理平焼(りへいやき)は、香川県高松市で焼かれている陶器です。1647年(正保4年)、初代高松藩主の松平頼重が京都・粟田口の陶工、森島作兵衛を招いたことに始まる、高松藩の御庭焼(おにわやき)とされます。作兵衛は藩主から「紀太理兵衛」の名を与えられ、窯は代々理兵衛の名とともに受け継がれました。江戸時代は理兵衛焼のほか、高松焼や御林焼とも呼ばれました。藩の廃止後に名を「理平」と改め、明治以降は民窯として茶陶づくりを続けています。京焼の大成者・野々村仁清の影響を受けた端正な形と、気品ある絵付けが持ち味です。窯は栗林公園の北門前にあり、創設以来途絶えることなく続いているとされます。2026年には14代の紀太洋子さんと15代候補の信吾さんが作陶を担っていると紹介されています。
発祥
理平焼の始まりは、初代高松藩主の松平頼重が1647年(正保4年)に、京都の粟田口で陶業を営んでいた森島作兵衛を招いたことにあるとされます。頼重は若い頃に京都の嵯峨で過ごし、そのころから作兵衛に器を作らせていたと伝わります。作兵衛は粟田口で野々村仁清に技法を学んだとされ、「高松仁清」とも呼ばれました。
歴史
1649年(慶安2年)、作兵衛は栗林荘(現在の栗林公園)の北に屋敷と窯を与えられ、「紀太理兵衛」と名を改めたとされます。以後、紀太家は代々理兵衛を名乗り、高松藩の御用の焼物師として茶陶などを焼きました。高松藩の廃止後は名を「理平」と改め、明治維新後は民窯として再出発しながらも、茶陶づくりの姿勢を保ってきました。武者小路千家との縁も深いとされます。
特徴
京焼の流れをくみ、野々村仁清の影響を受けた端正な造形と、気品ある絵付けが特徴です。京都の華やかさをそのまま持ち込まず、讃岐の空気に合わせて装飾を抑えた「抑制の美」を追求しているとされます。瀬戸内の風物を色絵で描いた器があるほか、土の性質から生まれる藤色の器肌も持ち味とされます。茶道具のほか、ぐい呑みなどの酒器も作られています。
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職人・工房
理平焼 窯元(紀太家)
栗林公園の北門前に窯を構える理平焼の窯元です。2026年の発表では、14代の紀太洋子さんと15代候補の信吾さんが作陶を担っています。信吾さんが成形と釉薬の調合・焼成を、洋子さんが手描きの絵付けを受け持ちます。洋子さんは先代の急逝後、京都で絵付けを学び直したとされます。
購入方法
- ワイヤードビーンズ「生涯を添い遂げるマグ」
- 全国の窯元と作るマグカップのシリーズで、2026年7月に理平焼の「波の絵」が加わりました。価格は1個16,500円(税込)です。信吾さんが調合した釉薬に、洋子さんが絵付けをしています。購入先を見る →PR
よくある質問
Q. 「理兵衛焼」と「理平焼」は違うものですか?
A. 同じ窯の焼物です。江戸時代は紀太理兵衛が焼いたことから理兵衛焼と呼ばれ、高松焼や御林焼という呼び名もありました。高松藩の廃止後に名を「理平」と改め、現在は理平焼の名で作られています。
Q. 紀太家はどのような家ですか?
A. 紀太家に伝わる由緒書によると、焼物の元祖は信楽の陶工・森嶋半弥重芳とされます。作兵衛の父にあたり、もとは豊臣秀頼に仕えた武士で、大坂の役の後に信楽へ逃れて陶工になったと伝わります。以後、紀太家は代々焼物師を務めてきました。
Q. 御庭焼とは何ですか?
A. 大名などが城内や屋敷の庭に窯を築き、陶工を招いて焼かせた焼物のことです。主に自家用や贈答用の茶道具などが作られました。理平焼は高松藩の御庭焼として始まり、藩主の保護のもとで作陶が続けられました。
Q. 江戸時代の理平焼の窯はどのようなものでしたか?
A. 窯は栗林荘(現在の栗林公園)の北に設けられ、「栗林荘古図」から連房式の登窯だったとみられています。5代目の時代には、窯を一時さぬき市富田へ移したともいわれます。現在も窯は栗林公園の北門前にあります。
Q. 理平焼ではどんな器が作られていますか?
A. 普段は茶道具を専門としており、取っ手のある器はこれまで作ってこなかったとされます。2026年には初めての試みとしてマグカップが製品化されました。15代候補の信吾さんは自ら茶道を学び、使う側の視点を大切にしているといいます。