援を受けて開窯したのが始まりで、以後複数の窯が開かれ、最盛期には年間4万個を超える生活雑器が生産されました。しかし明治維新後は藩の庇護を失ったうえ、磁器の流入や地震による窯の損壊が重なり、明治33年(1900)に130年の歴史にいったん幕を閉じます。昭和49年(1974)、陶芸家・濱田庄司との出会いをきっかけに復興の機運が高まり、翌昭和50年(1975)、地元有志が「和兵衛窯」を開いて技術を復活させました。赤みを帯びた土色と青みがかった海鼠釉のコントラストが特徴で、現在も和兵衛窯が伝統を受け継いでいます。
松代焼
Matsushiro-yaki (Matsushiro Ware)
松代焼は、長野県長野市の松代地域を中心に焼かれてきた陶器です。真田家が治めた松代藩の奨励によって江戸時代後期に盛んになり、水がめやこね鉢、徳利など、暮らしに欠かせない実用の器が作られました。鉄分の多い地元の土で作った黒茶色の地肌に、青緑色の釉薬が流れるように掛かり、一つひとつ異なる模様が生まれるのが特徴です。この青緑色は顔料ではなく、地元で採れる白土や銅を調合した釉薬によるものです。明治時代以降は、鉄道で運ばれてくる安価な陶器に押されて衰え、昭和の初めまでに途絶えました。その後、昭和中期に陶工たちが古い陶片や資料をもとに研究を重ね、技術を復活させています。2014年に長野県知事指定の伝統的工芸品となりました。現在は松代町の松代陶苑などで、陶芸体験を通して松代焼づくりに触れることができます。
中山人形
Nakayama Ningyo
中山人形は横手市平鹿町中山地区で作られる土人形で、丸みを帯びた愛らしい形と鮮やかな彩色が持ち味です。明治中頃、地元の樋渡ヨシが夫を亡くしたのち、生活の糧として姉様人形や押し絵をヒントに粘土細工を作り始めたのが起こりとされ、約150年の歴史を数えます。当初は雛人形や歌舞伎物など節句向けの人形が中心でしたが、その後かまくらや竿燈、梵天、秋田犬といった秋田ならではの題材や、干支をかたどった土鈴も手がけられるようになりました。3代目・樋渡義一が考案した「十二支土鈴」は、昭和54年(1979)に年賀切手の図案に採用されたことで全国に知られるようになります。現在も横手市の樋渡人形店が伝統を受け継いでおり、令和3年(2021)1月には秋田県伝統的工芸品に指定されました。

無名異焼
Mumyoi-yaki
無名異焼は、新潟県佐渡市の相川地区を中心に作られる焼き物です。「無名異(むみょうい)」とは、佐渡金銀山から産出する酸化鉄を多く含んだ赤い土のことで、古くは止血薬などの薬としても用いられました。この無名異を陶土に用いて高温で焼き締めると、成形から乾燥までに約3割も縮み、非常に硬く仕上がります。叩くと澄んだ金属音がし、使い込むほどに光沢が増していくのが特徴です。文政2年(1819年)に無名異を使った楽焼が焼かれたのが始まりとされ、明治時代に高温で硬く焼き上げる現在の技法が確立されました。2003年には国の重要無形文化財に指定され、五代伊藤赤水が保持者(人間国宝)に認定されています。さらに2024年10月には「佐渡無名異焼」の名称で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。島内の窯元では、ろくろ体験ができるところもあります。
弓野人形
Yumino Ningyo
弓野人形は佐賀県武雄市西川登町弓野地区で作られる郷土人形です。1882年(明治15年)、博多人形師・藤原清重に師事していた原田亀次郎が、博多人形の作風に飽き足らず九州各地を修行する中で弓野の吉田山に立ち寄り、そこで採れる黒灰色の粘土に触れたことから創作意欲を得て、この地に人形づくりを興したのが始まりとされます。当初は博多人形に近い洗練された作風でしたが、次第に胡粉を厚く塗ったぽってりとした丸みのある形と、鮮やかな彩色を特徴とする素朴で親しみやすい人形へと変化していきました。石膏型に粘土を詰めて成形し、乾燥・焼成の後、胡粉を重ね塗りして表情を作り、手作業で彩色を施すのが基本の工程です。招き猫や十二支など縁起物のモチーフが多く、なかでも招き猫の貯金箱は人気の製品として知られます。現在は創業140年を超える江口人形店が、その伝統をほぼ唯一継承しています。

楽焼
Raku-yaki
楽焼は、桃山時代に樂家初代長次郎が千利休の侘茶の思想を受けて創案した手づくねの茶碗を源流とする陶芸で、京都で450年以上受け継がれてきた。轆轤を使わず、手とへらだけで一椀ずつ成形し、低い火度で焼き上げる技法が特徴で、装飾を排したおおらかな造形と、掌に包み込むような柔らかい風合いが茶人に愛されてきた。技術のルーツは中国明時代の三彩陶にあるとされ、長次郎の父と伝わる渡来人・阿米也がその技法を伝えたと考えられている。樂家は初代長次郎から現在の十六代まで一子相伝で受け継がれ、各代当主が個性豊かな作風を打ち出してきた点も他の陶芸には見られない特色である。今日では樂家本流の樂焼のほか、これに倣った赤楽・黒楽の茶碗を手掛ける窯元も京都に複数存在する。

こぶ志焼
Kobushi-yaki
こぶ志焼は、北海道岩見沢市の「こぶ志窯」で焼かれる陶器で、道内で最も古い歴史を持つ民窯(日常づかいの器を焼く窯)として知られています。1946年(昭和21年)、窯業技術者であった初代・三秋(みあき)が、妻の実家のある岩見沢の地に開窯したのが始まりです。初窯を焚いた折に辛夷(こぶし)の花が咲いていたことから「こぶ志窯」と名付けられました。開窯当時の北海道は陶芸不毛の地とされ、土づくりから釉薬、焼成まですべてを手探りで確立せねばならなかったことが、かえって独自の作風を育みました。中でも藍色を基調とした「海鼠釉(なまこゆう)」は、創窯間もない頃から安定した発色を得られたことで評判となり、こぶ志焼を代表する釉調として現在まで受け継がれています。二代目・山岡憬のあとを継ぎ、現在は山岡千秋を中心に、道内産原料を用いた土づくりなど新たな取り組みも進められています。
とやま土人形
Toyama Tsuchi Ningyo
とやま土人形は富山藩の時代から続く素焼きの土人形で、富山市を中心に作られてきた郷土玩具である。嘉永年間、名古屋出身の陶工・広瀬秀信が富山藩十代藩主・前田利保に土人形を献上したのが始まりとされ、その子・安次郎が天神様(牛乗り天神)を焼いて献上したことがとやま土人形の起源と伝わる。型に入れて成形した素地を約800度で素焼きし、一体ずつ手作業で絵具による彩色を施す製法で、素朴であたたかみのある色使いが持ち味である。学問の神様として親しまれる天神様をはじめ、招き猫、干支、抱き雛など、縁起物や郷土色豊かな題材が数多く作られてきた。天神信仰の強い富山では、男児の初正月に天神様を贈る習わしとも結びつき、家庭で親しまれる存在であり続けている。2013年(平成25年)に富山県指定伝統工芸品となり、富山市民俗民芸村内の工房で今も製作技術が受け継がれている。

益子焼
Mashiko-yaki
益子焼は栃木県芳賀郡益子町を産地とする陶器で、1979年8月3日に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。始まりは嘉永6年(1853年)頃、笠間で技術を学んだ大塚啓三郎が益子の地に窯を開いたことにあるとされ、当初は甕や土瓶、擂鉢などの日用雑器を焼く産地として発展した。大正末期の1924年には陶芸家・濱田庄司が益子に定住し、柳宗悦や河井寛次郎とともに民藝運動を推し進める拠点とし、イギリス人陶芸家バーナード・リーチとの深い交流も益子焼の名を広く知らしめた。鉄分を多く含む粗めの陶土に柿釉や糠白釉を厚くかけて焼き上げるため、重厚感がありながら素朴で温かみのある質感が持ち味である。特定の様式に縛られず作り手ごとの個性が生きる自由な作風も特徴で、日用の器から作家性の強い作品まで幅広く手がけられている。現在は益子町内に多くの窯元が集まり、春と秋の陶器市には合わせて約60万人が訪れる。
越中瀬戸焼
Ecchu Seto-yaki
越中瀬戸焼は富山県中新川郡立山町の瀬戸・上末地区で焼かれる陶器で、愛知県の「瀬戸焼」とは産地も系譜も異なる、富山県独自の古窯である。この地区は平安時代初めから須恵器を焼いてきた古窯地で、桃山時代から文禄・慶長年間にかけて尾張瀬戸から陶工が移住して瀬戸村が誕生し、越中瀬戸焼と呼ばれるようになったと伝わる。加賀藩二代目当主が尾張から陶工を招いて茶道具を作らせたことから加賀藩の御用窯として栄え、九谷焼よりも古い歴史を持つ北陸有数の古窯地として知られる。明治・大正期には鉄道網の整備で他産地の安価な製品に押されて多くの窯が瓦生産へ転じたが、昭和に入り地元有志による保存会の活動で陶器製造が復興した。地元でとれる赤・黄・青・白などの多彩な陶土と、草木灰を原料とする釉薬による大胆で多彩な施釉が持ち味で、現在は「かなくれ会」に属する窯元たちが430年以上続く伝統を受け継いでいる。
下川原焼土人形
Shitakawara-yaki Tsuchi-ningyo
下川原焼土人形は弘前市下川原の地で焼かれてきた素朴な土人形で、文化年間(1804〜1814年)に9代藩主・津軽寧親が津軽の地に玩具が少ないことを憂い、下川原にあった藩窯の陶師・高谷金蔵、太田粂次郎らに作らせたのが始まりと伝えられています。赤土と砂を調合した粘土を石膏型で成形し、約800度で焼き上げたのち、すべて手作業で色付けを施すため同じ表情のものは一つとしてありません。中でも「ホー」という優しい音色を奏でる鳩笛は代表的な製品で、干支人形をはじめ数百種類の土人形が作られてきました。明治以降も弘前の郷土玩具として親しまれ、青森県伝統工芸品にも指定されています。現在は弘前市内にわずかに残る窯元が、二百年以上続く技法を受け継いでいます。

笠間焼
Kasama Ware
笠間焼は茨城県笠間市を中心に生産される陶器で、江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)、箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が近江国信楽から招かれた陶工・長右衛門の指導を受けて窯を築いたのが始まりとされる。幕末から明治にかけては江戸に近い立地を生かし、水瓶や徳利などの日用雑器の大量生産地として発展した。戦後はプラスチック製品の普及で需要が落ち込んだが、官民一体で日用雑器から工芸陶器へと転換を図り、1992年(平成4年)10月8日に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された。「特徴のないのが特徴」といわれるほど作風の自由度が高く、現在も約300人の陶芸家・窯元が個性豊かな作品を生み出している。
小久慈焼
Kokuji-yaki
小久慈焼は岩手県久慈市小久慈町で焼かれる陶器です。1813年(文化10年)、相馬(現・福島県)の陶工・嘉蔵が、地元の甚六の助けを得て三日町に窯を築いたのが始まりと伝えられ、その後甚六の子・熊谷甚右衛門が嘉蔵に師事して技法を受け継ぎ、以後熊谷家によって代々受け継がれてきました。創始以来一つの窯元のみで作陶が続けられており、江戸時代以前から続く窯元としては日本最北に位置します。地元産の粘土を使い、わら灰による素朴な白釉(糠白釉)と、砂鉄を用いた飴釉を基調とした日用の器づくりが特徴で、明治期には民藝運動を提唱した柳宗悦にも高く評価されました。
小砂焼
Kosunago-yaki
小砂焼は、栃木県那須郡那珂川町小砂で焼かれる陶器です。江戸時代末期、天保元年(1830年)頃に水戸藩主・徳川斉昭がこの地の良質な陶土を発見し、水戸藩営御用製陶所の原料として用いたのが興りと伝えられています。越中富山から来た陶工・初代半平(斎藤栄三郎)が、志鳥村(現・那須烏山市)から小砂村の庄屋藤田家に招かれて登り窯を築いたのが産地としての始まりです。金色を帯びた黄色に輝く「金結晶」釉と、ほんのりとした桃色を呈する「辰砂」釉が代表的な特徴で、カオリンを多く含む小砂の陶土から陶器と磁器両方の性質を併せ持つ独特の風合いが生まれます。現在も藤田製陶所や市川窯など地域の窯元が伝統を継承しており、小砂地区は2013年に「日本で最も美しい村」連合に栃木県内で初めて加盟しました。

赤膚焼
Akahada-yaki
赤膚焼は奈良市西部から大和郡山市にかけて焼かれる陶器で、乳白色を帯びた柔らかな肌合いの釉薬と、御所人形風の絵柄を描く「奈良絵」の意匠で知られています。桃山時代、大和郡山城主で豊臣秀吉の弟にあたる豊臣秀長が、尾張国常滑の陶工を招いて五条山(赤膚山)に窯を開かせたのが始まりと伝えられていますが、この時期を裏付ける確かな史料や遺物は確認されていません。江戸時代後期には郡山藩主・柳沢家の御用窯となって保護奨励を受け、「遠州七窯」のひとつに数えられるようになりました。幕末には名工・奥田木白が卓越した陶技を駆使して赤膚焼を再興し、奈良絵をはじめとする多彩な作品を生み出したことから、赤膚焼中興の祖と称されています。現在も大和郡山市と奈良市にまたがる複数の窯元が、それぞれの解釈による釉薬や絵付けで独自の作風を受け継いでいます。

虫明焼
Mushiake-yaki
虫明焼は瀬戸内市邑久町虫明で焼かれる茶陶で、江戸時代中期に岡山藩筆頭家老・伊木氏が虫明に設けた御庭窯を起源とすると伝えられています。同じ岡山県を代表する備前焼が釉薬を用いない焼き締め技法を特徴とするのに対し、虫明焼は釉薬をかけた薄作りの端正な器形と、京都の作風を思わせる瀟洒な意匠を特徴としており、両者は同じ県内でも異なる系譜を歩んできました。江戸末期の1847年には伊木忠澄(三猿斎)が自ら御庭窯を開き、京都から清風与平や楽長造、宮川香山といった当代一流の陶工を招いたことで、京焼の粟田風に通じる薄手で瀟洒な作風が確立されました。現在も地元産の山土を用いた独自の粘土に、天然松灰を用いた透明釉や鉄釉・銅釉を掛け、酸化と還元を明確に分けない焼成によって生まれる窯変が味わいを添えています。1988年には岡山県指定郷土伝統的工芸品に指定され、瀬戸内海に面した風光明媚な虫明の地で、少数の窯元が伝統を受け継いでいます。

備前焼
Bizen-yaki
備前焼は岡山県備前市伊部地区を主産地とする炻器(せっき)で、瀬戸・常滑・丹波・信楽・越前と並ぶ日本六古窯の一つに数えられます。産地の地名から「伊部焼」とも呼ばれ、釉薬を一切使わず高温で焼き締める点が最大の特色です。原料には備前・伊部から香登にかけての水田の底に堆積した鉄分豊富な粘土「ひよせ」を用い、長期間かけて焼成することで、窯の中の炎の当たり方や灰のかかり方によって器ごとに異なる模様「窯変」が現れます。代表的な窯変には、藁を巻いて焼く「緋襷」、灰に埋もれて焼ける「桟切」、灰が溶けて付着する「胡麻」などがあり、同じものが二つとない一点物としての魅力を持ちます。鎌倉時代には日用雑器の産地として発展し、桃山時代には茶の湯の流行とともに堺・京都の茶人から高く評価され、茶陶の名品が数多く生み出されました。近代以降も金重陶陽をはじめとする陶工たちにより技法が磨かれ、現在まで多くの窯元が伊部の街に軒を連ねています。