画像: Wikimedia Commons埼玉県
東京都に隣接し、江戸・東京の暮らしを支える職人技と食文化が今も息づく県。日光東照宮の造営に集まった職人が住み着いた岩槻の人形づくりや、荒川・芝川流域の砂に恵まれた川口の鋳物、秩父地方の絹織物「秩父銘仙」など、産業として発展した伝統工芸が多彩に残る。小江戸として知られる川越の芋菓子文化や、行田の足袋・ご当地グルメ「ゼリーフライ」、秩父の山里に伝わるみそポテトやしゃくし菜漬けなど、庶民の暮らしに根づいた食も豊富。武蔵野の台地から秩父の山あいまで、地域ごとに異なる産業・食文化が育まれてきた。
埼玉の伝統工芸

岩槻人形
Iwatsuki Ningyo
岩槻人形は、さいたま市岩槻区で作られる雛人形・五月人形・木目込人形・衣裳人形などの総称で、平成19年(2007年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。起源は寛永年間(1634〜1647年)、日光東照宮の造営に集められた工匠たちが日光御成街道の宿場町であった岩槻に住み着き、周辺に自生する桐を使った指物や人形作りを始めたことにあるとされます。さらに元禄10年(1697年)には京都堀川の仏師・恵信が岩槻に滞在中、桐粉と正麩糊を練り固めて人形の頭を作り始めたとも伝わります。以来約380年にわたり、頭師・手足師・着せつけ師・小道具師による分業体制が受け継がれ、日本一の人形生産地として発展してきました。現在も「人形のまち岩槻」として多くの人形店・工房が軒を連ね、雛人形・五月人形の生産量は全国でも屈指を誇ります。

秩父銘仙
Chichibu Meisen
秩父銘仙は埼玉県秩父市を中心に生産される平織りの絹織物で、2013年(平成25年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。伝承では崇神天皇の時代に知知夫彦命が住民に養蚕と機織りの技を伝えたことに始まるとされ、当初は規格外の繭を使った野良着「太織」として親しまれ「鬼秩父」の異名でも呼ばれるほど丈夫な普段着でした。転機となったのは1908年(明治41年)、坂本宗太郎が考案した「ほぐし捺染」という独自の技法です。経糸を粗く仮織りしてシート状にし、そこへ型染めを施してから緯糸を織り込むことで、経糸の柄と緯糸の色が重なり合う奥行きのある文様が生まれます。裏表なく染まるため両面使いができるのも特徴で、大正・昭和期にはモダンでファッション性の高いおしゃれ着として全国的な人気を博しました。現在は秩父市内の機屋がその技術を今に伝えています。
春日部桐箪笥
Kasukabe Kiri Tansu
春日部桐箪笥は埼玉県春日部市を中心に作られる桐材の箪笥で、昭和54年(1979年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。起源は江戸時代初期、日光東照宮の造営のために全国から集められた工匠の一部が、日光街道の宿場町であった春日部に住み着き、周辺に豊富にあった桐を材料として指物や小物を作り始めたことにあると伝えられています。天保年間(1830年頃)には古利根川・江戸川の水運を活かして江戸へ製品を輸送できたことから、桐箪笥づくりを専門とする業者が増え、産地として発展しました。桐は湿気を吸って膨張し乾燥すると収縮する性質を持つため、湿度の高い時期には箪笥がわずかに膨らんで密閉され、中の着物や道具を湿気や火災から守るとされます。木目の美しさを活かした木地仕上げと、狂いの少ない堅牢な作りが今も高く評価されています。

小川和紙(細川紙)
Ogawa Washi (Hosokawa-shi)
小川和紙は埼玉県小川町・東秩父村に伝わる手漉き和紙で、なかでも楮(こうぞ)を原料とする伝統技法「細川紙」は、昭和53年(1978年)に国の重要無形文化財に指定され、平成26年(2014年)11月には本美濃紙(岐阜県)・石州半紙(島根県)とともに「和紙:日本の手漉和紙技術」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。これは埼玉県における初のユネスコ登録でもあります。細川紙という名称は、紀伊国細川村(現在の和歌山県)で漉かれていた紙の技法が小川に伝わったことに由来するとされます。国産楮のみを原料とし、蒸す・煮る・塵より・叩解といった伝統的な工程を経て、ネリ(トロロアオイの粘液)を加えた「流し漉き」で一枚ずつ漉き上げます。強靭さと光沢のある美しい風合いを兼ね備え、古文書の修復用紙としても高く評価されています。

行田足袋
Gyoda Tabi
埼玉県行田市に伝わる足袋づくりの伝統技術で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。利根川と荒川に挟まれた行田は、堆積した砂質土と豊富な水、夏の高温多湿な気候が綿花や藍の栽培に適しており、江戸時代には藍染めの綿織物「青縞」の一大産地となりました。この綿布と縫製技術を活かし、貞享・享保年間(17世紀末〜18世紀前半)頃には足袋づくりが始まったと伝えられ、天保年間には27軒もの足袋屋が軒を連ねるまでに発展しました。明治期にミシンが導入されると生産量は飛躍的に増加し、1938年には全国シェアの8割を占める日本一の足袋産地となりました。往時の隆盛を今に伝える土蔵・煉瓦造りなどの「足袋蔵」が市内に数多く残り、2017年には日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」に認定されています。関連資料5,484点は国の重要有形民俗文化財にも指定され、現在も市内のメーカーが和装用から祭り用、ランニング用まで幅広い足袋を製造し続けています。

江戸押絵羽子板
Edo Oshie Hagoita
厚紙に綿を詰めて布でくるむ「押絵」の技法により、歌舞伎役者や役者見立ての人物像を立体的に表現した羽子板です。押絵の技術は江戸時代の文化・文政期(1804〜1829年)に発達し、歌舞伎の流行や浮世絵の普及を背景に役者の似顔絵をあしらった「役者羽子板」が江戸の町人文化の中で人気を博しました。戦後、東京・浅草周辺に代々暮らしていた押絵羽子板の職人たちが、羽子板の板材に適した良質な桐材を求めて埼玉県春日部市に移り住んだことから、春日部が一大産地として発展し、昭和52年(1977年)には埼玉県の伝統的手工芸品に指定されました。1枚の羽子板を仕上げるまでに50〜70種類もの材料を組み合わせ、およそ200もの手作業の工程を要するとされ、綿の詰め方や布の使い方で人物の表情や仕草を立体的に描き分ける高度な技術が受け継がれています。雛人形・五月人形の産地として知られる岩槻区でも、人形店が羽子板の製造・販売を手がけています。

武州正藍染
Bushu Shoai-zome
埼玉県北部の羽生市・加須市・行田市周辺で受け継がれてきた藍染めの技法で、藍の葉を自然発酵させてつくる「正藍」染料を用いる点が最大の特徴です。江戸時代後半の天明期(1781〜1789年)頃から、利根川流域の肥沃な土壌を生かして藍の栽培が広まり、農家の主婦が農閑期に家族の衣服を染めたことが始まりとされます。明治期には一大産業へと発展し、明治40年代には羽生町を中心に200軒以上の紺屋(染物屋)が軒を連ねました。糸の状態で染める「糸染め」と、布にしてから染める「型染め」(青縞)の2つの技法があり、武州ではおよそ7割が糸染めによるものです。天然発酵建ての藍は化学染料にはない深みのある色合いを持ち、色があせるほどに美しさが増すとされることから「ジャパンブルー」の名でも親しまれています。埼玉県伝統的手工芸品に指定され、2008年には地域団体商標にも登録されました。

越谷だるま
Koshigaya Daruma
埼玉県越谷市を中心に作られる張子(はりこ)だるまで、白みを帯びた肌色と、やや高い鼻筋、上品で穏やかな表情が特徴とされています。江戸時代中期の享保年間(1716〜1736年)頃、越谷市間久里(まくり)の人形師「だる吉」が、当時流行していた起き上がり小法師に座禅を組む達磨大師の姿を描いたのが始まりと伝えられます。型に和紙を重ねて貼り込み、乾燥させてから型抜きし、下地塗りから彩色、最後にひげや眉を描き入れるまで、すべての工程が手作業で行われます。とりわけひげ描きは穂先の長い面相筆を使い、だるまの大きさに関わらず同じ筆で仕上げる熟練の技が求められます。「七転八起」の縁起物として正月の縁起物市などで親しまれ、現在も越谷市の複数の工房が製造を続けており、1984年には埼玉県指定の伝統的手工芸品となりました。
越谷甲冑
Koshigaya Katchu
端午の節句に飾る五月人形の鎧・兜を仕立てる、埼玉県越谷市の伝統技術です。金工・漆工・皮革工芸・組紐など、江戸時代から伝わる複数の工芸技法を組み合わせて一領の甲冑に仕立て上げる点が特徴で、鮮やかな色彩と威厳のある風格を備えています。甲冑師と呼ばれる職人が、兜の鉢や吹返し、鎧の縅(おどし)などの部位ごとに専門技術を駆使して製作し、すべて手作業で仕上げられるため、人形師の技量が仕上がりの良し悪しを左右します。昭和34年(1959年)創業の甲冑工房朝比奈をはじめとする越谷市内の工房が中心となって技術を継承しており、平成8年(1996年)には「越谷甲冑」として埼玉県指定の伝統的手工芸品に指定されました。戦国武将にちなんだ意匠の甲冑も人気を集め、端午の節句の贈り物として今も需要があります。

川口鋳物
Kawaguchi Imono
川口鋳物は、荒川と芝川に挟まれた川口市で発展した鋳造業の総称で、「鋳物のまち川口」として知られています。発祥には平安時代説・鎌倉時代説・南北朝時代説・戦国時代説など複数の説があり定かではありませんが、遅くとも中世には鋳物師が定着していたとされます。荒川・芝川流域で鋳型に適した良質な砂や粘土が採れたことに加え、大消費地である江戸・東京に隣接し水運にも恵まれていたことから、江戸時代以降、鍋や釜、農具、梵鐘などをつくる一大産地として発展しました。明治以降は工場制生産や技術革新が進み、1942年には単独市として生産量日本一を達成、映画『キューポラのある街』の舞台としても知られています。近年は生活雑貨や工業製品まで幅広い分野で、軽量化やデザイン性を追求した製品づくりが続けられています。
埼玉の郷土料理

草加せんべい
Soka Senbei
草加せんべいは、埼玉県草加市を発祥とする、うるち米を蒸して搗いた生地を天日干しし、炭火などでじっくり焼き上げてから醤油を塗って仕上げる堅焼きの醤油せんべいです。草加は古くから米どころとして知られ、日光街道の宿場町として旅人相手の茶店が軒を連ねたことから、保存食であった団子状の干し飯を焼き餅にして売る商いが発展したと伝えられます。幕末に醤油づくりが盛んになると、焼いた生地に醤油を塗る現在のスタイルが定着し、明治以降は専門の煎餅屋が増えて草加の名物として広まりました。ぱりっとした歯ごたえと香ばしい醤油の香りが特徴で、現在も市内には製造・販売を手がける店が数多く残り、埼玉県を代表する土産菓子として親しまれています。

十万石饅頭
Jumangoku Manju
十万石饅頭(十万石まんじゅう)は、埼玉県行田市の菓子舗「十万石ふくさや」が製造する薯蕷(じょうよ)まんじゅうで、白あんを求肥入りのしっとりとした生地で包んだ上品な甘さが特徴の埼玉県を代表する銘菓です。名称は、行田市がかつて忍藩十万石の城下町として栄えた歴史にちなんで名付けられました。1952年(昭和27年)、砂糖の統制が解除されたのを機に和菓子店「福茶屋」が創業して売り出し、1960年に社名を「十万石ふくさや」に改めてブランド化を進めました。版画家・棟方志功が手掛けたとされる「うまい、うますぎる!」のキャッチコピーによるテレビ埼玉のローカルCMで広く知られるようになり、今では県内外の土産物店で見かける埼玉土産の定番として定着しています。

五家宝
Gokabo
五家宝は、蒸したもち米を炒って作った麦芽(おこし種)を水飴で棒状に固め、外側にきな粉をまぶした埼玉県熊谷市発祥の郷土菓子です。中山道の宿場町として栄えた熊谷では、良質な「石原米」や大豆、水飴の原料となる大麦が豊富に取れたことから、文政年間(1818〜1829年)頃に「五嘉棒」の名で売り出されたのが始まりと伝えられます。その後「五穀は家の宝である」という願いを込めて「五家宝」の字が当てられるようになりました。発祥については群馬の菓子商に由来する説や下総国五霞村を起源とする説など複数の説があり、諸説入り混じりながら北関東一帯に広まった歴史を持ちます。きな粉の香ばしさと水飴のやさしい甘さ、もちもちとした食感が特徴で、現在も熊谷市内の老舗菓子店を中心に製造が続けられています。

川越いも料理(大学いも等)
Kawagoe Imo Ryori (Daigaku-imo etc.)
川越いも料理は、埼玉県川越市周辺で古くから栽培されてきたさつまいも「川越いも」を使った大学いもや干し芋、いも菓子などの総称です。川越藩が位置する武蔵野台地は関東ローム層に覆われ、水はけのよい土壌と落葉堆肥を活かした栽培により、甘みが強く風味豊かなさつまいもが育つことで知られてきました。江戸時代には川越から江戸日本橋までの距離が十三里(約52km)であったことと「栗(九里)より(四里)うまい」という語呂合わせが結びつき、「栗より美味い十三里」という言葉が広まって川越いもの名声を高めたと伝えられます。現在も川越の代表的な観光地「菓子屋横丁」では大学いもを中心としたいも菓子を扱う店が軒を連ね、川越いもは埼玉を代表する食文化の一つとして親しまれています。
加須うどん
Kazo Udon
加須うどんは、埼玉県加須市とその周辺で作られる手打ちうどんで、「加須の手打ちうどん」とも呼ばれます。その歴史は江戸時代中期にさかのぼり、関東三大不動の一つとされる不動ヶ岡不動尊・總願寺の門前で参拝客をもてなすために振る舞われたのが始まりと伝えられます。加須に専門のうどん店ができたのはおよそ200年前とされ、不動尊の門前で岡村屋が手打ちうどん店を営んでいた記録も残っています。麺は強いコシと喉ごしのよさが特徴で、つゆにはごまだれを使うことも多く、冠婚葬祭の締めくくりに振る舞う風習が現在も残っています。加須市は自らを「うどんの里」として発信しており、市内には多くの手打ちうどん店が軒を連ねています。

冷汁うどん(すったて)
Hiyajiru Udon (Suttate)
冷汁うどんは、すりごまと味噌をすり鉢ですり合わせ、きゅうりや大葉、みょうがなどの夏野菜を加えて冷水でのばしたつけ汁に、うどんをつけて食べる埼玉県の郷土料理です。「すりたて」を食べることに由来して「すったて」とも呼ばれ、比企郡川島町を中心に大宮・川越・加須など県内の稲作地帯で古くから親しまれてきました。埼玉県は稲作の裏作として小麦栽培が盛んだった土地柄から独自の「うどん文化」を育んでおり、すったてはその中でも農繁期の暑い時期に手早く栄養を補給できる知恵の料理として発展しました。ごまの香ばしさと味噌のコク、薬味野菜のさわやかさが合わさった冷たいつけ汁は食欲のない夏場でも箸が進みやすく、家庭ごとに配合や薬味が異なるのも特徴です。近年はB級グルメとしても注目され、川島町では「かわじますったて」として提供する飲食店が増えています。
なまず料理
Namazu Ryori (Catfish Cuisine)
なまず料理は、荒川と江戸川に挟まれた埼玉県東部の水郷地帯で親しまれてきた淡水魚ナマズを用いた郷土料理です。特に吉川市は「なまずの里」として知られ、天ぷらや蒲焼き、身をたたいて味噌と混ぜて揚げる「たたき」など多彩な調理法が伝わっています。江戸と結ぶ中川・江戸川の舟運で栄えた吉川では、川魚商が集まり鰻と並んでナマズが名物となり、「吉川に来て鯰と鰻を食べずに帰るな」と言われるほど評判を呼びました。加須市北川辺地区でも利根川流域の川魚食文化としてなまずの天ぷらなどが親しまれ、現在は道の駅の食堂でも味わうことができます。白身で淡泊な味わいと独特の食感が特徴で、下ごしらえに手間がかかることから専門の川魚料理店で腕によって仕上げられる、埼玉ならではのごちそうです。
しゃくし菜漬け
Shakushina-zuke
しゃくし菜漬けは、秩父地方で古くから栽培されてきたアブラナ科の野菜「しゃくし菜(雪白体菜)」を漬け込んだ、秩父の冬を代表する保存食です。葉の形がご飯をよそう「杓子(しゃくし)」に似ていることが名前の由来とされ、山あいで平地の少ない秩父では稲作に頼れない分、こうした畑作物を使った漬物文化が発達しました。塩漬けだけでなく乳酸発酵の力を借りて漬け込むのが特徴で、白菜のようなクセがなく、シャキシャキとした歯切れの良さとほどよい酸味が持ち味です。かつては家庭ごとに漬け方や味に違いがあり、冬を迎える前に一家総出でしゃくし菜を漬け込む光景が秩父の冬の風物詩となっていました。現在は農産物直売所や漬物専門店で通年購入でき、そのまま食べるほか、油炒めや饅頭の具としても親しまれています。

みそポテト
Miso Potato
みそポテトは、茹でたじゃがいもに衣をつけて揚げ、甘辛い味噌だれをたっぷりとかけた秩父地方の郷土料理です。平地が少なく畑作が中心だった秩父では、収穫したじゃがいものうち小ぶりなものをいろりで焼き、味噌だれを塗って食べたのが始まりとされ、農作業の合間に食べる「小昼飯(こぢゅうはん)」として長く親しまれてきました。地元では長らく家庭料理として知られるのみでしたが、平成21年(2009年)の「第5回埼玉B級ご当地グルメ王決定戦inちちぶ」で優勝したことをきっかけに知名度が全国区へと広がりました。ホクホクとした食感のじゃがいもに甘辛い味噌が絡む素朴な味わいは、おやつやおつまみ、おかずとしても楽しまれ、現在では秩父市内の食堂や土産物店、観光地の売店など様々な場所で味わうことができます。

ゼリーフライ
Zeri Furai
ゼリーフライは、茹でてつぶしたじゃがいもとおから、刻んだねぎやにんじんなどを混ぜて小判形に成形し、衣をつけずに素揚げしてウスターソースにくぐらせて食べる行田市のご当地グルメです。デザートの「ゼリー」とは関係がなく、小判に似た形から「銭富来(ぜにふらい)」と呼ばれていたものが訛って「ゼリーフライ」になったという説が広く知られています。ルーツは日露戦争に従軍した行田市持田の「一福茶屋」の主人が、中国東北部で食べた野菜まんじゅうをもとにアレンジしたものとされ、明治後期にはすでに存在していたと伝わります。おからをふんだんに使うため食物繊維が豊富でヘルシーな点も特徴で、モチモチとした食感とソースの染みた味わいが人気です。行田市内には専門店や豆腐店、駄菓子屋など複数の店で提供・販売されており、市を代表する庶民のおやつ・軽食として親しまれています。
モデルコース
小江戸川越で芋菓子とうどんを味わうコース
時の鐘・菓子屋横丁を歩きながら川越いもを使った大学いもや芋菓子を味わい、武蔵野の小麦文化を伝える加須うどんの系譜にもふれる、川越の食と歴史を巡るコース。