伝統工芸ジャンル
織物
全国各地の織物を横断的に紹介します。
地域(複数選択可)
59 件
桐生織
Kiryu-ori
桐生織は群馬県桐生市を中心に織られる絹織物で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。その歴史は奈良時代にまでさかのぼり、和銅7年(714年)に朝廷へ絹織物「あしぎぬ」を納めたことが『続日本紀』に記されています。江戸時代には西陣や西洋の技術を取り入れながら発展し、幕府からも厚遇を受けて「西の西陣、東の桐生」と称されるほどの一大産地となりました。糸をあらかじめ染めてから織り上げる先染め紋織り(ジャカード織り)を基本とし、お召織・緯錦織・経錦織・風通織・浮経織・経絣紋織・綟り織という7つの技法を用いる点が最大の特徴です。1977年に伝統的工芸品の指定を受け、現在も桐生織物協同組合を中心に、きもの地や帯地、金襴地、服地から和洋小物まで幅広い製品が作られています。

小千谷縮
Ojiya Chijimi
小千谷縮は、新潟県小千谷市を中心に織られる苧麻(ちょま)の麻織物です。苧麻はラミーとも呼ばれる植物で、その繊維は長く、ハリとコシがあります。緯糸(よこいと)に強い撚りをかけて織り、仕上げに湯もみをすることで、布の表面に「シボ」と呼ばれる細かなしわが生まれます。このシボのおかげで肌にべたつきにくく、通気性と吸湿性に優れた夏の着尺地として親しまれてきました。江戸時代初期、播州明石から来たと伝わる堀次郎将俊(明石次郎)が越後の麻布に改良を加えたことが始まりとされます。2月から3月の晴れた日には、織り上げた反物を雪原に広げる「雪さらし」が行われ、小千谷の風物詩となっています。1955年(昭和30年)に国の重要無形文化財、1975年(昭和50年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。2009年(平成21年)には、越後上布とともにユネスコ無形文化遺産に登録されています。
信州紬
Shinshu Tsumugi
信州紬は、長野県の各地で織られてきた絹織物の総称です。上田紬・松本紬・飯田紬・伊那紬、天蚕糸を使う有明紬(あづみの紬)や山繭紬など、地域ごとに発達した紬をまとめてこう呼びます。信州は古くから「蚕の国」と呼ばれるほど養蚕が盛んな土地でした。江戸時代初期に各藩が養蚕を奨励し、生糸にしにくい繭を真綿にして紡ぎ、農家の副業として織るようになったのが始まりとされます。糸は草木染めで先に染め、手投杼(てなげひ)で緯糸を打ち込む手織りで、縞・格子・絣・無地調に仕上げます。主な製品は着物地や帯、羽織で、近年は洋服やバッグ、ストールも作られています。1975年に国の伝統的工芸品に指定されました。上田市や駒ヶ根市の工房では、手織りの機織り体験ができます。

西陣織
Nishijin-ori
西陣織は京都市北部の西陣地域を中心に生産される先染めの高級絹織物の総称です。糸を先に染めてから文様を織り出す「紋織物」であり、爪掻本綴織・経錦・緯錦・緞子・朱珍・紹巴など、国の伝統的工芸品に指定された12種の技法が伝わります。起源は5〜6世紀頃に大陸から伝わった織技術にまで遡るとされ、平安時代には宮廷の織部司のもとで発展しました。応仁の乱後、避難していた織手たちが西軍の陣地跡で織物業を再開したことから「西陣」の名がついたと伝えられています。江戸時代には大名や豪商に愛用される高級織物として名声を確立し、現在も帯地を中心に日本の着物文化を支え続けています。図案作成から染色、製織まで多くの専門職人が分業で関わり、多品種少量生産の体制を守っている点も大きな特徴です。
置賜紬
Oitama Tsumugi
置賜紬は、山形県南部の置賜地方(米沢市・長井市・西置賜郡白鷹町)で織られる紬織物の総称です。米沢藩主・上杉鷹山が藩の財政再建のため殖産興業政策として織物業を奨励したことに端を発し、米沢紬、長井紬、白鷹紬という3つの産地がそれぞれ独自の技法を育みながら発展してきました。米沢紬は紅花や草木を用いた染めの美しさ、長井紬は緯総絣や経緯併用絣の精緻な柄、白鷹紬は全国でも白鷹町の織元でしか継承されていない「板締め絣」による繊細な小絣模様が特徴です。1976年(昭和51年)、これら3産地の紬が「置賜紬」として経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。素朴で温かみのある風合いと、手仕事ならではの絣模様の美しさが多くの着物愛好家を惹きつけています。

伊勢崎絣
Isezaki-gasuri
伊勢崎絣は群馬県伊勢崎市とその周辺で生産される絹織物で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。産地の歴史は古墳時代の麻織物出土品にまでさかのぼるともいわれ、江戸時代後期に商品としての生産が本格化しました。明治13年(1880年)には伊勢崎太織会社が設立されて品質と生産量が向上し、大正から昭和初期にかけては模様銘仙「伊勢崎銘仙」の生産量が全国の約半分を占めるほどの黄金期を迎えました。手くくりや板締めなどで染め分けた糸を用いる絣技法を得意とし、なかでも経糸と緯糸の両方に絣糸を使って精緻な柄を織り出す「併用絣」は伊勢崎だけで発展した技法とされています。1975年に伝統的工芸品の指定を受け、現在も伊勢崎織物協同組合・伊勢崎織物工業組合を中心に技術が受け継がれています。
塩沢紬
Shiozawa Tsumugi
塩沢紬は、新潟県南魚沼市の塩沢地区を中心に織られる絹の先染め織物です。先染めとは、糸を染めてから布に織る方法のことです。塩沢地方では古くから麻織物が織られ、奈良時代の天平年間にこの地で織られた麻布が正倉院に残されています。この麻織物、すなわち越後上布の技術を絹に取り入れ、江戸時代中期の明和年間(1764〜1771年)ごろに生まれたのが塩沢紬と伝えられます。経糸に生糸や玉糸、緯糸に真綿から手で紡いだ糸を使い、手括りや手摺り込みで染めた絣糸を1本1本合わせて織り上げます。蚊絣(かがすり)と呼ばれるごく細かな絣や、十字絣・亀甲絣の繊細な模様が、上品で落ち着いた趣を醸し出します。1975年(昭和50年)2月に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。同じ塩沢の産地には「塩沢お召」の名で親しまれてきた本塩沢もあり、こちらは1976年(昭和51年)12月に別の伝統的工芸品として指定されています。
近江上布
Omi-jofu
近江上布は琵琶湖東岸の湖東地域、現在の愛荘町・東近江市を中心に織られてきた麻織物で、昭和52年(1977年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。室町時代から続くとされる麻織物の産地で、江戸時代には奈良晒・越後縮と並び称される高級麻織物「高宮布」として、近江商人の手により全国へと流通しました。緯糸に大麻や苧麻の手績み糸を用いる「生平」と、絣模様を織り出す「絣」の二系統があり、盛夏用の高級着尺地として珍重されてきました。麻特有のさらりとした肌触りと通気性の良さから、近代には夏用の蚊帳地としても広く用いられ、近江の暮らしを支えてきました。現在は愛荘町の近江上布伝統産業会館を拠点に、数少ない伝統工芸士によって技術が受け継がれています。

秩父銘仙
Chichibu Meisen
秩父銘仙は埼玉県秩父市を中心に生産される平織りの絹織物で、2013年(平成25年)に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。伝承では崇神天皇の時代に知知夫彦命が住民に養蚕と機織りの技を伝えたことに始まるとされ、当初は規格外の繭を使った野良着「太織」として親しまれ「鬼秩父」の異名でも呼ばれるほど丈夫な普段着でした。転機となったのは1908年(明治41年)、坂本宗太郎が考案した「ほぐし捺染」という独自の技法です。経糸を粗く仮織りしてシート状にし、そこへ型染めを施してから緯糸を織り込むことで、経糸の柄と緯糸の色が重なり合う奥行きのある文様が生まれます。裏表なく染まるため両面使いができるのも特徴で、大正・昭和期にはモダンでファッション性の高いおしゃれ着として全国的な人気を博しました。現在は秩父市内の機屋がその技術を今に伝えています。

博多織
Hakata Ori
博多織は福岡市博多地区で織られてきた絹織物で、経済産業大臣指定伝統的工芸品です。起源は1241年、博多の商人・満田弥三右衛門が禅僧・円爾(聖一国師)とともに宋(中国)へ渡り、織物の技術を持ち帰ったことに始まるとされます。江戸初期の1600年、筑前を治めた黒田長政が幕府への献上品として博多織を選び、毎年帯地を献上する慣例が始まったことから「献上博多織」の名が広まりました。仏具の独鈷と華皿を図案化した紋様に、親が子を守る「親子縞」、子が親を慕う「孝行縞」を組み合わせた献上柄が代表的な意匠です。経糸を密に配して緯糸を強く打ち込む独特の製織法により、厚みと張りのある生地が生まれ、締めるほどに解けにくい帯地として古くから重用されてきました。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、これまでに2人の人間国宝を輩出しています。
伊賀くみひも
Iga Kumihimo (Iga Braided Cords)
伊賀くみひも(いがくみひも)は、三重県伊賀市を中心に作られている組紐です。組紐は、何本もの糸を斜めに交差させて組み上げた紐で、織物に比べて伸縮性があるのが特徴です。絹糸を主に、金糸・銀糸なども使い、丸台・角台・綾竹台・高台(たかだい)などの組台で組み上げます。伊賀の組紐の起源は奈良時代以前にさかのぼるともいわれ、古くは仏具や武具の紐として作られました。地域の産業として大きく発展したのは、明治35年(1902年)に廣澤徳三郎が江戸組紐の技術を持ち帰ってからです。以来、帯締めや羽織紐の一大産地となり、手組みの組紐では全国生産の大半を占めます。1976年(昭和51年)に国の伝統的工芸品に指定されました。現在は製紐機による生産も進み、キーホルダーやアクセサリーなど和装以外の製品も作られています。
十日町絣
Tokamachi Gasuri
十日町絣は、新潟県十日町市と津南町で織られる絹の先染め織物です。先染めとは、糸を先に染めてから布に織る方法のことです。伝統的な越後縮(麻織物)の技法を受け継ぎ、19世紀中頃に絹織物へ応用して誕生しました。あらかじめ部分的に染め分けた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の柄を合わせながら織り進め、縦絣と横絣を自在に組み合わせた繊細な模様を表します。絹独特の艶と落ち着いた風合いが持ち味で、普段着からおしゃれ着まで幅広く用いられます。十日町は古くから織物が営まれてきた土地で、江戸時代には越後縮の産地として知られました。明治以降は夏物の十日町明石ちぢみなどで絹織物産地の基盤を築き、昭和30年代からは十日町友禅に代表される染めの分野にも進出しました。現在は先染めと後染めの両方の技術を持つ全国屈指のきもの総合産地で、十日町絣は1982年(昭和57年)11月に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となっています。

羽越しな布
Uetsu Shinafu
羽越しな布は、山形県鶴岡市関川地区と新潟県村上市山熊田・雷地区に伝わる、シナノキやオオバボダイジュなどの樹皮繊維を糸にして織り上げる布です。木の皮を原料とする織物としては日本最古とされ、縄文時代から続くとされる「原始布」の一つとして、沖縄の芭蕉布、静岡の葛布と並び日本三大古代布に数えられています。糸づくりから機織りまですべての工程が手作業で、22ほどの工程を経て約1年の歳月をかけて仕上げられます。丈夫で水に強く、使い込むほどにしなやかな風合いが増すのが特徴で、かつては野良着や米袋、漁網などに用いられましたが、現在は帽子やバッグ、帯などに姿を変えて受け継がれています。2005年(平成17年)、山形・新潟にまたがる3産地のしな布が「羽越しな布」として経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

佐賀錦
Saga-nishiki
佐賀錦は、金銀箔を漆で和紙に貼り細く裁った「箔糸」を経糸に、絹糸を緯糸にして手織りする絹織物です。江戸時代後期の文政年間、肥前鹿島藩・鹿島鍋島家9代藩主夫人の柏岡の方が、病床で見た部屋の天井の網代組の美しさに着想を得たことが起源とされます。11代藩主夫人の柳岡の方と13代藩主夫人の葛子が、紙糸や綿糸を用いた手遊びの織物として発展させ、後に金銀箔糸と絹糸を用いた高級品へと洗練されました。長らく「おくみもの」「組錦」「鹿島錦」などの名で呼ばれていましたが、1910年(明治43年)のロンドン日英大博覧会に出品され好評を博したことを機に、産地を明らかにする「佐賀錦」の名で統一されるようになりました。精緻な幾何学文様が織りなす金銀の輝きが特徴で、帯や小物などに用いられています。
銚子ちぢみ
Choshi Chijimi
銚子ちぢみは、千葉県銚子市に伝わる木綿の縮み織物です。漁師の妻たちが夫の出漁の安泰と豊漁を願いながら織り始めたのが起源とされ、独特の肌ざわりを持つ夏の着尺地として親しまれてきました。横糸に強い撚りをかけて糊で止め、機織りしたのちに糊を落とすことで、生地の表面に「しぼ」と呼ばれる細かな縮みが生まれるのが最大の特徴です。江戸時代から伝わるとされますが、大正末期には一時生産が途絶え「幻の織物」とまで呼ばれる状況に陥りました。その後、銚子市内で製綿業を営んでいた常世田真次郎が復興に尽力し、昭和29年(1954年)に千葉県の無形文化財に、昭和59年(1984年)には千葉県指定の伝統的工芸品に指定されています。現在は三代目織元・常世田眞壱郎がその技術を受け継ぎ、銚子ちぢみ伝統工芸館で製品の展示・販売や藍染め体験を行っています。
奥会津昭和からむし織
Okuaizu Showa Karamushi-ori
奥会津昭和からむし織は、福島県大沼郡昭和村で栽培される苧麻(からむし)の繊維から糸を績み、織り上げる伝統織物で、国指定の伝統的工芸品です。昭和村でのからむし栽培は室町時代にはすでに始まっていたとされ、会津領主・蘆名盛政の時代に奨励されたと伝わり、江戸時代の1756年には「青苧畑証文」が残るなど600年近い栽培の歴史があります。からむしは吸湿性・速乾性に優れた植物繊維で、小千谷縮や越後上布などの高級織物の原料としても知られています。昭和村では刈り取りから苧引き、糸績み、機織りまでの全工程を今も手作業で行っており、平成6年(1994年)からは「からむし織体験生(織姫・彦星)」制度を設け、村外から訪れた若者に技術を伝承する取り組みを続けています。道の駅からむし織の里しょうわでは、栽培から製織までを紹介するからむし工芸博物館や、実際に織りを体験できる施設も整備されています。
館山唐桟
Tateyama Tozan
館山唐桟は、細い木綿糸を藍や山桃の樹皮などの植物染料で染め、粋な縞模様に織り上げる木綿織物です。桃山時代にインドから伝わった「唐桟留(とうざんどめ)」と呼ばれる縞織物にルーツを持ち、江戸時代には粋な着物地として庶民に愛されました。館山での生産は明治初期、初代齋藤茂助が東京の授産場で川越唐桟の職人から技術を学び、明治23年に館山へ移り住んで工房を開いたことに始まります。以来、齋藤家一子相伝で技術が守られ、他に継承者を持たない全国でも希少な伝統織物となりました。40〜80番手という極めて細い木綿糸を、職人が舌で濃度を確かめながら染め上げ、高機で丹念に平織りしたのち、木槌で打つ「砧打ち」によって独特の光沢としなやかな風合いを生み出します。現在は4代目齋藤裕司氏が館山市長須賀の工房でただ一人、全工程を守り続けています。

久留米絣
Kurume Kasuri
久留米絣は福岡県久留米市を中心とする旧久留米藩地域で織られてきた藍染めの木綿絣で、伊予絣・備後絣と並ぶ日本三大絣の一つです。創始者は江戸時代後期の女性・井上伝で、13歳のとき着古した藍染めの着物の色落ちした部分に白い斑点が浮かんでいるのを見て、糸をあらかじめ括って染め分ける技法を考案し、紺と白のまだらな糸で織り上げる絣模様「加寿利」を生み出したと伝えられています。糸を括って防染し藍で染める「くくり」、染めた糸を解いて柄合わせをしながら織る工程まで、機械化が進んだ現在も約30の工程を経て仕上げられ、完成までに数か月を要します。輪郭がにじんだような素朴で温かみのある風合いが特徴で、1957年に重要無形文化財に指定され、1976年には国の伝統的工芸品にも指定されています。
甲州大石紬
Koshu Oishi Tsumugi
甲州大石紬は、山梨県富士河口湖町の大石地区で織られてきた手織りの絹織物で、県の指定名称は「甲州大石紬織物」です。河口湖の北岸にあたるこの地域では、養蚕から糸づくり、機織りまでを手作業で一貫して行ってきました。経糸(たていと)には一匹の蚕が作る本繭の糸、緯糸(よこいと)には二匹の蚕が一緒に作る玉繭の糸を使います。糸は、座繰り(ざぐり)という道具で繭から手で引き出します。丈夫で軽く柔らかく、絹特有の滑らかさを備えた風合いが特徴です。郡内地域の織物については、915年に絹を朝廷へ献上したという記述が残ります。江戸時代末期には、富士講の人々や行商人の手で広く売り出されました。1994年に山梨県郷土伝統工芸品に指定されています。大石紬伝統工芸館では、機織りの見学や手織りの体験ができます。

行田足袋
Gyoda Tabi
埼玉県行田市に伝わる足袋づくりの伝統技術で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品です。利根川と荒川に挟まれた行田は、堆積した砂質土と豊富な水、夏の高温多湿な気候が綿花や藍の栽培に適しており、江戸時代には藍染めの綿織物「青縞」の一大産地となりました。この綿布と縫製技術を活かし、貞享・享保年間(17世紀末〜18世紀前半)頃には足袋づくりが始まったと伝えられ、天保年間には27軒もの足袋屋が軒を連ねるまでに発展しました。明治期にミシンが導入されると生産量は飛躍的に増加し、1938年には全国シェアの8割を占める日本一の足袋産地となりました。往時の隆盛を今に伝える土蔵・煉瓦造りなどの「足袋蔵」が市内に数多く残り、2017年には日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」に認定されています。関連資料5,484点は国の重要有形民俗文化財にも指定され、現在も市内のメーカーが和装用から祭り用、ランニング用まで幅広い足袋を製造し続けています。
首里織
Shuri-ori
首里織は、琉球王国の城下町として栄えた首里で発展した織物の総称で、花織・道屯織・手縞・花倉織・綾の中という5つの技法から成ります。14〜15世紀頃、中国・東南アジアとの盛んな交易を通じて織の技術が培われ、王府のお膝元である首里では、王族・士族の礼装や冊封使への献上品として、色・柄ともに究極まで追求された格調高い織物が生み出されました。中でも花倉織・道屯織は王家・貴族専用とされ、他の地域では織ることが許されない首里だけの技法として発展しました。素材には絹糸を中心に木綿糸・麻糸・芭蕉糸が用いられ、琉球藍や福木などの植物染料で染められます。1983年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品となり、現在も那覇伝統織物事業協同組合を中心に技術が継承されています。
鍋島緞通
Nabeshima Dantsu
鍋島緞通は、佐賀城下郊外の嘉瀬郷扇町村を発祥とする日本最古の綿緞通(手織りの敷物)です。江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)、農夫の古賀清右衛門が長崎で中国人から緞通の織り方を学び、「扇町毛氈」として織り上げたのが始まりと伝えられます。中央アジアからトルコ、中国を経て伝わったとされる技術は、羊毛を用いる海外の緞通と異なり、経糸・緯糸のすべてに佐賀県白石産などの上質な木綿を用いる点が特徴です。佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂がその評判を喜んで扶持米を与えて保護したことから藩の御用品となり、一般への売買は長らく禁じられていました。明治時代に一般販売が始まり、1873年のウィーン万国博覧会にも出品されています。現在も数百年前と変わらぬ手織り機を用い、職人が一枚ずつ丁寧に織り上げる貴重な工芸品として受け継がれています。

牛首紬
Ushikubi-tsumugi
牛首紬は、霊峰白山のふもと、石川県白山市白峰(旧牛首村)で約800年にわたり織り継がれてきた絹織物です。最大の特徴は、二匹の蚕が共同で一つの繭を作る「玉繭」を原料とすることで、繭を熱湯で煮ながら手で直接糸を引き出す「座繰り」という昔ながらの製糸技法が用いられます。この玉糸は不規則な節を含みながらも弾力性・伸張性に富み、独特のしなやかな光沢と丈夫さを兼ね備えた生地を生み出します。釘を引っかけても破れないほどの強さから「釘抜き紬」の異名を持つほどで、日常づかいにも耐える実用性の高さが評価されてきました。豪雪地帯である白峰では、傾斜地が多く耕地に恵まれなかったため、古くから養蚕が貴重な現金収入源となり、女性たちの手仕事として紬織りが受け継がれてきました。現在も白峰の織元が中心となって伝統を守り続けています。

郡内織物(甲斐絹)
Gunnai Textiles (Kaiki Silk)
郡内織物は、山梨県東部の郡内地域、とくに富士山麓の富士吉田市と西桂町を中心に織られてきた先染めの織物です。平安時代の法令集『延喜式』には甲斐国が布を納める国として記され、千年以上続く織物の産地とされています。江戸時代には郡内縞などの絹織物が井原西鶴の浮世草子に登場するほど知られました。南蛮貿易で伝わった「海気(かいき)」を源流とする甲斐絹(かいき)は、羽織の裏地に使われる高級絹織物として、江戸時代から昭和初期まで盛んに織られました。甲斐絹そのものは1940年代に姿を消しましたが、「先染め・細番手・高密度」の技術は今も受け継がれています。現在は傘地やネクタイ地、服地、インテリア生地などを手がけ、国産ネクタイ生地の4割に使われています。機屋(はたや)が集まる富士吉田は「ハタオリマチ」とも呼ばれます。
読谷山花織
Yomitanzan Hanaori
読谷山花織は沖縄本島中部の読谷村に伝わる紋織物で、経糸・緯糸を浮かせて織り出す幾何学的な花模様が特徴です。琉球王国が中国や東南アジアとの交易で栄えた14〜15世紀頃、大陸から伝わった浮織の技法が読谷山(現在の読谷村)で独自に発展したのが起源とされ、王府への献上布や士族の衣装として珍重されてきました。明治以降は衰退し、第二次世界大戦の沖縄戦でほぼ途絶えかけましたが、1964年に読谷村の有志が古老の記憶や残された古布を頼りに復元に取り組み、約90年ぶりに技術がよみがえりました。復興の担い手たちはやがて読谷山花織事業協同組合を結成し、後継者の育成や技術の継承にあたっています。柄には「銭花(ジンバナ)」「扇花(オージバナ)」「風車花(カジマヤーバナ)」の3種の基本文様があり、それぞれ富貴・子孫繁栄・長寿への願いが込められています。1976年に国の伝統的工芸品に指定され、木綿や絹の帯・着尺のほか、ミンサー帯など幅広い製品が作られています。
久米島紬
Kumejima Tsumugi
久米島紬は沖縄本島の西方に浮かぶ久米島で、養蚕から染色、織りまでの全工程を一人の織り手が手作業で行う絹織物です。15世紀頃には久米島ですでに養蚕が行われていたとみられ、1637年に琉球王府への貢納布に定められて以降、精緻な技術が磨かれてきました。日本各地の紬絣技法は久米島を起点に沖縄本島や奄美大島を経て本土に伝わったとされ、大島紬や結城紬など全国の紬織物の源流の一つとも言われています。糸を紡ぐことから、模様選定、染め、機織りまでを一人の織り手が一貫して手がける点が大きな特徴で、フクギやグール(サルトリイバラ)、テカチ(車輪梅)などの草木染めを重ねたうえ、島の泥を用いた泥染めで鉄媒染することで、深みのある黒褐色や渋い光沢を生み出します。1975年に国の伝統的工芸品に指定され、2004年には国の重要無形文化財にも指定されました。久米島紬事業協同組合が中心となって技術継承にあたっており、久米島紬の里ユイマール館では製作工程の見学や織り染め体験ができます。

松阪木綿
Matsusaka Momen (Matsusaka Cotton)
松阪木綿(まつさかもめん)は、三重県松阪市と明和町で作られている綿織物です。天然の藍で先に染めた糸を使い、細い縞模様に織り上げるのが特徴です。この縞は「松阪縞」とも呼ばれます。松阪周辺は古くから紡織が盛んな土地で、15世紀ごろ綿が伝わると、その技術が木綿織りに受け継がれました。江戸時代には農家の副業として盛んに織られ、三井家・長谷川家・小津家などの松阪商人が江戸で売り広めます。遠目には無地に見え、近づくと縞が分かる柄が、倹約令の時代に「粋」と好まれました。多い時には年に50万〜60万反が江戸で売られたといわれます。現在は御絲織物が機械織りで生産を続け、手織りの技は松阪もめん手織り伝承グループゆうづる会などが伝えています。三重県指定伝統工芸品です。

掛川葛布
Kakegawa Kuzufu (Kakegawa Kudzu Cloth)
掛川葛布(かけがわくずふ)は、静岡県掛川市で織り継がれてきた布です。山野に自生する葛(くず)のつるから繊維を取り出して糸にし、緯糸(よこいと)として手織りで織り上げます。絹や麻とは違う、やさしく落ち着いた光沢と渋みが持ち味です。鎌倉時代にはすでに武家の装束などに使われたと伝わります。江戸時代には掛川藩の保護奨励を受け、裃(かみしも)地や袴地、合羽地として珍重されました。東海道の掛川宿を通る参勤交代の大名の土産品にもなりました。明治に入って武士の需要を失うと、襖地へと用途を移して復活します。明治30年頃からは壁紙として米国へ輸出されました。現在は2軒の織元が、つるの採取から手織りまで昔ながらの手仕事を守っています。「掛川手織葛布」の名で静岡県の郷土工芸品に指定されています。

京くみひも
Kyo-kumihimo
京くみひもは、京都市や宇治市周辺で作られる組紐で、丸台・角台・高台など複数の組台を使い、数十本の絹糸を職人が手で組み上げて一本の紐に仕立てる伝統工芸品である。基本の組み方だけで約40種類、模様のバリエーションを含めると3,000種類を超えるといわれるほど技法が多彩で、複雑に組み上げられた繊細な編み目と優美な光沢が特徴となっている。かつては神具・仏具や武具の紐、装身具として用いられ、現代では着物の帯締めや羽織紐を中心に、アクセサリーなど幅広く使われている。1976年に国の伝統的工芸品に指定された。

芭蕉布
Bashofu
芭蕉布は、糸芭蕉(イトバショウ)という植物の茎から採った繊維を糸にして織る、沖縄を代表する夏の織物です。古い記録では13世紀頃にはすでに織られていたとされ、15世紀頃には現在とほぼ同じ製法が確立していたと伝えられます。琉球王国時代には王府直営の芭蕉園で栽培が行われ、王族の衣服から庶民の普段着まで幅広く使われる、沖縄で最も身近な布でした。中でも国頭郡大宜味村喜如嘉は昔から芭蕉布の一大産地として知られています。第二次世界大戦の沖縄戦により生産は壊滅的な打撃を受けましたが、戦後まもなく平良敏子氏が製作技術の復興に着手し、喜如嘉の地で技術を再興させました。1974年に「喜如嘉の芭蕉布」として国の重要無形文化財に指定され、平良敏子氏を中心とする喜如嘉の芭蕉布保存会がその保持団体に認定されました。糸芭蕉の栽培から糸績み、絣括り、染め、機織りまで3年がかりの工程を経て仕上がる、張りのある清涼な風合いが特徴で、平良敏子氏は2000年に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されています。
遠州綿紬
Enshu Men Tsumugi (Enshu Cotton Pongee)
遠州綿紬(えんしゅうめんつむぎ)は、静岡県西部の遠州地方で織られてきた綿織物です。遠州は温暖で日照時間が長く、江戸時代から三河・泉州と並ぶ綿の産地として栄えました。農家の副業として手織りの綿織物が広まり、縞柄の木綿は「遠州縞(えんしゅうじま)」と呼ばれるようになります。凹凸のあるネップ糸やスラブ糸を経糸と緯糸に使い、昔ながらのシャトル織機でゆっくり織ることで、紬のような素朴な風合いが生まれます。洗うほどに糸の撚りがほぐれて空気を含み、肌ざわりが柔らかくなるのも特徴です。遠州は明治以降、豊田佐吉らの織機の発明もあって日本有数の織物産地に成長しました。現在は浜松市のぬくもり工房が、常時100柄以上の生地や小物を手がけています。浜松の繊維デザインのルーツともいわれ、地域を代表する織物として親しまれています。
加賀繍
Kaga-nui
加賀繍(かがぬい)は、絹糸や金糸・銀糸を用いて立体感のある図柄を浮かび上がらせる石川県の刺繍工芸です。室町時代初期、加賀地方への仏教布教とともに、仏前を飾る打敷や僧侶の袈裟を彩る装飾技術として京都から伝えられたのが始まりとされます。江戸時代に入ると歴代加賀藩主の手厚い保護を受け、武士の陣羽織や能装束の装飾にも用いられるようになり、金沢箔や加賀友禅と並ぶ加賀の伝統染織文化として独自の発展を遂げました。「くさりぬい」「まつりぬい」「すがぬい」など多彩な技法を駆使し、絵画のような繊細さと立体感を糸で表現できる点が最大の特徴です。1991年5月には通商産業大臣(現・経済産業大臣)により国の伝統的工芸品に指定され、現在も金沢市・白山市・能美市を中心に、装束から現代のアクセサリーまで幅広い製品が手がけられています。
宮古上布
Miyako Jofu
宮古上布は宮古島に伝わる麻織物で、越後上布・小千谷縮と並び称される、薄く軽やかで光沢のある夏の最高級織物です。16世紀に稲石という女性が琉球国王に「綾錆(あやさび)布」を献上したのが始まりと伝えられ、1637年に人頭税制度のもとで宮古・八重山地方の上納布に定められて以降、極めて精緻な織物であることが求められ、その技術が今日まで受け継がれてきました。原料には島で育つ苧麻(ちょま)を用い、結び目を作らずに繊維を手で細く裂いて撚り合わせる「手績み(てうみ)」という根気のいる工程で糸を作ります。藍染めの濃紺地に細かな十字絣を織り出した意匠が代表的で、織り上げた後に木槌で打つ「砧打ち」の仕上げによって独特のしなやかな光沢が生まれます。糸づくり、藍染め、機織り、洗濯(仕上げ)、補修という各工程がそれぞれ専門の職人による分業で行われる点も特徴です。1978年に国の重要無形文化財に指定され、2003年には苧麻糸の手績み技術が国の選定保存技術に認定されました。

仙台平
Sendai-hira
仙台平は仙台市で織られる男性用袴地の絹織物で、江戸時代中期の貞享・元禄年間(1680年代~1704年ごろ)、仙台藩四代藩主・伊達綱村が御用織物師を召し抱え、袴地や能装束などを織らせたことに始まると伝えられます。撚りをかけた生糸を経糸に、生糸に近い緯糸を水で湿らせながら強く打ち込んで織り上げることで、しなやかで張りがあり、しわになりにくく、光沢と衣擦れの音を持つ独特の風合いが生まれます。江戸から明治・大正期にかけて袴地の最高峰として名を馳せ、最盛期には年間30,000反もの生産量を誇りましたが、需要の減少とともに織元は次第に減り、現在は「合資会社仙台平」がただ一社その伝統を守り続けています。中でも最高級とされる「精好仙台平」は2002年に国の重要無形文化財に指定され、当主・甲田綏郎氏は人間国宝として認定されています。1985年(昭和60年)には宮城県知事指定伝統的工芸品にも指定されました。
大津くみひも
Otsu Kumihimo
大津くみひもは、大津市逢坂を中心に伝わる組紐(くみひも)の伝統的工芸品です。組紐は仏教伝来とともに日本に伝わり、当初は経巻や袈裟の紐、公家・武家の装束の紐として用いられてきました。大津では江戸時代、東海道を通って京都へ入る武士や町人の刀の下げ緒や印籠の紐を修理したことが始まりと伝えられています。丸台・角台・綾竹台・内記台など複数の組台を使い分けながら、糸を編み組んで一本の紐に仕立てる手仕事で、高級品には草木染めを施した糸が用いられます。現在も逢坂で慶応3年(1867年)創業の藤三郎紐が唯一の組紐屋として技術を受け継ぎ、帯締めや羽織紐、ストラップなどの小物まで、幅広い製品を手がけています。
会津木綿
Aizu Momen
会津木綿は福島県会津地方で約400年にわたり織り継がれてきた綿織物です。安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)、会津藩主・蒲生氏郷が若松城下町の整備とあわせて綿花栽培を奨励したことに始まり、寛永4年(1627年)には藩主・加藤嘉明が前領国の伊予松山から織師を招いて技術を伝えたことで、本格的な生産が広がったと伝えられています。丈夫で洗うほどに風合いが増す素朴な縞模様の木綿織物として、江戸時代から庶民の普段着や野良着に用いられてきました。最盛期の大正時代には会津若松周辺に約30軒の織元が軒を連ねましたが、現在は会津若松市内に2軒、会津坂下町に1軒を残すのみです。福島県の伝統的工芸品に指定されており、昭和初期の旧式織機を使い続ける織元が、縦縞や格子縞を中心にした生地を今も織り出しています。
堺手織緞通
Sakai Teori Dantsu (Hand-Woven Carpets)
堺手織緞通(さかいておりだんつう)は、江戸時代後期に堺で始まった手織りの敷物です。緞通(だんつう)は厚手の織物の敷物のことで、技法は中国から伝わり、肥前の鍋島藩を経て播州赤穂と泉州堺に広まったとされます。堺では天保2年(1831年)、糸物商の藤本庄左衛門が泉利兵衛に織らせて「堺緞通」として売り出したのが始まりです。明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会への出品で、広く知られるようになりました。庄左衛門の孫で「緞通王」と呼ばれた藤本荘太郎は技術を改良し、自ら渡米して海外への普及に努めます。明治中期には国内外へ盛んに出荷され、最盛期を迎えました。熟練を要する手織りの技法で、丈夫で重厚な仕上がりになります。1986年(昭和61年)に大阪府の伝統工芸品に指定されました。2006年(平成18年)には、その技術が大阪府の無形民俗文化財にも指定されています。
三河木綿
Mikawa Momen
三河木綿は、愛知県東部の三河地方(西尾市・蒲郡市・豊川市周辺)で古くから栽培・生産されてきた綿織物の総称です。伝承によれば、延暦18年(799年)に崑崙人(インド人と伝わる)が漂着した際に伝えた綿種が、日本における綿栽培の始まりとされ、その地が三河国幡豆郡(現・西尾市)であったといいます。文献上の初見は永正7年(1510年)で、興福寺大乗院の記録「永正年中記」に年貢として「三川木綿」が納められたことが記されています。江戸時代には三河地方一帯で綿花栽培と綿織物業が盛んになり、「三白木綿」として江戸方面へも送られました。明治以降は西洋の紡織技術を取り入れながら発展し、「三河木綿」「三河縞」のブランド名で全国に知られるようになりました。独特の縦縞模様と淡い藍色を特徴とする「三河縞」や、保温性・吸水性に優れた多重織ガーゼなどの製品があり、2007年には地域団体商標として登録されています。
秋田八丈
Akita Hachijo
秋田八丈は、ハマナスの根皮やカリヤス、レンゲツツジといった植物染料で染め上げた絹糸を用いる、鳶色(とびいろ)を基調とした縞・格子模様の絹織物です。天明4年(1784)頃、石川滝右衛門らによって織物の技術がもたらされたのが始まりとされ、伊豆諸島の「本場黄八丈」に通じる草木染めの技法を土台に、文化年間には上州桐生から職人を招いて改良が重ねられました。明治36〜37年(1903〜1904)頃に生産の最盛期を迎えましたが、その後は徐々に生産者が減少し、最後まで生産を続けていた滑川織物工場(秋田市)が2003年に廃業したことで、一度は途絶えます。2006年、同工場の元従業員だった奈良田登志子氏が設備を譲り受けて北秋田市に工房を設立し、技術を一人で復活させました。2023年には工房を移転して「秋田八丈はまなす工房」と改称、現在も奈良田氏がただ一人の生産者として糸の染めから織りまでを手がけながら、地域おこし協力隊員への技術継承にも取り組んでいます。

福井羽二重
Fukui Habutae
福井羽二重は、明治時代に福井県で盛んに織られた輸出向けの絹織物です。羽二重は、撚りのない細い経糸(たていと)を2本引きそろえて平織にした生地で、軽く柔らかく、白く美しい光沢を持ちます。福井では明治初期に京都へ伝習生を送るなど、新しい絹織物の研究が始まりました。1880年代後半には、先進地の桐生から技術者を招いて羽二重の製織技術を導入します。技術は県内一円に広がり、1890年代前半には福井県の絹織物の生産額が全国1位となりました。大正初期にかけて電動の力織機が普及し、北陸は全国有数の輸出羽二重の産地へと成長します。その後は人絹(レーヨン)や合成繊維へと転換し、福井は今も国内屈指の繊維産地です。勝山市では緯糸を濡らして織る「ぬれよこ羽二重」の生産が続いています。福井銘菓の羽二重餅も、この羽二重織にちなんで名付けられました。
京繍(京刺繍)
Kyo-nui
京繍(京刺繍)は、一本の針と多色の絹糸・金銀糸を用いて布地に模様を縫い表す京都の伝統的な刺繍工芸である。平安京遷都に伴い宮中の衣服装飾を担う「縫部司(ぬいべのつかさ)」が置かれたことに始まり、十二単や武将の胴服、能装束、小袖などとともに発展してきた。染や織と並んで日本の染織史上重要な位置を占め、全体の構図、繍糸の配色、繍技・繍法が一体となることで、平面の布に立体感と情趣あふれる表現を生み出す点が特徴である。現在も約30種の技法が伝わり、そのうち繍切り・駒使い繍・まつい繍など15種が経済産業大臣指定の伝統的工芸品の技法として認められている。近年は和装品にとどまらず、額装作品や小物などにも応用され、新たな需要が開拓されている。
ならくみひも
Nara Kumihimo
組紐(くみひも)は、複数の絹糸を交差させながら束ねて紐状に組み上げる伝統技術で、飛鳥・奈良時代に仏教の伝来とともに大陸から伝わったとされています。正倉院宝物や法隆寺伝来の宝物には古代の組紐の遺品が残されており、伝統的な組紐の技法の中には、正倉院に伝わる聖武天皇ゆかりの品に見られる組み方にちなんで「奈良組」と呼ばれる技法が今も伝えられているなど、奈良は組紐の歴史を語るうえで欠かせない土地です。奈良時代には経典や袈裟などの仏具に用いられた組紐は、時代を経て武具の紐や茶道具、江戸時代末期以降は女性の帯締めとしても広く使われるようになりました。現在、奈良市西ノ京の工房「ならくみひも鳳美」では、角台・丸台・高台といった伝統的な組み台を用いた組紐づくりが受け継がれ、教室や体験プログラムを通じてこの技術を今に伝えています。

越中福岡の菅笠
Ecchu Fukuoka no Sugegasa
越中福岡の菅笠は、富山県高岡市福岡町一帯で作られてきた菅(スゲ)製の笠で、日除け・雨除けとして全国の農作業や祭礼で使われてきた400年以上の歴史を持つ。起源は400年以上前、小矢部川の氾濫によって沿岸一帯が泥沼状になった際、質の良いスゲが自生するようになり、村の副業として笠づくりが始まったことにあるとされる。江戸中期の1670年頃には加賀藩主・前田綱紀の保護と奨励を受けて産業として本格化し、江戸後期には福岡町に笠問屋が生まれて日本全国へ直接販売されるようになった。最盛期の1864年には210万枚もの菅笠が出荷されたと伝わる。竹をひご状に加工して円錐状に組み立てる「笠骨づくり」と、菅笠用に栽培したスゲを笠骨に縫いつける「笠縫い」を男女で分業しながら、栽培から仕上げ・出荷までの全工程を地域内で完結させている点が特徴で、現在も全国生産の約9割を占める。2009年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2017年には経済産業大臣指定伝統的工芸品にも指定された。
間々田ひも
Mamada Himo
間々田ひもは、栃木県小山市間々田に鎌倉時代から伝わるとされる組紐(くみひも)の技術です。糸の両端に重りをつけて常に張りを保ちながら幾本もの糸を交差させていく技法で、複雑で緻密な文様を持つ紐を編み上げます。金糸・銀糸や草木染めの正絹糸を用いた美しい仕上がりが特徴で、かつては武士の甲冑の緒や刀の下げ緒として使われてきました。現在の産地としての歩みは大正11年(1922年)、初代渡辺浅市が東京・錦糸町での組紐修業を終えて間々田に帰郷し店を開いたことに始まります。1954年には民藝運動の柳宗悦がこの技術を「間々田紐」と命名し、1964年に小山市無形文化財、1973年に栃木県無形文化財に指定されました。渡辺家が代々技術を継承し、現在は帯締めや羽織紐、ループタイなどの和装小物・雑貨として親しまれています。
岩手ホームスパン
Iwate Homespun
岩手ホームスパンは、羊毛を手で紡いだ糸を手織りで仕上げる毛織物です。明治14年(1881年)頃、二戸地方に緬羊が導入された際、駐在していた英国人宣教師が織り方を指導したのが始まりと伝えられています。その後、旧東和町(現・花巻市)の梅原乙子・五郎親子が事業として発展させ、盛岡の「みちのくあかね会」や「日本ホームスパン」など複数の工房・企業に技術が広まりました。手紡ぎならではの弾力性としわになりにくい風合い、軽やかな着心地が特徴で、植物染料による落ち着いた色合いも魅力です。手紡ぎによる生産が今も続く産地は全国でも岩手だけといわれ、ストールやマフラーなどの製品が親子三代にわたって使えるほど丈夫な布として親しまれています。

結城紬
Yuki-tsumugi
結城紬は現在の茨城県結城市を中心に、鬼怒川を挟んだ栃木県小山市一帯にかけて織り継がれてきた絹織物である。原型は奈良時代に常陸国から朝廷へ献上された「絁(あしぎぬ)」とされ、鎌倉時代には見た目が質素で丈夫なことから関東の武士に好まれて結城地方が生産の中心となり、室町時代には「結城紬」の名で幕府へ献上される特産品として知られるようになった。慶長年間(1596〜1615年)には代官・伊奈忠次による改良振興を経て技法が確立し、1977年3月30日に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、2010年にはユネスコ無形文化遺産にも登録された。最大の特徴は、真綿を手でつむいだほぼ無撚りの糸を、経糸を織り手の腰に結わえて体全体で織る「地機(いざり機)」の技法にあり、生糸で織った反物より軽く、絣模様の細やかさとともに独特のやわらかな着心地を生み出している。

作州絣
Sakushu Kasuri
作州絣は岡山県津山市を中心とする美作地方に伝わる木綿絣の織物です。津山地方では古くから高級絹織物が織られていましたが、17世紀初め頃から綿花栽培が広まり、手つむぎの木綿糸を紺屋で藍染めした紺無地や縞物が庶民の衣服として織られるようになりました。明治初期には鳥取県の倉吉絣の影響を受けて木綿紺絣が普及しましたが、大量生産される他産地の織物に押されて生産・技術ともにほぼ途絶えかけた時期もありました。戦後、津山市の産業振興策の一環として作州絣が見直され、昭和30年頃には東京で人気を集め、最盛期には動力織・手織を合わせて年間三万反を生産するまでになりました。1981年には「手織作州絣」として岡山県郷土伝統的工芸品に指定されましたが、その後織り手が途絶える時期もあり、2012年に日名川茂美が正式な後継者として認定されたことで技術が再び受け継がれています。藍色に映える幾何学模様は、糸を紐で括って防染する「括り」の技術によって生み出されます。

児島デニム
Kojima Denim
児島デニムは岡山県倉敷市児島地区で作られるデニム生地・ジーンズの総称で、児島は「国産ジーンズ発祥の地」として知られています。江戸時代、遠浅の海を干拓して生まれた児島の土地では塩分に強い綿花の栽培が盛んになり、綿織物業を基盤として小倉織や真田紐づくりが発達しました。明治・大正期には足袋や学生服の産地として発展し、この繊維産業の技術とノウハウが、後のデニム・ジーンズ産業へと受け継がれていきます。1965年、マルオ被服(現ビッグジョン)の尾﨑小太郎がアメリカから輸入したデニム生地を使い、学生服づくりの縫製技術を応用して日本初の国産ジーンズを製造・販売しました。1973年には倉敷紡績が国産デニム生地の生産に成功し、児島は糸から生地、縫製、洗い加工までを一貫して手がけられる産地として発展しました。現在、児島駅から続く「児島ジーンズストリート」には約40店のジーンズ専門店が軒を連ね、国内外から多くの人が訪れる観光名所になっています。

倉敷帆布
Kurashiki Hanpu
倉敷帆布は岡山県倉敷市児島地区で作られる厚地の綿織物で、帆船の帆布として発展した歴史を持ちます。児島は江戸時代の干拓地で塩分に強い綿花の栽培が盛んになり、海の恵み「いかなご」「塩」の白と合わせて「児島三白」と呼ばれるほど綿産業が発達しました。播州高砂の工楽松右衛門が考案した太糸を用いる織機の技術が伝わったことで、丈夫で厚みのある帆布づくりの土台が築かれたとされます。近代の倉敷帆布の直接のルーツは1888年、武鑓石五郎・梅夫婦が倉敷で創業した織物工場に遡り、梅の手織りの技が地元の木綿問屋の間で評判となったことから事業が拡大していきました。現在は綿100%の原糸数本を撚り合わせる糸撚りの技術と、旧式のシャトル織機によって、極厚の1〜3号帆布まで織り上げられる稀少な産地となっています。シャトル織機ならではの美しい「耳(セルヴィッジ)」と、凹凸のある温かみのある風合いが特徴で、現在はバッグや雑貨など日用品としての用途が広がっています。

倉敷緞通
Kurashiki Dantsu
倉敷緞通は岡山県倉敷市で織られる手織りの敷物で、い草と和紙、麻や綿の糸を組み合わせて織り上げる点が特徴です。倉敷は江戸時代から畳表や花ござの産地として知られ、昭和初期に早島町の発明家・矢吹貫一郎が洋風建築にも合う敷物として「金波織」を考案したのが始まりとされます。1932年、民芸運動家の柳宗悦がこの敷物を見出し、図案家の芹沢銈介に縞柄の意匠を依頼したうえで「倉敷緞通」と名付けました。戦後は手織りのまま最盛期を迎え海外にも輸出されるほどの人気を博しましたが、原材料費の高騰や職人の高齢化により1986年に生産が途絶えました。1991年発足の伝統産業復興研究会に加わった瀧山雄一氏が技術を独学で習得し直し、1993年に生産を再開。現在は瀧山氏がほぼ唯一の作り手として、倉敷市早高の工房で製作を続けています。
村山大島紬
Murayama Oshima Tsumugi
村山大島紬は、東京都武蔵村山市を中心に瑞穂町・昭島市周辺で織られてきた絣模様の絹織物である。江戸時代の元禄期(1688〜1704年)頃に始まった縞模様の木綿織物「村山紺絣」と、玉繭から紡いだ絹糸で織る「砂川太織り」という二つの織物文化を源流とし、明治中期以降の絹織物需要の高まりを受けて、大正9年(1920年)頃にこの二つが合流する形で絹織物としての村山大島紬が生まれた。名称に「大島」を冠するが、奄美大島で織られる本場大島紬とは全くの別物で、最大の違いは絣糸の染色技法にある。奄美の大島紬は締機(しめばた)を用いた泥染めなど手間のかかる技法で精緻な絣を生み出すのに対し、村山大島紬は1919年に群馬県伊勢崎から伝わった「板締め染色」という技法を用いる。文様を彫刻した型板の間に糸を挟んで締めつけながら染色することで、経糸と緯糸を寸分違わず柄合わせした精巧な絣模様を、比較的手頃な価格で実現できるのが特徴である。手触りが滑らかで軽く、男物は控えめで上品な細かい絣、女物はシックで年齢を問わず着られる意匠が持ち味とされる。1975年(昭和50年)に国の伝統的工芸品に指定された。

津軽こぎん刺し
Tsugaru Kogin-zashi
津軽こぎん刺しは、青森県弘前市を中心とする津軽地方に伝わる刺し子の技法です。江戸時代、津軽藩では農民の衣服は麻布に限られ木綿の着用が許されていなかったため、寒さの厳しい津軽の女性たちは野良着の麻布に木綿糸で目を刺し埋めることで、保温性と丈夫さを高める工夫を重ねました。縦の織り目を一・三・五と奇数目で数えながら幾何学模様を構成していく点が最大の特徴で、作られた地域によって大柄が特徴の「東こぎん」、横縞で模様を区切る「西こぎん」、太い三本縞が入る「三縞こぎん」の三系統に分かれます。明治以降、木綿が普及すると一時衰退しましたが、昭和初期の民藝運動の中でその造形美が再評価され、現在も弘前を中心に技術が受け継がれています。青森県を代表する刺し子文化として、菱形文様を特徴とする南部菱刺しとしばしば対比されます。

東京くみひも
Tokyo Kumihimo
東京くみひもは東京都台東区・杉並区・北区などで作られる絹糸を主素材とした組紐で、丸台・角台・綾竹台・高台といった専用の組台を用いて糸を編み組み上げる伝統工芸品である。起源は仏教伝来とともに伝わった経巻や袈裟の紐、貴族の礼服に添える帯にさかのぼり、武家社会では鎧兜のおどし糸や刀の下緒として実用性と美しさを兼ね備えた組み方が発達した。公家文化を背景に華やかな京くみひもに対し、東京くみひもは武家社会と江戸町人文化の影響を受け、主張し過ぎない渋みのある色合いと堅牢な組み目を特徴とする。江戸時代後期から明治以降は帯締めや羽織紐など庶民の装いに広く用いられるようになり、1652年創業の老舗「道明」をはじめとする組紐処が今もその技を受け継いでいる。現在は帯締めのほか、ネクタイやアクセサリーなど現代の暮らしに合わせた製品も作られている。
奈良晒
Nara-zarashi
奈良晒は、奈良を中心に生産されてきた高級麻織物です。室町時代後期の記録である「多聞院日記」の天文18年(1549年)の記述に晒しに関する言及が見られ、江戸時代の慶長16年(1611年)には徳川家康の命により、晒された麻布の端に「南都改」の朱印が押されたものでなければ販売できない仕組みが整えられ、幕府御用達の品として全国に流通しました。享保年間(1716〜1735年)には「麻の最上は南都なり」と称されるほど名声を高め、年間30万〜40万疋もの生産量を誇ったと伝えられています。苧麻(ちょま)を手で績んだ糸を用い、機で織り上げた布を晒して純白に仕上げる工程はすべて手作業で行われ、僧侶の袈裟や武士の裃、茶巾など格式の高い品に用いられてきました。明治以降は需要の変化とともに生産規模を大きく縮小させましたが、江戸時代創業の老舗織元が今も手仕事によってその技術を伝えています。
南部菱刺し
Nanbu Hishizashi
南部菱刺しは青森県南部地方、八戸市を中心に受け継がれてきた刺し子の技法で、津軽地方のこぎん刺しと並び青森県を代表する刺し子文化の一つです。江戸時代、木綿の着用を禁じられていた農村の女性たちが、麻布を丈夫にし寒さをしのぐために木綿糸で刺し重ねたことに始まるとされ、およそ200年前に八戸を中心とする南部地方で生み出されたと伝わります。こぎん刺しが縦の織り目を奇数目数えるのに対し、菱刺しは偶数目を数えながら刺し進める点が大きな違いで、「梅の花」「雉の足」などと呼ばれる横に長い菱形文様の幾何学模様を織りなします。現在は前掛けや卓布といった伝統的な品に加え、ネクタイやタペストリーなど現代の生活に合わせた製品にも応用され、八戸市内の工房や教室で技術が受け継がれています。同じ青森県内でも津軽と南部で異なる刺し子文化が育まれてきた点も興味深いところです。
南部裂織
Nanbu Sakiori
南部裂織は青森県十和田市を中心に伝わる手織りの技法で、着古した木綿布を細く裂いて緯糸とし、麻糸や木綿糸を経糸にして織り上げる再生織物です。江戸時代、寒冷な南部地方では木綿布が大変貴重であったため、着られなくなった古布も裂いて糸にし、着物やこたつ掛けなどに仕立てて最後まで使い切る知恵として発展しました。昭和23年(1948年)の大麻取締法制定により経糸に用いていた麻の栽培ができなくなったことなどから一時は技術の継承が途絶えかけましたが、昭和50年(1975年)に十和田市出身の菅野暎子氏が南部裂織保存会を設立して教室を開き、技法の掘り起こしと普及に努めたことで復興を遂げました。古布を無駄にせず新たな布へと生まれ変わらせるその手法は、現代ではサステナブルな工芸としても改めて注目されています。

二風谷アットゥシ
Nibutani Attus
二風谷アットゥシは、北海道沙流郡平取町二風谷地区に伝わるアイヌ民族の樹皮織物です。沙流川流域に育つオヒョウやシナノキなどの樹皮の内皮を剥ぎ、煮て乾燥させたのち細く裂いて糸を作り、糸に撚りをかけてから機で織り上げます。糸づくりだけで工程全体の8割を占めるといわれるほど手間のかかる作業で、樹皮の採取から反物になるまでに長い時間と労力を要します。天然の樹皮の色合いが織りなす縞模様が特徴で、水に強く通気性に優れ、天然繊維としては類稀な強靭さを持つといわれています。かつてはアイヌの人々の衣服に広く用いられ、100年以上続く技術・技法が現在も継承されています。2013年3月8日、二風谷イタとともに北海道で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。

本場黄八丈
Honba Kihachijo
本場黄八丈は、東京都心から南へ約290キロ、絶海の孤島・八丈島に伝わる草木染めの絹織物である。かつて「鳥も通わぬ島」と呼ばれた島の中で、室町時代には貢納品として白紬が納められていたと伝わり、現在に続く染色技法が確立したのは江戸時代の寛政年間(1789〜1801年)頃とされる。島に自生する植物だけを染料とし、黄色は八丈刈安(コブナグサ)、樺色(茶褐色)はマダミ(タブノキ)の樹皮、黒色は椎の木の樹皮を用いた泥染めによって糸を染め上げる。染めた糸を手投げ杼(てなげひ)で織り込み、無地・縞・格子といった極めてシンプルな意匠に仕立てるのが特徴で、着るほどに生地が体になじみ、洗うほどに色が冴えるとも言われる。黒染めには椎皮の煎じ汁での染色と天日干しを約40回も繰り返す入念な工程があり、深く艶やかな黒を生み出す。江戸時代中頃には縞や格子模様も織られるようになり、島の女性たちが代々受け継いできた手仕事として今日まで続いている。1977年(昭和52年)に国の伝統的工芸品に指定された。
優佳良織
Yukara-ori
優佳良織は、1962年に旭川出身の染織作家・木内綾(きうち あや、1924〜2006年)が創始した北海道独自の染織工芸です。羊毛を200色以上に染め分け、その色糸を綴れ織や浮き織の技法で織り込むことで、流氷やクロユリ、摩周湖の湖面といった北海道の自然風景を、まるで油絵を描くように一枚の織物へ表現します。染色・紡ぎ・機織りの全工程を手作業で行う点も大きな特徴です。名称はアイヌ語の「ユーカラ(伝承する)」に由来し、北海道の風土を後世へ伝える工芸でありたいという願いが込められています。木内綾は日本民芸公募展最優秀賞(1977年)やハンガリー国際織物ビエンナーレ金賞(1978年)を受賞するなど国際的にも高く評価されましたが、木内の没後、事業を引き継いだ北海道伝統美術工芸村が2016年に経営破綻し、拠点だった優佳良織工芸館は長期休館(実質閉館)状態にあります。現在は元債権者の高嶋良樹氏が2018年に設立した「合同会社 優佳良織工房」が、ベテランの織り手や染め手の協力を得て技術と作品の継承にあたっています。