
萩焼(はぎやき)は、山口県萩市を中心に、長門市や山口市、阿武町で焼かれている陶器です。江戸時代の初め、萩藩主の毛利輝元が朝鮮半島から招いた陶工の李勺光(りしゃっこう)・李敬(りけい)兄弟に、御用窯を開かせたのが始まりとされます。焼き締まりの弱いやわらかな土味と、高い吸水性が持ち味です。使ううちに表面の細かなひび(貫入)から茶や酒がしみ込み、器の色合いが変わっていきます。これは「萩の七化け(ななばけ)」と呼ばれ、茶人に愛されてきました。形や装飾は簡素で、絵付けはほとんど行われません。そのぶん、土と釉薬、登り窯の炎が生む色の変化を楽しみます。茶の湯の世界では「一楽二萩三唐津」といわれ、茶碗の名品として楽焼に次ぐ評価を受けてきました。2002年(平成14年)に国の伝統的工芸品に指定されています。萩市内には100を超える窯元が点在し、手びねりや絵付けの体験ができる施設もあります。
発祥
萩焼の始まりは、文禄・慶長の役(1592〜98年)の後、毛利輝元が朝鮮半島から李勺光・李敬の兄弟を伴ったことにあるとされます。毛利氏が萩に移ると、兄弟は城下の松本(現在の萩市椿東)に藩の御用窯を築きました。開窯は1604年(慶長9年)頃とする説が一般的ですが、資料により年代には幅があります。李敬はのちに藩主から「坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)」の名を受け、その名は坂家の当主に代々受け継がれています。
歴史
当初は高麗茶碗に近い作風で、のちに楽焼の作風なども取り入れ、萩独自の茶陶へ育ちました。1657年頃には李勺光の子孫の一統が長門市深川湯本の三之瀬に窯を移し、「深川萩」の系統が生まれます(1653年とする説もあります)。城下松本の系統は「松本萩」と呼ばれ、1663年には三輪休雪が三輪窯を開きました。明治維新で藩の庇護を失うと衰退しますが、十二代坂倉新兵衛らが茶陶として再興します。1970年と1983年には三輪家の二人が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
特徴
原料には、防府市周辺で採れる砂礫まじりの大道土(だいどうつち)を中心に、鉄分の多い見島土や白い金峯土を配合します。比較的低い温度で焼き締まりを弱く仕上げるため、器はやわらかく、水を吸いやすい性質です。茶や酒がしみ込んで色が変わる変化は「茶馴れ(ちゃなれ)」とも呼ばれます。表面は白濁した藁灰釉(わらばいゆう)や、透明な灰釉で覆うものが多く見られます。茶碗では、高台(こうだい)の一部を切り込んだ割高台(切り高台)も萩焼らしい形の一つです。
技法
化粧掛け・刷毛目
成形して生乾きになった器に、白土を水で溶いた泥漿(でいしょう)を掛け、素地の色合いを整える技法である。刷毛で白土を塗って筆跡を残す刷毛目(はけめ)、象嵌(ぞうがん)、印花なども用いられ、加飾は控えめである。
藁灰釉と登り窯の焼成
釉薬は木灰釉、藁灰釉、鉄釉が基本で、藁灰釉は焼くと乳白色に、灰釉は透明に仕上がる。器は連房式の登り窯に詰め、下の房から順に火を入れて約1,250〜1,300℃まで上げる。炎の当たり方で色が変わる窯変(ようへん)が、一点ごとの表情を生む。
使用される素材
制作工程
- 1
土づくり
大道土・見島土・金峯土を配合し、水簸(すいひ)で精製して足で踏み、気泡を抜く。
- 2
成形
ろくろ、手びねり、押型、たたらなどで形を作り、2〜3日陰干しする。
- 3
削り・化粧掛け
カンナで形を整えて高台を削り出し、必要に応じて白土を掛ける。
- 4
素焼き
700〜800℃程度で、15〜16時間ほどかけてゆっくり焼く。
- 5
施釉
灰釉や藁灰釉などの釉薬を掛ける。
- 6
本焼き
登り窯に詰めて約1,250〜1,300℃で焼き、一昼夜から数日かけて冷ましてから取り出す。
| 主な産地 |
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職人・工房
購入方法
- 萩焼会館
- 萩市椿東3155にある萩焼の大型店で、茶道具から日常の器まで多くの萩焼を扱う。モダンなデザインの萩焼や、有田焼の窯元と協力した絵付けの器もある。銘菓などの土産物も販売しており、営業は8時30分〜17時である。購入先を見る →PR
体験施設
よくある質問
Q. 「萩の七化け」とは何ですか?
A. 萩焼は焼き締まりが弱く吸水性があるため、表面の細かなひび(貫入)から茶や酒がしみ込みます。長く使ううちに器の色合いが少しずつ変わっていく様子を「萩の七化け」と呼びます。茶人の間では、この変化が器の味わいとして珍重されてきました。
Q. 松本萩と深川萩の違いは何ですか?
A. 萩城下の松本(萩市椿東)で続いてきた系統を松本萩、長門市深川湯本の三之瀬で続いてきた系統を深川萩と呼びます。深川萩は、李勺光の子孫らが江戸時代前期に移って開いた窯に始まるとされます。どちらも藩の御用窯として受け継がれてきました。