
赤間硯(あかますずり)は、山口県の宇部市と下関市で作られている硯(すずり)です。名前は、下関の古い呼び名である赤間関(あかまがせき)に由来するとされます。原料は赤間石と呼ばれる赤紫色の石で、石英や鉄分を多く含み、緻密で粘りがあるため細かな彫刻にも向いています。硯の表面には鋒鋩(ほうぼう)と呼ばれる目に見えないほど細かな突起が密に立っています。このため墨が早くすれ、発色がよく伸びのある墨汁が得られます。鎌倉時代の初めに鶴岡八幡宮へ奉納された硯が赤間硯とされ、800年以上の歴史を持つといわれます。江戸時代には長州藩の名産として贈答にも用いられました。1976年(昭和51年)に国の伝統的工芸品に指定されています。現在、原石は宇部市万倉(まぐら)の岩滝地区で、職人自らが坑道を掘って採っています。採石から手がける職人はわずか数人とされ、貴重な手仕事となっています。
発祥
宇部市によると、源頼朝が1191年(建久2年)に鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)へ奉納した硯が赤間硯とされ、12世紀末には生産が始まっていたと考えられています。ただし起源を裏づける史料は乏しく、室町時代の1395年(応永2年)には作られていたことが確かめられています。当初は赤間関で作られる下関の名産品で、江戸時代初期の文献にはすでに「赤間硯」の名が見えます。
歴史
江戸時代には赤間関の大森家が「天下一」を称する硯師として知られ、毛利輝元所用と伝わる硯箱にもその銘を刻んだ硯が残ります。1645年刊の『毛吹草』には、萩焼などと並ぶ長州の名物として挙げられています。原石の産地は藩が管理し、一般の立ち入りは禁じられていました。18世紀には採石の中心が宇部市側へ移ります。明治以降は習字の普及で生産が盛んになりましたが、戦後は職人が大きく減りました。
特徴
赤間石は赤みを帯びた紫色の石で、緑色の層を含むものや、目玉のような模様の石眼(せきがん)が現れるものもあります。石の種類は、赤色頁岩(せきしょくけつがん)とも輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかいがん)とも説明されます。硬く緻密でありながら粘りがあり、縁を薄く立てたり、透かし彫りを施したりできます。鋒鋩が細かく密なため、墨を細かくすり下ろし、さらりとした伸びのよい墨汁になります。
技法
坑道掘りによる採石
赤間石は乾燥に弱いため、山に掘った坑道から職人自らが掘り出す。坑道にたまった水をポンプでくみ出して入り、深さ5〜40mほどで石の層に達する。厚さ10m前後の層のうち硯に使えるのは1m余りで、金づちで叩いた音を聞いて使える石を選び分ける。
加飾彫り
陸(おか、墨をする所)と海(墨のたまる所)を彫った後、幅2〜10mmほどのノミで手彫りの装飾を加える。形を浮き上がらせる浮かし彫り、穴を抜く透かし彫り、石肌を見せるたたき彫り、細い線を刻む毛彫りなどがあり、精巧な品は数日がかりとなる。
目立てと漆仕上げ
砥石や耐水ペーパーで磨いた後、墨をする陸の部分は目立て石で仕上げ、鋒鋩を整える。磨きすぎると墨がすりにくくなるため加減が要る。陸と海以外には漆を薄く塗って拭き取る作業を繰り返し、風化を防ぎつつ光沢を出す。
使用される素材
制作工程
- 1
採石・選別
坑道から赤間石を掘り出し、叩いた音で硯に適した石を選ぶ。
- 2
形作り
カッターやタガネ、ハンマーでおおまかな形に整える。
- 3
じぎり
水と珪砂を研磨剤にして、表と裏を平らに削りそろえる。
- 4
縁立て
陸と海の境目を彫り、硯の縁を立てる。
- 5
彫り
粗彫りで陸と海、両者をつなぐ「胸」を作り、仕上げ彫りで彫り跡を消す。
- 6
磨き
砥石や耐水ペーパーで磨き、陸を目立て石で仕上げる。
- 7
漆塗り・仕上げ
陸と海以外に漆を塗っては拭き取り、最後に刷毛で磨いて仕上げる。
| 主な産地 |
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職人・工房
よくある質問
Q. 赤間硯と吉田松陰にはどんな関係がありますか?
A. 赤間硯は幕末の志士にも愛用されました。吉田松陰は愛用の赤間硯を「功臣」にたとえたといわれ、その硯は萩市の松陰神社に御神体として祀られています。
Q. 赤間硯の産地はなぜ下関と宇部の二か所なのですか?
A. 赤間硯はもともと赤間関(下関)で作られていましたが、江戸時代に原石の採石地が移り、18世紀には採石の中心が宇部市側になりました。それ以来、宇部市と下関市の両方が産地となり、現在は宇部市万倉の岩滝地区で原石が採られています。