菊間瓦(きくまがわら)は、愛媛県今治市菊間町で作られている瓦です。釉薬(ゆうやく)を使わずに焼き、最後にいぶすことで、表面に「いぶし銀」と呼ばれる独特の銀色の光沢を出します。このため「いぶし瓦」とも呼ばれます。起源は鎌倉時代の弘安年間(1278〜1288年)とされ、伊予の豪族・河野氏の時代に作り始めたと伝わります。江戸時代には松山藩の保護を受けて発展し、明治時代には皇居の御用瓦を納めました。温暖で雨が少なく瓦を乾かしやすい気候に加え、原料の粘土や燃料の松に恵まれ、船の便も良かったことが産地を支えたとされます。丈夫で変色しにくく、住宅や神社仏閣の屋根に使われてきました。魔よけの鬼瓦も名高く、町内では民家や寺社の屋根で見ることができます。1980年(昭和55年)に愛媛県の伝統的特産品に指定されました。瓦のふるさと公園の「かわら館」では、歴史の展示を見学し、瓦粘土での製作体験もできます。
発祥
菊間瓦の始まりは約750年前、鎌倉時代の弘安年間とされます。菊間町窯業協同組合の年表では、1278年に河野氏の建築工事を担い、城に瓦を納めたとされています。1573年(天正元年)には、安土城の築城に関わった一観上人(いっかんしょうにん)が訪れ、木型を使う製法を伝えたと記されています。江戸時代初めの1604年(慶長9年)には、加藤嘉明による松前城(伊予郡松前町)や勝山城(現在の松山城)の築城に際して瓦を納めたとされます。
歴史
江戸時代には松山藩の奨励を受け、1777年(安永6年)には瓦株の制度が設けられるほど生産が伸びました。窯元を27に限って質の低下を防いだともいわれます。京都御所や松山城の瓦も納め、販路は江戸や大坂のほか、台湾や朝鮮、中国にも広がりました。皇居の御用瓦は1883年(明治16年)に納めたとする資料と、1884年とする資料があります。1980年に県の伝統的特産品となり、2007年には地域団体商標に登録されました。
特徴
釉薬や塗料を使わず、焼成の最後にいぶして銀色に仕上げます。光沢が美しく、堅牢で変色しにくいとされます。断熱性が高く夏は涼しく冬は暖かいこと、吸水率が低く水はけが良いことも特長に挙げられています。瓦の種類が豊富で屋根の表現の幅が広く、和風住宅や神社仏閣に多く使われてきました。現在は近代的なガス窯で焼かれています。
技法
いぶし(燻化)
焼成の最後に、窯の空気を遮断して蒸し焼きにする工程です。炭化水素のガスを瓦に触れさせることで、表面に銀色の炭素の膜ができます。この膜が菊間瓦の「いぶし銀」の色と光沢を生み、変色しにくい瓦に仕上げます。
鬼瓦
屋根の棟の端に据える魔よけの瓦で、鬼瓦や飾り瓦を専門に作る職人は鬼師(おにし)と呼ばれます。菊間町の遍照院では、山門に仁王像の代わりに鬼瓦が祀られており、名工鬼師として光野貫一郎さんが知られています。
使用される素材
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職人・工房
かわらや菊貞(小泉製瓦)
創業300年と紹介される菊間町浜の瓦製造元です。伝統の瓦を作りながら、10代目の小泉信三さんが「菊貞」ブランドを立ち上げ、高温で焼き締めた食器や酒器、いぶしの濃淡を生かした瓦タイルなどを手がけています。
公式サイト →購入方法
- かわらや菊貞のギャラリー
- 菊間町浜13-1のギャラリーで、瓦の技術を生かした器や置物を購入できます。紹介記事では、干支の置物が1,000円から、フラットプレートが2,000円からとされていました。不定休のため、事前の電話確認が必要です。購入先を見る →PR
- 来島海峡サービスエリア
- 瀬戸内しまなみ海道の今治側にある来島海峡SAでは、菊貞ブランドのコースターや鬼瓦のミニチュア、魔よけの絵馬などを扱っていると紹介されています。
体験施設
よくある質問
Q. なぜ菊間町で瓦作りが盛んになったのですか?
A. 温暖で雨が少なく、瓦の乾燥に適した気候だったことが挙げられます。原料の良い粘土や燃料の松に恵まれ、瀬戸内海に面して船で運びやすかったことも理由とされます。今も海沿いに瓦工場が多く見られます。
Q. 菊間瓦は釉薬を使わないのに、なぜ銀色なのですか?
A. 焼成の最後に窯を密閉していぶし、瓦の表面に炭素の膜を作るためです。この膜が光を受けて銀色に輝き、「いぶし銀」と呼ばれる色合いになります。膜があることで変色しにくくなるとされます。
Q. 菊間町では、どこで鬼瓦を見られますか?
A. 民家や寺社の屋根のほか、遍照院の山門には仁王像の代わりに鬼瓦が祀られています。菊間総合体育館の入口横には巨大な鬼瓦のモニュメントがあり、瓦のふるさと公園には鬼瓦の口をくぐって滑り出すローラー滑り台もあります。